UZUKI
藤沢 志門
第1話 UDUKI(100)
空気に染み付いた煙の臭いは、どうにも好きになれない。
度重なる銃撃戦で荒廃した街に走る川のほとりで、草むらに身を隠していた上坂幸太郎は、右手に錠剤を握っていた。UDUKIと呼ばれるそれは、飲み込むと猛烈な吐き気が襲ってくる代わりに自らの身体能力が4時間だけ強化される。だが一方で、摂取量が100粒に到達すると自我が崩壊する。と幸太郎は上官から聞いていた。今、彼が握っているのは、その100粒目に当たる。いつ、弾が飛んでくるのかもわからない緊迫の中で、幸太郎はUDUKIを飲み込んだ。
途端に猛烈な吐き気が催してきて、熱いもので一杯になった喉と口を押さえながら、必死に声を我慢する。体中から、息を吐くたびに玉のような汗が吹き出し、口の端からは窓を伝う雨水のように、唾液が零れていた。横目だけで周りの状況を確認するが、主だった動きはまだない。今のうちにと幸太郎は自らの息遣いだけに集中する。
そうして、背中に張り付いたシャツが冷え始めた頃に、ようやく吐き気は引いて行った。
やっと落ち着いてきたか、と安堵しているのも束の間、今度は自分の内側からどす黒い殺意のような衝動が沸き上がってきて、幸太郎自身を飲み込もうとする。金縛りにあったように手足の自由が利かなくなり、意志とは反対に、体は草むらに身を潜めて移動を開始した。この時点で、さっきまでいた幸太郎はもういない。今は体の内側から、まるで人体実験で使われる容器の中から見下ろしているように、勝手に動く自分の姿を俯瞰的に見ていた。
だがこれは、決して危機的状況というわけではない。寧ろ、こうして衝動のままに暴れまわるために、幸太郎は軍に呼ばれ、UDUKIを飲まされ、現在、母国である公国の特殊部隊〝I・C〟として敵国スリジェと戦っている。普通の感覚ならば、UDUKIを飲んだ時点で話が違うと上官を疑うのだろう。だが幸太郎の場合、彼が物心つく頃には既に、自分の価値が「戦って国に勝利をもたらすこと」のみだと大人たちに教え込まれてきたせいで、普通の感覚が備わっていない。そして、UDUKIを用いた戦闘が結果的に最も効率よく勝利を収められることからも、これを疑うという思考には至らなかった。
そんな中、いつもなら仲間も動き始めているであろう時に、次々と彼らのうめき声が聞こえた。何事かと辺りを見渡すと、数人の戦闘員が自らの耳を震えるように押さえては、立ち上がって叫ぶ者、頭をしきりに地面にぶつける者など様々に発狂していた─
だが、その地獄絵図ともとれる状況を、一発の銃声がかき消した。
たちまち発狂していた一人がその場に崩れ、辺りが息を忘れたような緊張に包まれる。幸太郎もライフルを構え、状況把握に努めた。こうした状況は今まで何度かあった。だが、そういう時は決まって隊長から何らかの合図がある。しかし、今はそれがない。不測の事態なのか、それとも彼が状況を掴めていないのか、いずれにせよ幸太郎は、その場にじっとしたまま手に汗を握っていた。そうしている内に一人、また一人と仲間は撃たれ、徐々に銃声はこちらへと近づいてくる。
それに焦ったのか、離れた草むらで何度か爆発音が空を切るのが聞こえた。だが、たちまちそれは被さった銃声で断たれ、不気味なほどの静寂がまた訪れる。
一連の動きに耳を澄ませていた幸太郎だったが、不思議なことに弾を放った人物は仲間の位置を的確に押さえ、無駄な消費を抑えてトリガーを引いていた。初見では味方の位置すらわからないような草むらの中で、敵は確実に一人ずつ仕留めていた。それどころか、味方が撃った弾の位置を、まるで知っているかのようにかわして移動している─
それがわかったとき、幸太郎の手には汗がじっとりと沁みついていた。
恐らくだが、今自分が敵と判断した人物は、発狂した味方の内の一人だった。つまり、今自分たちは仲間同士で殺し合いをしていた。そして、仲間の位置がわかるのはI・Cの隊長と副隊長のみで、さらに弾の動きまで予測できるとなると、確実にそれは隊長のレイ以外にいなかった。彼を相手にするとなると、自分のライフルでは武器にならない。彼に見せたことのない動きを探した中で結局残ったのは、ナイフを使った近接戦闘のみだった。
幸太郎はライフルを捨てて、ベルトに携帯していたナイフを握り、移動するレイを視界に捉える。仲間の位置も考えて、一番勝ち目のある瞬間を見出し、足に力を入れたその時─
今まで見ていた世界が、無造作にページをめくられたように視界から消え去り、辺り一面が真っ白な空気に覆われた─
幸太郎は立ち上がって辺りを見回した。霧にしては高度が低いし、煙幕が発生したような音もない。仕方なく、ナイフで突くと、それはただの壁だった。なぜ目の前に壁が出現したのかわからないが、状況を把握するため、後方を振り向いたその時─
突如目の前に無表情の幼女が現れた。幸太郎は慌てて後ろに後退した。だが、すぐ壁に当たり、退路が絶たれてしまった。
ふと、幸太郎は前にもこんなことがことがあったと思い出した。その時は、相手の顔に靄がかかりよく見えなかったが、今回ははっきりと捉えることができる。仕方なく彼女をよく観察することにした。だが、弱弱しく目の前に立っている彼女からは、殺意どころか他のどんな感情も読み取れなかった。
服は汚れ一つなく真っ白で、空間にほぼ同化している彼女は、黙って幸太郎を見ている。
何秒とそうして見つめあっていただろうか、ふと幼女はこちらに歩いてきて、縋るように両手を伸ばした。幸太郎は思わず身構えたが、幼女は幸太郎の顔ではなく左手を見つめていた。さっと視線を落とすと、左手にはさっきまでそこに無かった大きな茎が、丸裸の状態で収まっていた。それを見ると幼女はさらに近づいてきて、その茎を取ろうとする。幸太郎は初めて見るその茎が何なのかわからず、気づけば幼女に渡していた。
幼女は礼をするようにぎこちなく頭を下げると、持っていた茎をしばらく見つめた後、バリバリと音を立てて嚙み始めた。嚙みちぎられて割れた断面から、黄色の汁が飛び散って、幼女の口周りに付着する。尚も幼女は茎を噛み、ついにはその全てを飲み込んだ。
何もなくなった手のひらをじっと見つめた後、幼女はまた深々と頭を下げた。
「ごちそうさま」
と、幸太郎には聞こえた気がした。
すると辺りを囲んでいた白い空気が消え去り、幸太郎は元居た場所に戻っていた。
─今のは何だったのだろうか─
考えをまとめていると突如左の方から叫び声が聞こえた。
既にレイの姿は視界から外れている。急いで視野を移すと、レイが副隊長であるミナミの手を踏みつけ、今にも引き金を引こうとしているところだった。
─この距離ならいける!─
幸太郎は強く地面を蹴ると、レイめがけて走った。レイがそれに気づき、こちらに銃口を向ける─が、それより早く幸太郎はポケットからライトを左手に取り出し、レイの目に向けて発光させた。レイは眩しさに目をつむる。その一瞬を逃さずに、幸太郎はレイの右腕をナイフで切りつけた。そのまま、背後に回って腿の裏を切り、ふくらはぎを切って、膝をついたところで首の側方を切りつけた。黒く紅い血が噴き出し、幸太郎と下にいたミナミは全身にその雨を受けた。本来なら、切った直後にその場を離れるべきだったが、今はそれが出来なかった。
間もなくしてレイは、その場に崩れ落ちた。
「そこを動くな!」
後方から声がして、背後を振り返る。そこにいたのは公国の一般兵だった。だが、倒れたレイとナイフを持つ返り血まみれの幸太郎を見たその兵士は、たちまち声を上げて逃げて行った。
幸太郎はその場に立ち尽くしたまま、レイを見つめる。だんだんと鼓動が大きくなり、体が熱を帯び始め、さらに奥深くから何かが呼び起こされるような感覚がした。その瞬間、内側にあった幸太郎の意識は黒い渦に飲み込まれ、上坂幸太郎は完全に内なる衝動に体を奪われた。そして数秒後、意識を失った。
それからの記憶はほとんど無い。恐らくあのまま自分も他の仲間を一人残さず切りつけたのだろう。気づけば牢獄の暗い檻の中で、一人静かに座っていた。
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