第8話 それは、あまりにも突然に

 朝ご飯のトーストを食べながら、正面に座る唯花に幸太郎は尋ねた。


「唯花、筒治と話してみないか?」


「げふっげふ」


 唯花は飲んでいた牛乳をのどに詰まらせて、吐き出した。


「ちょっと」


 三谷が慌てて唯花の背中をさすりながら、近くにあったキッチンペーパーでこぼれた牛乳を拭く。


「ごめん、それより急に何ですか! 色々と突っ込みどころがあって、げほっげほ」


「落ち着いて」


 三谷が再び唯花の背中をさする。


「大丈夫か?」


「貴方が急に変なこと言うから、げほっげふ」


 荒くなった呼吸を整えて、こぼれた牛乳を自分でも吹いた後、唯花は口を開いた。


「なんで急に名前呼びになったんですか?」


「いや、何となくな。嫌だったか?」


「いえ、それでいいです。「きみ」とか言われるよりも名前で呼んでもらった方が私も嬉しいので」


「わかった」


 唯花は一息ついて咳払いをした。


「それで、何でしたっけ」


「ああ、この前屋上に行けるかどうかって話してただろ?」


「ああ、しましたね。結局、生徒会長とは関わらないって話になったはずですけど」


「うん、それなんだが、昨日筒治と話をつけて、屋上の鍵、貸してもらえることになったぞ」


「なっ」


「それでな……」


「ちょっと待ってください。昨日会ってきたんですか? いつの間に」


「ああ、gloriaに行く前にちょっと寄ったんだ。ほら、昨日唯花、一緒に帰れないって言ってただろ?」


「言いましたけど、それで他の女と会ってたんですか?」


「いや、一人しかいないなんて知らなくて」


「生徒会長と二人きりだったんですか?」


「あ、いやっ……」


「あらあら、上坂さんも隅に置けませんね」


「お母さんは黙ってて!」


「もう、何よ」


 唯花の眼光が激しさを増す。


「しかも、なんか名前で呼んでるし」


「いや、筒治は名字だろ」


「そういう問題じゃないんです」


 幸太郎は困った。今は何を言っても唯花の琴線に触れそうだ。仕方がないので、質問に対して一つ一つ答えることにした。


「まあ、今はとりあえずいいです。で、鍵を貸してもらうことと、その筒治さんと私が話すことのどこに関係があるんですか?」


「鍵を貸してもらうことの見返りだそうだ。筒治は唯花と話したいみたいで」


「生徒会長に、私のこと言ったんですか?」


「いや、何も? ただ俺が「ある人のために鍵を借りたい」って言ったらそんな話になったんだ」


「彼女の意図が、わかりませんね」


「ああ、だがさすがに唯花に聞かないで決めるのも違うからな。時間をくれとは言ってある」


「なるほど、そうですね。今日のお昼まで考えます」


「わかった。じゃあこの話はまた後で」


 筒治の話を終えると、二人は急いで食事を再開した。時間もそれなりに差し迫っていた。


 幸太郎は、すぐにトーストを食べ終えたが、唯花は一口が小さいためにまだ、半分しか食べきれていなかった。お皿を下げようと唯花の横を通ると、


「はひひふんひひへへふははい(先に準備しててください)」


 と彼女は言って、牛乳を流し込んだ。そして、またむせた。

 

 幸太郎はお皿をテーブルに置くと、唯花の背中をさすった。咳交じりに、彼女が「すいません」と謝る。彼女の咳が収まるのを待って、幸太郎はシンクにお皿を下げた。

 



 登校中は、唯花が従軍していた頃の話を聞いた。


 記憶は曖昧みたいだが、意外にも自分がいたところと近い位置に唯花はいたらしい。幸太郎がいたI・Cも、作戦中は一般戦闘員と同じ基地に滞在することは少なくなかった。案外、同じ基地内ですれ違ったこともあるかもしれないなと幸太郎は思った。


 一般的に、軍の名前を出すと、話が暗くなる場合が多いらしいが、二人の場合は戦闘よりも基地での食事などについて話が通じる部分が多くあり、あまり悲観的になるようなことはなかった。


 だが相変わらず、教室内の目線は冷たかった。生徒の近くを通れば、皆自分を避けていくし、集団で話してはちらちらと、自分を見てくる者もいた。


 しかし、慣れてくるとあまり気にならなかったし、害を与えられるわけでもない。そして何より落ち着いた環境で勉強ができる。普通の生活については、まだわからない部分もあるが、唯花との関りでそれは概ね達成しているのではないかと幸太郎は思った。


 昼休みになると一目散に教室を出た。階段を上り、踊り場に着くと、既に唯花は座って待っていた。


「遅いですよ」


「いや、チャイムが鳴ってからすぐに上がってきたんだが」


「冗談です。ささっ早く食べましょう。今日はコロッケです」


 二人は風呂敷を開いて弁当箱を開けた。唯花の言う通り、中にはコロッケと人参のしりしり、マカロニサラダ、押し豆腐、ミニトマトが入っていた。


「やった、今日しそご飯だ! 私、揚げ物としそご飯を一緒に食べるの、すっごく好きなんです」


 二段弁当のおかずが入った段を開けると、アメジストのように輝く、しそご飯が顔を出した。


 三谷は本当に料理が上手いなと幸太郎は思った。


 色とりどりのおかずを目で楽しんでいる間に、唯花はどんどんと箸を進めていた。


「上坂さんも早く食べましょうよ」


「あんまり、急ぎ過ぎたらまた咽るぞ」


「そんな、大丈夫ですぐっ……」


 唯花が急に箸を止めて、しかめ面の頬を押さえる。


「おい、大丈夫か?」


「はい……口の中を噛みました」


「だから言ったのに」


「咽てはいません」


「お茶飲むか?」


 幸太郎はボトルの蓋に入れたお茶を差し出した。


「はい、いただきます……あっつ!」


 唯花は飲むのを止めて、はあはあと上を向きながら息を吐き、口の中を冷ました。


「おい、ほんとに大丈夫か?」


「……いじわる」


「ん?」


 唯花が小声で何かを言ったが、幸太郎には聞こえていなかった。


「上坂さんの意地悪! 口の中を噛んだ人に熱いお茶、渡す人がありますか!」


「いや、渡したときに湯気でわかるだろ」


「もしかして確信犯ですか?」


「いや、そんなつもりは」


「どうするんですか! 傷残ったら責任取ってくださいね!」


「……ごめん」


「ごめんじゃないんですよ!」


「おい、また噛むぞ?」


 これ以上何かを言って、唯花がまた咽たり噛んだりしては困るので、お茶を買ってくることにして、いったんこの状況を落ち着かせることにした。


「冷たいの買って来るから、ちょっと待ってろ」


 そう言うと幸太郎は唯花を残して、崖を下る自転車のように1階の自動販売機を目指した。


「あ、ちょっと、上坂さん?!」


 唯花が立ち上がって見た頃には、既に幸太郎は4階の踊り場を回っていた。


「行っちゃった」


 唯花は仕方なく幸太郎が帰ってくるのを待った。




 程なくして、息を切らした幸太郎が、冷たいお茶を買って戻って来た。


「悪い、お待たせ」


「あ、いえ……」


 唯花は差し出されたお茶を受け取ると、蓋を開けて少しずつ口に入れた。


「どうだ? ちょっとは治まったか?」


 シャワーを浴びた後のように、汗をかいた幸太郎が、唯花を見て尋ねる。


「沁みるには沁みます」


「そうか、ごめんな」


「いえ、と言うか、上坂さんは少々真面目すぎますね」


「どういうことだ?」


「何でもありません。それより、お茶、ありがとうございました」


「いや、いいんだ。俺も悪かったな、ちょっと配慮が足りてなかった」


「大丈夫です、次は気を付けてくださいね」


 幸太郎はなぜ、自分が注意されているのかわからなかったが、とりあえずその場は頷いておくことにした。


 言葉が吸い込まれたように数秒沈黙が流れ、お互いが話し出すきっかけを探す。


 二人とも、本題に移りたかったのだが、どうも遠慮してしまって話がなかなか進まなかった。手持無沙汰になった唯花は、先程もらったお茶を開けて飲んでいたが、それでも、もどかしくなって自分から本題を切り出した。


「それで、上坂さん……朝に話した会長とのことですけど」


 唯花は、3分の1残ったお茶を自分の横に置いて続けた。


「せっかく上坂さんが私のために動いてくれたので、私もちょっとだけ前に進んでみようと思います」


 言葉を紡ぎ出すように、俯きながら話す唯花に、幸太郎も口を開く。


「そうか、俺が言うのもなんだが、本当に大丈夫か?」


「それは、やってみないとわかりません。でも上坂さん以外の誰かと話す、いい機会なのかもしれません。やれるだけやってみます」


 唯花は自分自身に言い聞かせるように、一言、一言を頷きながら口に出した。


「わかった。じゃあ、放課後に生徒会室に行こう。今日は空いてるか?」


「はい、空いてます。私から行くのも恥ずかしいので、上坂さんが1組まで迎えに来てください」


「了解した。俺といると3組の奴らに変な目で見られるかもしれないけど、構わないか?」


「別に私、上坂さんとなら構いませんよ?」


「そうか、じゃあホームルームが終わったら迎えに行くよ」


「はい、待ってます」


 二人が立ち上がると、予鈴が鳴った。


 何となくお互い離れがたい名残惜しさを感じていたが、どちらからともなく頷いて階段を下りた。


 唯花としては、「幸太郎と付き合っていると見られても構わない」と言ったことに対して、もう少し反応してほしいなという思いもあった。だが、それが幸太郎なので、諦めて教室に戻った。


 幸太郎にもらったお茶は、とても軽くなっていた。




 放課後に何を話すのか考えていたら、あっという間にホームルームの時間になってしまった。


 幸太郎に教えられていることは、会長さんと話すことだけで、それ以外は何の情報もない。今更ながら、踊り場から帰るときにもう少し詳しく聞いておくべきだった、と唯花は思った。


 担任がいつものように連絡事項を伝えていたが、これから始まる世紀のイベントへの興奮と不安とがひしめき合い、噓みたいに全く耳に入ってこなかった。


 そうこうしている内にホームルームが終わった。


 唯花は、教科書やノートを鞄にしまいながら、教室の入り口をちらちらと何度も確認した。


 まさに今、唯花の頭の中では、浮かれている自分と浮足立つ自分が二人三脚をしているところだった。


 幸太郎が迎えに来てくれることへの楽しみから手の先まで震え、続いて幸太郎以外の生徒と話すことへの抵抗感からくる震えが足の先まで伝わる。


 やばい。体が言うこと聞かない。


 変な汗が背中を伝って、ふらふらと体が左右に揺れ始める。


 次の瞬間、体の力が一気に抜けて、意思とは関係なしに唯花は右の床めがけて倒れた。が、すんでのところで幸太郎がキャッチした。


 微かに生徒たちがざわめき立つのが聞こえる。どれぐらい気を失っていたのかわからないが、唯花は幸太郎の腕の中で目を覚ました。


 いまいち状況がつかめていなかったが、ふと上に幸太郎の顔が見えて唯花は頬を緩めた。


「おい、大丈夫か?」


 幸太郎が鬼気迫った顔で自分を見ている。あれ、そう言えばなんで私、上坂さんを見上げているんだろう。


 ぼうっとした頭に少しずつ周りの情報も入ってきて、唯花は自分が気を失っていたことに気づいた。


「嘘、私どれくらい寝てました?」


「ほんの数秒だ」


 幸太郎が唯花の首裏に二の腕を当てて、起こしながら言う。


 状態を起こすと、周りにはクラスメイトが集まっていた。その内の一人が「三谷さん、大丈夫?!」と声をかける。まだよくわかっていなかったけれど、取り敢えず「うん」と言って頷いた。


 幸太郎に支えられながら、ゆっくりと自分の椅子に座り、残っていたお茶を飲む。


 空になったボトルを机に置き、深呼吸すると少しずつ手にも力が入るようになってきた。


「大丈夫か?」


 地面に膝をついて、幸太郎が唯花の顔を覗き込む。


 まだ、完全にはっきりしていない意識の中、唯花は頷いた。


「大丈夫です。だけど、会長さんとのお話はちょっと難しそう」


「そうか、無理するな。筒治には俺から明日にでも言っておく。歩けそうか?」


「はい、でもいつまた倒れるかもわからないから、肩貸してもらってもいいですか?」


「わかった」


 幸太郎が少し上体を起こして、膝立ちのまま唯花に近づく。唯花は幸太郎に体重を預けると、そのままゆっくりと立ち上がった。軽く立ち眩みがしたが、幸太郎が自分の左肩をしっかり支えてくれたおかげで、倒れずに済んだ。クラスメイトに心配されながら、二人はゆっくりと教室を出て階段を下りた。


「私、あの人たちと今までまともに話したことないのに、皆私のこと見てましたね」


「そうだな、でもそういうものなんじゃないか?」


「そうでしょうか、さっき話しかけてくれた子も私、名前憶えてないです」


「ははっそれはひどいな」


 珍しく、幸太郎が笑った。なんだかそれだけでも得した気分で、唯花の足に少しだけ、力が入った。


「上坂さんが笑うの、初めて見た気がします」


「おい、そんなことないぞ」


「いいえ、そんなことあります」


 玄関に着く頃には、完全に歩けるようになっていたが、あまりこうやって公に幸太郎とくっついていられる時間は多くないので、まだ力が入らないふりをして、唯花は目いっぱい幸太郎にもたれかかった。


「おい、絶対もう歩けるだろ」


「いいえ、まだ無理です。続けてください」


 結局、靴箱に着くまで唯花は幸太郎にもたれ続けていた。さすがに幸太郎も上履きで帰るわけにはいかないので、その時は唯花も離れたが、幸太郎が靴を履くと再び横にすり寄った。


「いいのか? 違う意味で話題になるぞ」


「だからいいって言ってるじゃないですか」


 自然と唯花が、幸太郎の指に自分の指を絡ませる。


「おいっ」


 幸太郎は耳まで赤くなり、焦って唯花を見る。だが、唯花は知らないふりをして、幸太郎との距離を詰めた。


 最初は周りの目が気になっていた幸太郎も、今は横にいる唯花のことだけを考えることにした。とにかく、転ばないように細心の注意を払って歩いた。


 そのまま二人は、周囲の目を意に介さず、ゆっくりと歩いて寮に帰った。




 寮に帰ると、唯花はまた体の力が抜けてしまい、幸太郎にもたれかかる形で体勢を崩した。幸太郎がたまたま唯花を見たタイミングだったので、キャッチすることはできたが、自分も少し後ろに後退してしまったせいで、唯花のスカートを地べたに付けてしまった。


 唯花のスカートが地面に擦れる音と幸太郎の靴がパタパタと動いた音で、三谷は何事かとキッチンから顔を出した。


「どうしたのっ?」


 三谷は、慌てて唯花に駆け寄る。唯花は、意識だけははっきりとしていて、


「ちょっと、力入らなくて」


 と言うと、幸太郎と三谷の力を借りながら床の上に寝ころんだ。


 幸太郎が自分の靴と唯花のローファーを脱がせている間に、三谷はコンロの火を消して戻って来た。


「一旦、ソファに寝かせましょう」


 幸太郎は、唯花の肩裏と膝の下に手を入れてそっと持ち上げるとテレビの前にあるソファにそっと寝かせた。


「ありがとう、上坂さん」


 口に力が入らないのか、ごにょごにょと喋る唯花の頭を幸太郎が撫でる。彼女は、三谷が持ってきたお茶をストローで飲むと、数分で眠りについた。


「急で、驚きました」


 一旦落ち着いたことで状況が整理できたのか、三谷は困惑で顔を引きつらせていた。


「実は、下校直前にも意識を失ったんだ」


 それから幸太郎は、唯花が倒れてから寮に帰ってくるまでの経緯を、なるべく丁寧に話した。初めは驚いていた三谷も、だんだんと幸太郎の話を受け入れて、所々で頷いていた。


「この子が落ち着いたら、病院に行った方がいいかもしれませんね」


「俺は何か出来ないか?」


「そうですね、上坂さんは出来るだけ唯花の近くにいて頂けると嬉しいです。きっとこの子もその方が喜びます」


「わかった。三谷さんはどうするんだ?」


「ひとまず、今から行ける病院を探してみます。それから、準備も。お夕飯遅くなるかもしれませんがいいですか?」


「大丈夫だ。それより、病院ならあてがあるが、連絡してみるか?」


「本当ですか? では、そちらはお願いします」


 幸太郎は立ち上がると、自室にある本部からもらった箱の中から、ベルトリエの連絡先が書かれた紙を取り出した。そしてすぐさま扉を開き、階段を下りて玄関前にある電話の受話器を取った。


「三谷さん、電話借りるぞ」


「はい、どうぞ!」


 幸太郎は紙の番号を一つずつ確認してボタンを押した。


 2コールして、すぐにベルトリエが出た。


「やあ、昨日ぶり、幸太郎君」


 ベルトリエの声は、少し疲れていた。


「大丈夫か?」


「ああ、ちょっと立て込んでただけさ。それでどうしたんだい?」 


「悪いが、頼みがある。今すぐ診てもらえる医者を探しているんだが、誰かいないか」


「待ってくれ、状況がつかめてない」


「唯花……寮の娘さんが体に力が入らなくなって気絶したんだ。今は寮のソファで安静にしているけど、念のため診てもらいたい」


「なるほど、わかった。その分野の医者を探そう。折り返し電話する」


 電話が切れた。幸太郎が受話器を置くと、三谷が近くまで来て尋ねた。


「どうでしたか?」


「今確認を取ってもらっている。もう少しで折り返しの電話が来るから、待っていてくれ」




 3分後、ベルトリエから折り返しの電話がかかってきた。


「お待たせ、それで早速だが本部の医師が見てくれるって言うから、今から来れるかい?」


「ちょっと待ってくれ」


 幸太郎は受話器のマイクを指で押さえて、三谷に聞いた。 


「三谷さん、今からなら見てくれる医師を捕まえられたんだが、どうする?」


 三谷は唯花の顔を見て、少し考えてから


「わかりました。お願いしてください」


 と答えた。


「もしもし、今から行く。どこから入ればいい?」


「正面からでいいよ。オリヴァを向かわせるから案内に従ってくれればいい」


「わかった、恩に着る」


「全然、お大事に」


 受話器を置き、ソファに戻ると唯花は目を覚ましていた。


「上坂さん、それでどこの病院へ行くんですか?」


 しゃがんでいた三谷が幸太郎を見上げて尋ねる。


「本部だ」


「本部?!」


「ああ、ベルトリエが医師を探してくれた。それより唯花、立って歩けそうか」


 幸太郎が尋ねると、唯花は目を見て答えた。


「ちょっと厳しそうです」


「そうか、じゃあこのまま運ぶ。それでもいいか?」


 唯花は頭が回らないまま頷いた。それを見た幸太郎は、唯花にかけていた布団を端にやって、先程玄関から運んだように、「お姫様抱っこ」で玄関まで運んだ。


 唯花はおぼろげな意識の中、自分が幸太郎に運ばれているのを理解すると、なるべくうずくまってじっとしていた。


 遅れて、二階に行っていた三谷が荷物やコートを持って出てきた。


 玄関を出て唯花を支えながら、幸太郎は走った。さすが元戦闘員と言うべきか、三谷も遅れずについてきた。


 3分程で、三人は本部の入り口に着いた。


 入ると正面にオリヴァが待っていた。


「お待ちしておりました。さあ、すぐに中へ」


 幸太郎は頷くと、オリヴァの誘導に従ってゲートを抜け、エレベーターで5階を目指し、一番奥の診察室に入った。中には白衣を着た女性の医師が座っていた。


「三谷さんね、どうぞ中へ」


 三谷が、「すみません、お願いします」と言い、彼女と唯花の二人が室内に入った。


 幸太郎はオリヴァと共に外で待っていた。


「急に対応してもらって、助かった。ありがとう」


 幸太郎が、オリヴァの方を見て頭を下げる。


「いえ、これも仕事の内ですから。それより、大事に至らないといいですね」


「そうだな、でも急だったから少し心配ではある」


「大丈夫です。無事を祈りましょう。私たちに出来ることはそれぐらいですから、気持ちを強く持ってください」


「そうだな。ありがとう」


 診察は10分程で終わった。その間唯花は室内のベッドで寝ていた。


 診察室の扉が開いて、三谷が出てくる。状況を聞くと、


「ひとまず、安静にして、今後の健康状態によってまた対応を考える、とのことでした」


 と落ち着いた口調で、三谷は答えた。


 取り敢えず、今のところは大丈夫だということで、ひとまず胸を撫でおろした。落ち着いたら学校にも行っていいということで、今日は幸太郎も三谷親子も本部の客室で寝泊まりすることになった。


「では私はこれで」


 オリヴァは三人をそれぞれの部屋に案内すると、一言挨拶して帰っていった。


 結局最初から最後までオリヴァは居てくれた。今までスリジェの監視体制などに疑問を感じたこともあったが、今日に関してはスリジェの人たちに本当にお世話になったと幸太郎は感じた。


 ベルトリエは自分に、普通の生活を送ってほしいと言っていたけれど、いざやってみると自分自身が以外にもその生活に馴染んでいて、今まで会わなかったような人との出会いもあり、自分自身変わりつつあるなと感じていた。



 

 三谷と別れると、幸太郎は用意された部屋に入り、シャワーを浴びるとすぐさまベッドに横になった。


 手を伸ばして天井の明かりにかざすと、自分の爪が白く輝いていた。I・Cに居た頃は毎日戦闘訓練があり、悪天候の中でも屋外での演習があった。だから、爪は常に砂で汚れていたし、手の傷も絶えなかった。だが今は、その傷もほとんどわからないぐらいにまで治り、手全体が綺麗になっていた。


 ふと、隣の部屋が気になった。唯花は何気なく自分の手を握ってくれる。彼女にとってそれが何を意味しているのかは幸太郎もわかってはいた。ただいつも、どうやってそれに応えていいのかが、よくわからなかった。


 彼女の与えてくれるぬくもりは、自分にとって何物にも代えがたいものだ。今まで戦闘しかしてこなかった自分には、仲間こそいたが、本当の意味でぬくもりをくれるものがなかった。ずっと一人だった。


 何か彼女に返すことはできないか。せっかくもらった普通の生活を懸けて、唯花のために出来る限りのことをしよう。




 何だか今日は色々なことがあり過ぎた。一つ一つ振り返っている間に夜が明けそうだった。

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