第7話 預言の花

 寮に帰ると、唯花はすぐに自室に閉じこもってしまった。


 三谷は心配そうにその様子を見ていたが、念のため問題ないと伝えておいた。

だが、幸太郎も階段を上ろうとしたとき、三谷が急に引き留めた。


「上坂さん、今日ズボンを洗っていたら、こんなものが出てきたんだけど」


 三谷は、カサカサと音を鳴らして、SAKURAの入ったシートを見せた。幸太郎は急いで三谷に近づき、シートを受け取る。幸太郎の焦った様子を三谷は不審に思ったが、幸太郎は「ただのビタミン剤だ」とだけ言うと、最大限の注意を払って平静を保ちつつ、自分の部屋に入った。


 扉を閉めると、手に持っていたシートを急いで机の引き出しにしまった。


「まさか気づかれるとは─」


 幸太郎は手に汗を握っていた。三谷はまだSAKURAを知らないようだったが、よく見ればUDUKIとほぼ同じそれは、わかる人にはすぐわかってしまうだろう。知られたら、それこそここにもいられなくなるかもしれない。幸太郎は、SAKURAをズボンに入れたまま忘れてしまった、昨日の自分の迂闊さを悔やんだ。

 

 だが、まだ落ち着いてはいられなかった。椅子にもたれて今後SAKURAをどうするか考えていると、自室の扉を3度叩く音がした。


「三谷です、上坂さん、ちょっとお話があるんですが」


 幸太郎は背中を汗がつたうのがわかった。最大限ばれないように部屋を片付けてから開けるべきか。だが、あまり待たせては怪しまれる。考えた結果、ベッドに寝転がった状態で、三谷を部屋に入れた。


「あら、お休み中でしたか。お邪魔してすみません」


「構わない。それで何かあったのか」


「いえ、その……さっきの薬のことですが」


 やっぱりその話が来たか。掛布団にくるまりながら、幸太郎の手足に力が入った。


「別に言いたくなければ、あれが何かは言わなくて構いません。ですがもし、何かお悩みでしたり、私たちに出来ることがあったら、気にせず言ってくださいね」


 予想外の発言に幸太郎は少々面食らった。


「さっきのお薬については、唯花にも言いません。でもあの子も上坂さんのために何かできないかといつも考えているのだと思います。それだけはわかっていてもらえると嬉しいです」


 幸太郎は、さっきまで保身のことしか考えていなかった自分が恥ずかしくなった。唯花も三谷も、出会う前から自分のために動いてくれていたのに、自分は彼女たちに嘘をつこうとしている。だけどこの嘘をつかなければ、もう二度と二人の笑った顔は見られないような気がした幸太郎は、断固としてSAKURAが〝ただのビタミン剤である〟と言う姿勢を崩さなかった。


「ありがとう、さっきのはまだ慣れない自由な生活に、体が追い付いてきていないからもらってきたんだ。でも、何かあったらすぐに言うよ」


 こんな嘘しかつけない自分が情けない、と幸太郎は再び自分を恥じた。


 三谷は頷くと、静かに扉を閉めた。1階に下りて行ったのを、耳を澄ませて確かめると、幸太郎はベッドから起き上がって、机の引き出しからSAKURAを取り出した。


 とにかくこれからの生活で、が何かを知られるようなことがあってはいけない。このまま引き出しに入れておくよりも、常に携帯したほうが良さそうだった。どこかいい場所はないかと探して、窓の前にかけたコートが目に入る。これなら洗濯にも出さないし、見られる危険性も低いだろうと、内ポケットにシートをそのまま隠すことにした。あとは自分がぼろを出さないように気を引き締めればいいだけだ。


 せっかく手に入れ始めた普通の生活を失うわけにはいかなかった。


 それからというもの、三谷や唯花との接し方には細心の注意を払った。唯花とは変わらず、放課後も甘味処やゲームセンターなどに行っては、思う存分その場を楽しむことにした。一方の三谷とは、寮での会話がほとんどで、彼女の質問にも一言一句問題がないか確かめてから答えるようにした。そのため、彼女との会話ではいつも不自然な間が生まれる。自分でも明らかに怪しいと思うその間を、しかし三谷は気にせず、と言うより敢えて流してくれていた。唯花も、時々幸太郎の顔を見ることはあったが、その間や三谷への対応について何かを言ってくることはなかった。


 翌日、その日もクラスメイトとは接することなく、放課後を迎えた。


 いつもなら唯花と帰るのだが、今日は用事があるみたいで幸太郎は一人で帰ることになった。ホームルーム後、すぐに下駄箱へ向かったのはいいものの、いざ寮に帰ってもやることはないし、三谷と二人になるのも気まずいなと思い、せっかくなので生徒会室を訪れることにした。


 さっき下りてきた階段を上り、まだ生徒が残っている3階の廊下を通り過ぎる。途中、部活中のクラスメイトがすぐ横を通り過ぎて行ったが、自分には目もくれずに走り去っていった。それができるなら、クラスでもそうして欲しいと幸太郎は足早にその場を通り過ぎた。


 玄関で見た校内図を頼りに最奥まで進むと、右側に生徒会室と書いた部屋を見つけた。唯花の話を聞いた限りだともっと荘厳な造りの部屋なのかと予想していたが、実際は科学準備室のような間取りの空き教室だった。少々拍子抜けさせられたが、目的は部屋ではないので、引き戸に手をかけてすぐさま3度ノックした。


 中から、「はーい」と女性の声が聞こえて、足音が近づき5秒後、引き戸は開けられた。


 目の前には、黒髪ボブで人形のように顔がくっきりとした少女が立っていた。身長は160センチぐらいで、制服をきっちりと着こなしている。堂々とした雰囲気からも、この少女が生徒会長で間違いなさそうだった。


「あんたが生徒会長か?」


 念のために確認を取る。


「はい、そうですけど。貴方は?」


「俺は、上坂幸太郎だ」


「ああ、はいはい。今話題の」


「なんだ? 何か話題になることでもしたか?」


「ええ、上坂さん。何でも編入早々、ご自分は元I・Cのメンバーだと言われたとか」


「それはそんなにまずいことなのか?」


 幸太郎は、先日屋上前で、唯花に釘を刺されたことを思い出していた。


「いえいえ、構いません。ただ、この学校の生徒は皆なぜか、私を絶対的な何かと勘違いされているようで、そんな生徒さんたちから見れば上坂さんの発言は、スリジェ生まれの私を愚弄しているとでも思ったんでしょう」


「ん? 聞いていた話と違うぞ?」


「あら、そうですの?」


「俺は、皆がI・Cへの恐怖みたいなのを思い出したからって……」


「ああ、なるほど。そういう方もいらっしゃるかもしれませんね」


 この生徒会長からはとてつもない自信を感じられた。それと同時に、幸太郎はまだ自分の話しかしていないことに気づいた。


「それで、あんたに頼みがあって来たんだが」


「はいはい、ここでは何ですので狭いですけど、どうぞ入ってください」


 幸太郎は促されるままに室内に入った。部屋の中央に談話用の黒いソファとテーブルがあるくらいで、周りは使っていなさそうな本や箱が積まれていた。だが、その倉庫のような見た目とは裏腹に、部屋中甘い香りが充満していた。


 生徒会長は、引き戸を閉めると品のある所作で引き戸側のソファを指し、幸太郎に


「どうぞ、おかけください」


 と言った。その動きに何となく見覚えがあって、不躾に彼女を見る。


「どうか、なさいましたか?」


「いや、知人に似ているなと思って」


「あら、そうでしたか」


 幸太郎は、彼女の一挙手一投足がオリヴァのそれに似ているなと思ったが、外見は似ても似つかないので、さすがに言わないでおくことにした。


「もしかしたら、そうかもしれませんね」


 生徒会長はソファの左にある戸棚からカップを二つ取り出し、隣にあったコーヒーメーカーを起動した。


「出来上がるまで、少々お待ちくださいね」


 生徒会長は幸太郎に微笑む。目に力があり、なんだか引き込まれそうだ。


「いや、そんなに長居するつもりはない」


「いえいえ、これもご縁ですから」


 彼女は、上の戸棚を開けて小分けのマドレーヌがたくさん入った籠をテーブルに置いた。


「よかったら、こちらも召し上がっていってください」


「……じゃあ、一つだけ」


 彼女の押しに負けて、幸太郎はビニールの袋を開けた。


「……美味いな」


「でしょう! 私も好きなんです、そのマドレーヌ」


 生徒会長は、幸太郎の向かいに座って、一袋開けた。


「とっても安いんですけど、いつも安定した美味しさが楽しめるんです。まさに製造者さんの技術の賜物ですよね」


 幸太郎は何も答えずに、残ったマドレーヌを口に放り込んだ。


「それで、お話とは?」


 口に入ったマドレーヌを飲み込んでから、生徒会長が尋ねる。


 すると幸太郎が、右手を前に出して制止した。


「おっと、その前にあんたの名前をまだ聞いていない」


「そうでした、私、クーリル・ベル・ラブニールと申します。こちらに来てからは筒治未来と名乗っています。どちらで呼んでいただいても構いません」


「じゃあ、筒治さんと。いきなりだが、ある人間のために屋上を使わせてほしい」


「ほう、それまたいきなりですね。詳しく聞かせていただけますか?」


「その、ある人間が誰かは言えないが、その人はクラスに馴染めなくて、いつも隠れて一人昼食を食べているんだ。その人には恩がある。俺としては、その人が一息つける場所を学校に作ってやりたいんだ」


「なるほど、つまりその方のために屋上を使わせてほしいと、そういうことですか?」


「ああ、何とかできないか」


「うーん、そうですね」


 筒治は右の手のひらを首の横に当てて考えこんだ。


 コーヒーメーカーの出す音だけが、室内に鳴り響く。コーヒーは既に一人分のメモリに到達していた。


「わかりました。いいでしょう」


 筒治はあっさりと、承諾した。幸太郎は思わず表情を緩ませた。唯花に聞いていたよりも随分イメージと違った。常に張りつめていてお堅い人物なのかと思っていたが、これまでの様子を見る限り、それは全くのデマだった。


「それじゃあ……」


「ただし」


 筒治が、幸太郎を制止する。コーヒーメーカーのドリップを完了した合図が、甲高く室内に鳴り響いた。


「貴方は、私に協力してください。私が協力するんだから、その分の対価は求めてもよろしいですね?」


 急に、筒治の雰囲気が変わった。彼女の声に重みが増してくる。


 幸太郎は恐る恐る尋ねた。


「……具体的には、何をすればいいんだ?」


 すると、筒治は立ち上がってサーバーをカップに傾け、コーヒーを淹れた。しばらく沈黙が訪れ、筒治がソーサーにカップを載せる音が鳴り響く。それらをテーブルに置くと、彼女は口を開いた。


「そうですね、まず、上坂さんにはI・Cの知り得る限りの情報をすべて教えて頂きたいです」


「それは……」


「まだ、終わっていません。もう一つ、まあ、大体見当はついているんですが。上坂さんの言う〝その人〟に会わせてください」


「おい、それは……」


「これが吞めなければ、この話は無かったことにさせて頂きます」


 幸太郎は、悩んだ。単に屋上の鍵を貸してもらうだけのことに対しての見返りが、あまりにも大きすぎる。I・Cの情報もそうだが、筒治に対して良い印象を持っていない唯花を会わせてもいいのだろうか。


「言っておきますけど、I・Cの情報はもうこの国に住むほとんどの方が、ある程度のことまでは知っています。ですので、あまり貴重なものではありません」


「だったら、言う必要もないんじゃ」


「私としては、政府の出している情報が正しいと確証が取れれば、それでいいのです。そのために貴方の持っている情報が欲しい。ですが、これだけでは、貴方の要求の半分ぐらいしか見返りをもらっていない。それだけ、屋上の鍵を渡すことは大変なことなんです」


「屋上に、簡単には見せられないものでもあるのか」


「まあ、そうとも言えます」


 幸太郎は腕を組んだ。だが、こちらが頼んでいる側である以上、これ以上の発言はこちらに不利に働く可能性が高い。唯花には、話したうえでどちらか決めてもらえばいい。とりあえず、ここまで話を進められただけでも今日はよしとしよう。


「わかった、だが二つ目の条件は本人に聞いてみないとわからない」


「ええ、構いません。ゆっくり考えて決めてください」


 筒治は、ソーサーに手を添えてカップを口元まで運んだ。


 気づけば5時を過ぎていた。校内は、部活動をしている生徒以外は残っておらず、幸太郎は誰とも会わずに玄関を出た。

野球部の声や吹奏楽部の奏でる音を遠くに聞きながら坂道を下りて、彼は先日唯花と行った「gloria」に向かった。


 今回は自分のペースで歩けたので、躓くこともなかった。


 まだ、日は出ていたが「gloria」は既に照明を点けていた。扉を開けると、中から花の香りと黄色い笑い声が聞こえてくる。扉に付いていたベルが鳴り、エプロン姿の店員がカフェスペースから出てきた。


「こんにちは、何名様ですか?」


「いや、今日は花を見に」


「あ、そうでしたか」


 店員の男性は珍しそうに、幸太郎の顔を見た。だが、すぐに仕事モードに入り、入り口から見て右側を指し「ごゆっくり」と言って奥に戻っていった。


 花屋に入るなり、左にメガネをかけた不愛想な男性が立っていた。カウンターで花の包装をしているので、恐らく店員だろう。幸太郎は頭を下げて前を通ったが、彼は幸太郎には目もくれず、包装作業を続けていた。


 花屋のスペース自体はカフェほど広くはないが、端から端まで色とりどりの花で埋め尽くされていた。ゆっくりと歩きながらそれら一本一本を眺めていたが、ふとその内一本が気になって、幸太郎は立ち止った。


「クリスマスローズ」


 活けている花瓶に付けられた札には、そう書かれていた。葉や茎は力強く、まだ黄緑とも白ともとれない色の花弁は閉じて下を向いているが、端はほんのりと赤紫色に染まっている。幸太郎は、それが可愛らしく上品で、綺麗だと思った。


 周りの花に気を付けながら、角度を変えて下から覗いてみる。微かに開いた花弁の先には、黄緑色の柱頭が見えた。見れば見る程、その花に魅入られ、幸太郎は不愛想な店員を呼んだ。


「この花を買いたいんだが」


 すると、店員は作業を止めて幸太郎に近づいてきた。


「どのくらいだ?」


 店員は低く、喉元で響く声で尋ねる。


 幸太郎は少し考えて、唯花の顔を思い出した。部屋に飾れるぐらいがいいか。唯花の部屋の中を見たことはないが、自分の部屋の広さとあまり変わらないと思う。


「少しでいい。部屋に飾れるぐらいで頼みたいんだが」


「他に、いくつか合わせるか?」


 店員が、辺りの花を見渡した。


「いや、それだけでいい」


「承知した」


 彼は、花瓶から数本クリスマスローズを抜き取ると、手早く形を整えてまとめた。


「1500円」


 彼が値段を言って、電卓を見せる。


「これで、いいか?」


 幸太郎は、ポケットに入れていた身分証明書を見せた。すると店員は、不意に表情を険しくした。


「なるほど、君が……」


「ん? どうかしたか?」



─チャリリンッ─



 入り口のベルが鳴り、誰かが花屋に入って来た。


「おや、珍しいな。君も花が好きなのかい?」


 紺のコートを羽織ったベルトリエが、幸太郎に声をかけた。


「なんで、あんたがここに?」


 幸太郎は、警戒してベルトリエに尋ねる。


「いやいや、僕だって花ぐらい買うよ」


「花ぐらいとは失礼だな」


 幸太郎の背後で店員が口を開いた。さっきまでほとんど喋らなかったのに、急に口調が強くなった。


「ごめんごめん、そう怒んないでよ」


「いいや、お前はいつも失礼で反省しない。今回ばかりは許さん」


「もう、そう言ってても、明日には普通に接してくれるじゃん」


 幸太郎は二人の言い合いに、一人置いて行かれていた。そんな呆気に取られている幸太郎に気づき、ベルトリエが言った。


「ああ、ごめんね幸太郎君。こいつとは長い付き合いなんだ。こう見えて僕ら、すごく仲がいいんだよ」


「お前が一方的に絡んでくるだけだろ」


「そんなこと言って、いつもいい花揃えてくれるじゃん」


「花は仕事だ。お前とは関係ない」


「またまたー」


「うるさいな、花取りに来たんだろ? さっさと持ってけ」


 店員は、さっき幸太郎が入店した時に見た花束をカウンターの端に寄せた。


「いつも悪いね、今日もこれで頼むよ」


「そういや、この青年が前言ってた子か?」


「そうだよ、いい子でしょ」


 店員は再び幸太郎の顔を見ると、さっきまで愛想のなかった頬を一瞬緩めて、息を吐いた。


「君も変な奴に気に入られたな」


「おい、変な奴とは聞き捨てならないぞ」


「何も間違ってないだろう」


「そうかもしれないけど、君の方が変わってるよ」


「あ? そこまで言うなら、もう花は作らんぞ?」


「いや、冗談だって。もう、お堅いなあ」


 幸太郎はただただ二人のやり取りを見ているだけだった。ベルトリエもそうだが店員の変わりようにも驚いた。さっきまでとは別人のようだった。


 だが自分も、ゆっくりはしていられない。タイミングを見計らって、幸太郎は店員に聞いた。


「すまない、それで会計は」


「ああ、さっきのカードで十分だ。こいつのところから代金は入るからな」


「お、ちゃんと使えてるみたいだね」


 ベルトリエは「良かった、良かった」と頷いた。


「じゃあこれを」


 店員は幸太郎に、包装したクリスマスローズを渡した。


「お、クリスマスローズじゃないか。いいね、僕もその花は好きだよ」


「有名なのか?」


「うん、割と一般的に知られてる花だよ。預言の花と呼んでいる国もあるみたいだね」


「預言の花……」


「そう、神託だよ。数奇な運命に満ちた君には、ぴったりな花かもね」


「おい」


 ベルトリエの言い回しに、店員が注意する。


「ああ、すまない。失礼した。それじゃあ、僕はもう行くよ。またね、幸太郎君」

 そう言うとベルトリエは花束を抱えて店を出ていった。


「君、大丈夫か?」


 店員が心配して幸太郎に尋ねる。


「ああ、俺も行くよ」


「おう、また来てくれ」


 幸太郎はクリスマスローズを逆さに持って、店を出た。


 外は既に日が沈み、吐く息が白くなっていた。幸太郎は歩きながら、先程聞いたベルトリエの言葉を思い出していた。彼が言っていた「預言の花」という言葉、それが妙に引っかかっていた。初めて聞いた話のはずなのに、既に知っていたような気がする。かなり昔から自分の中にあって、今でも自分という人間を作るのに大事な部分を担っているような、それぐらい自分にとって大きなもののように思えてならない。だが、それがいつからなのかは、まったく思い出せなかった。


 クリスマスローズ、預言の花、白、赤紫……


「UDUKI」


 耳元で幼い女児の声が聞こえた。


 幸太郎は振り向いた。だが、そこには誰もいない。


「ねえ、幸太郎。それがUDUKIだよ?」


 再び、声が聞こえる。もう一度振り向いたが、やはり人影一つない。しばらく辺りを見回したが、自分の周りには建物と喫茶店の前に設けられたベンチ以外、何もなかった。



 

 その後、寮に帰るまで一度もその声は聞こえなかった。奇妙には思ったが、女児の声が聞こえたこと以外は特に何も起きなかったし、自分の体に調子が悪いところもなかった。


 だが、それとは別で、世間ではある問題が起きていた。

 

 寮の玄関を開けるなり、唯花が走って来た。


「上坂さんっ」


 目に涙を浮かべて、唯花が幸太郎に抱きついてきた。


「おい、どうした」


「だって……無事で……」


 唯花は嗚咽を漏らしながら、幸太郎をより強く抱きしめて答えた。


 そこに三谷も走って来た。


「上坂さん、ご無事ですか?」


「無事は無事だが、何かあったのか?」


「さっき、街で暴動が起きたみたいで、それも元I・Cの人たちが狙われたみたいなんです」


「……! 怪我人は? 襲われた奴は無事なのか?」


「それが、まだ詳しい情報が入ってなくて」


 幸太郎は唯花に当たらないように、足だけで靴を脱ぎながらテレビの方へと向かった。唯花もそれに合わせてついてくる。


 テレビでは、キャスターが速報を伝えていた。今から5分前、本部の近くにある喫茶店に武装した暴徒が入ってきたらしい。まだ怪我人の情報は入っていないが、店内には元I・Cのメンバーもいたらしい。まだ犯人も捕まっていない中で、犯行の動機は元I・Cメンバーを狙ったものではないかと、キャスターは伝えた。


「こんなの、ひどすぎます。I・Cの人たちは何もしてないのに」


「いや、これが世間の見方なんだろう」


「それでも……」


 唯花は再び泣き始めた。


 予想をしていなかったわけじゃない。ベルトリエや唯花の話を聞く限り、自分たちをあまりよく思っていない人間が一定数居ることも、幸太郎はわかっていた。正直、時間の問題だとは思っていたが、こんなに早く起きるとは思っていなかった。


 大体なんで、あれだけ監視ロボットがいる街中で、武装をした人間が「異常」と判断されずに人を襲うことが出来たのだろうか。断定はできないが、ロボットを所有する軍にも敵対する人間がいる可能性は高いと見て間違いないだろう。


「上坂さん、それで今までどこに行ってたんですか」


 唯花は泣き止んではいたが、涙と鼻で顔はぐちゃぐちゃになっていた。


「gloriaに行ってたんだよ。花を買いに」


「それって……」


 唯花は幸太郎の手元にあるクリスマスローズを見た。


「うん、クリスマスローズっていう花らしいんだけど、知ってるか?」


「しっ……ええ、勿論。私の好きな花です」


「そうか、良かった。これ唯花に買って来たんだ」


「えっ、私にですか?」


 唯花はクリスマスローズの束を受け取ると、つぼみの一つ一つを眺めた。


「ありがとうございます……じゃなくて!」


 唯花は我に返って顔を上げ、話を戻した。


「上坂さんも何があるかわかりません。あんまり外は出歩かない方がいいかもしれないです」


「そう言われてもな」


「だめです! どうしてもと言うなら、私も連れて行ってください」


「それは尚更ダメだろ」


「私は大丈夫です、こう見えて昔、軍にいたこともあるんです」


「は? 君はまだ17だろ? そんなことが」


「あるんですよ。実際に戦闘にはあまり出ませんでしたが、訓練もしっかり受けていました」


 幸太郎が三谷を見ると、彼女は無言で頷いた。


「わかった、だが危なくなったらまず逃げること。これは守ってくれ」


「わかりました。はあ、でも本当に上坂さんが無事でよかったです」


 唯花は服の袖で涙を拭きながら、クリスマスローズを大事そうに持った。


「おい、それじゃあ服が濡れるぞ」


「いいんです、これ私の部屋に飾ってもいいですか」


「まあ、そのために買って来たからな」


「ありがとうございます。そう言えば、上坂さんはまだ私の部屋、見たことありませんよね」


「まあ、だけど無理に見せなくていいよ」


「いえ、時期が来たら見せます。別で見せたいものもあるので」


 そう言うと唯花は、階段を上っていった。テレビはまだ同じニュースについて取り上げている。だが幸太郎は、テレビに背を向けて玄関へと行き、脱ぎ散らかした靴を揃えた。


「上坂さん……」


 三谷が幸太郎の胸中を案じて声をかけた。 


「大丈夫、三谷さん。直にここも危なくなるだろうから、俺ももうすぐここを出るよ」


「そんな……」


「俺は貴方たち二人からとても大きな恩をもらってる。だからこそ二人には安全に元気に過ごしていてほしい。とりあえず、あと数日だけは……」


「上坂さん!」


 三谷が今まで聞いたことないほど大きな声を出した。思わず幸太郎は動きを止める。


「上坂さん。貴方が私たちを心配してくださるのは本当にありがたいと思っています。ですが、ここはスリジェ直轄の安全地帯です。気づいていないかもしれませんが、この辺りは関係者以外は入ることが出来ませんし、スリジェの憲法のもと戦闘を起こさない決まりとなっているんです。だから、私たちはスリジェに守られていますし、ここに居た方が間違いなく安全なんです。

 それに、さっき唯花も言っていましたが、私も元公国の戦闘員です。今はこんななりですけど、自分の身は自分で守れます。第一、上坂さんより強い人なんてそうそういません。私が貴方をここに泊めた時点で、もし仮に貴方が危険な人だったとしても大丈夫なように準備はしていました。まあ、結果貴方は親切な方でしたから無駄な徒労に終わりましたが。

 とにかく、ここは安全ですし、私たちも大丈夫です。何より、唯花は貴方がいなくなったら絶対に貴方を探して回ります。その方が危ないと思いませんか?」


「確かに、そうだな」


「であれば、ここに居てください。私も貴方がここに居てくれた方がにぎやかで楽しいんです」


「わかった。改めてだが……お世話になります」


 幸太郎は頭を下げた。自分という人間をこんなにも必要としてくれる人たちは、生まれて初めてだった。なんだか心が温かくて、でも泣き出しそうで、感情の整理が出来ないまま、しばらくそのまま頭を下げていた。


 三谷は、「そんな」と初めは謙遜していたが、ずっと頭を下げる幸太郎を見て、ふと彼の肩に触れた。


「わかりました。これからも、よろしくお願いします。

 さっ、ご飯できてますから、手を洗ってきてください」


 幸太郎は頷くと、脱いだコートを持って階段を上がった。部屋に入る直前、唯花の部屋の扉が開いていることに気づいた。中は見なかったが、彼女の鼻歌が聞こえてくる。


 幸太郎は、頬を緩めて自室の扉を開いた。


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