第5話 SAKURA

 幸太郎は、本部長室の窓から横浜の海を見ていた。


「すまない、待たせたね」


 背後の扉が開き、息切れをして、ベルトリエが部屋に入ってくる。彼に続いて、オリヴァも入ってきた。


「ちょっと会議が押してね。いや困ったもんだよ」


「コーヒー、お入れします」


「ああ、頼むよ」


 ベルトリエはオリヴァと話しながら、荷物を机の上に置き、椅子に座った。


「失礼した、幸太郎君。それで、これからのことは何か決まったかい?」


 幸太郎は、ベルトリエの机に向かい合う形で立ち、しっかりとベルトリエの顔を見据える。


「俺は、学校に通ってみたいと思ってる」


「ほう、いいじゃないか。すぐに手続きをしよう」


 ベルトリエは、幸太郎の話を聞くなり、机の引き出しを開けてタブレットを取り出した。


「どこか入りたい学校でもあるのかい? ある程度ならこちらで対応できるよ」


「どこでも……」


 どこでもいいと言いかけた幸太郎だが、唯花の顔を思い出して口を閉じた。


「俺が今いる寮の娘さんが通っているところに、転入はできるのか?」


「君のいる寮と言うと、三谷さんのところだね。うん、大丈夫だよ。だけど、あそこはもともと女子高で、今年から共学になったからあまり男子はいないけど大丈夫かい?」


「ああ、構わない」


 返事を聞くなり、ベルトリエは再びタブレットを開き、転入願の書類を作成し始めた。待っている間、オリヴァがコーヒーの入ったカップを手渡してくれたので、飲みながら本部長室の内装を軽く眺めた。


 「本当に質素な部屋だな」と幸太郎は思った。対照的に、監視システムはかなり厳重に設置されていた。軽く眺めただけでも、部屋の壁や柱に無数の穴が開いているのを確認できる。先日来た時にベルトリエに教えてもらったが、この穴には全てセンサーが内蔵されている。


 今こうしてコーヒーを飲んでいるだけでも、ベルトリエやオリヴァには俺の考えていることがほとんど筒抜けなのだ。


「そう硬くならなくていいよ」


 不意にベルトリエが話しかける。幸太郎は驚きで、体を震わせてしまった。


「別に考えを読んだからって、何かするってわけでもない」


「だが、気持ちが悪くならないか?」


「それで住民の安全が護れるなら、私は一向に構わない」


「そうか……」


 幸太郎は一呼吸置くとキッと鋭い視線をベルトリエに向けて、自分が感じている〝監視社会〟の危うさを言ってやりたくなった。


「ベルトリエさん、この国はおかしい。たしかに防衛の意味ではこの国は公国よりも格段に装備が整っている。だけど、AIやロボットが昼夜問わず監視するこの生活が、市民にとって苦でないはずがない。

 俺にはまだ、自由がどんなものかよくわからないけど、監視下の生活が自由じゃないことぐらいはわかる。こんなものは今すぐやめて、多くの目に晒されずに人々が商売や遊びを出来る社会を目指すべきだ」


 それを聞いたベルトリエは、今までの温厚な態度とは一変して急に目つきを変え、両手で机をたたくと立ち上がって幸太郎に感情の雨をぶつけた。


「自分たちのこと棚に上げて話してんじゃねえよ。公国は民の平穏なんて考えずに資源の大部分を軍事に費やしていたじゃないか。しかも、戦争が始まるときには、本来街に入るはずだった食料の9割を軍部が持っていく。それを知らない顔して貴族はのうのうと暮らしている。

 民が必要な時に、必要な支援をせず、自分勝手な上層部の判断で民を疲弊させ、おまけに戦況が悪くなると民に暴行を加える者や、ささやかな贅沢をも取り上げては貪る。

 そんな連中に一度は属していた元公国の君が、民の自由だのもっともらしいことを言うな!」


 机の上のコーヒーカップは、中身を床にぶちまけて、側面を着けたまま右に左にと移動していた。


 幸太郎は呆気にとられた。だがそれ以上に、公国が民から理不尽な搾取を続けていたことを初めて知り、何と言ってよいのかわからないでいた。ただ自らの無知と未熟さを感じながらも、その重みから精いっぱいの声を振り絞って、ベルトリエに釈明した。


「すまない。あんたの言うとおりだ。言い訳じゃないが、当時I・Cに所属していた俺は、外部との情報を遮断されていた。おそらくI・Cの仲間も皆そうだ。だからか、尚更外の情報に疎くて、国民の生活状況もまったくと言っていいほど見えていなかった」


 幸太郎は深々と頭を下げた。ベルトリエも転がったカップをソーサーの上に置き、咳払いをしてから謝った。


「私の方こそ、感情的になってすまない。もちろん君のこれまでの境遇も知っている。だからこそ、今後の平穏のために君ら未来ある若者を集めたんだ。君たちが軍の忌まわしき部分に加担していないことなど、最初から知っていたよ」


 そう言うと、ベルトリエは立ち上がった。


「今日はもう帰りなさい。学校は明日から行けるようにしておくから。申し訳ないが、帰る前にオリヴァから書類をもらっていってくれ」


 幸太郎はオリヴァを見ると、オリヴァも自分を見て頷いた。


「ああ、それから」


 とベルトリエが頭を抱えながら、三枚ある扉を指さして付け加える。


「そこにある扉の内一枚を選びなさい。今の君に最も必要なものが置いてある。自由に使うといい。私は少し疲れたから休ませてもらうよ」


 ベルトリエはオリヴァに「後は任せた」と告げ、部屋を出ていった。


 残された幸太郎は、扉が閉まるのを待ってから、三枚ある扉の前に立った。どれも同じに見えて、どれを選べばよいのか決めかねた。


「他の皆も選んだのか?」


 幸太郎がオリヴァに尋ねると、少し離れた位置からオリヴァが答えた。


「ええ、皆さん思い思いに扉を選んでいました」


「本当に俺の求めているものなのか?」


「それは私にはわかりません。ですが、皆さんそれぞれが納得しているようにも見えました」


 幸太郎はもう一度扉に向き直った。目を閉じて10秒数え、開いたときに一番に見えた物を選ぶことにした。


 目を閉じると自然と神経が研ぎ澄まされる。外から戦闘機の空を切る音が聞こえる中で幸太郎はふと、先程ベルトリエが言っていた公国の搾取について思い出していた。


 I・Cも国民も、結局のところ貴族の生活基盤でしかなかったのだ。


 何のために戦っているのかわからなくて、時には国民のためと考えたこともあったけど、自分たちがいくら勝とうとも負けようとも、貴族の憂さ晴らしや経済的な補給地点として民は苦しんでいた。


 だったら、今日までに見た監視下だけど皆思い思いに生活できる暮らしの方がいいのかもしれない。


 かつての貴族は一人としてこのスリジェでは見ていない。貴族がいた街区はちょうどポールタワーのあるあたりで、昨日見た限りではすべてスリジェの建物に変わっていた。



─もっと根本的な部分で、スリジェは公国と違うのかもしれない─



 目を開くと、ぼやけた視界の中で中央の扉が一番に目に入った。振り向いてオリヴァを見ると、彼は黙って頷いた。幸太郎は、中央の扉のドアノブを迷いなく引き、中を見た。


 中には一脚の椅子とその座面に紙箱が置いてあった。


「この箱が俺に必要なものなのか?」


 幸太郎は箱を手に取ってオリヴァに聞く。


「はい、正確にはその中身ですが」


 慎重に箱のふたを開けると、中からピンク色の錠剤が入ったシートが出てきた。裏の銀紙には〝SAKURA〟と書いてある。プラスチックを押し出すと錠剤が取り出せるごく普通の薬だったが、幸太郎には既視感があった。


「なあ、これって」


「お気持ちはわかりますが、それはUDUKIではありません。形も構造もよく似た、SAKURAというビタミン剤になります」


 オリヴァが数歩近づいて、手の中のシートを見た。


「構造も似てるって、それじゃあこれもUDUKIと同じ効果が表れるのか?」


 一年前に限界量の100錠目を摂取した幸太郎は、UDUKIを摂取した際の吐き気や、内側から外に向かって衝動が漏れ出す感覚を思い出し、表情に困惑の色を見せていた。


 今の幸太郎は、そのあふれ出た衝動が表にいるわけだが、衝動だからと言って、元々表にあった人格が悲鳴を上げていることに罪悪感を覚えていないなどということはなく、さらに言えば摂取時の吐き気など苦しみは常に共有していた。


 しかし、ここにUDUKIと同じ効果を持つ薬があり、さらにはそれが自分にとって最も必要だとベルトリエは言った。



─ベルトリエは俺を消しに来ているのだろうか─



 UDUKIを作ったマンスリー製薬はスリジェの会社だから、勿論国の長に立つベルトリエは効果を知っているはずだ。そして、幸太郎のことだってある程度は知っているんだろう。次に自分がUDUKIを使ったらどうなるかわからない。そんな中で、このSAKURAが手元にあるのは危機的事態だと、幸太郎は思った。


 混乱の様子を見てか、オリヴァがSAKURAについての説明を始めた。


「ご存じの通り、UDUKIは、我がスリジェのマンスリー製薬で作られました。ビタミン剤という名目ですが、実際には使用者の内なる人格を引き出しやすくして、使用者が自分自身を見つめることが出来るという、スリジェにおいては精神疾患の治療のための薬でもあります。

 一方で、今お持ちのSAKURAは内なる自分を引き出しやすくするという効果は同じですが、その持続時間が1日と、UDUKIの4時間よりも長くなっています。また、この薬はUDUKIを100錠摂取し、その上で平常心を保てている方にしか使えません。それ以外の方がSAKURAを使用すると、内外両面の精神が崩壊し、後には体だけが残ると言われています」


「随分、恐ろしい薬だな」


「はい。ですが、上坂様は既に使用条件を満たしていますので、使用については問題ありません」


「いや、もう使う気はない」


「そうですか。私もそうであってほしいと願います」


 幸太郎は扉を閉めると、オリヴァに聞いた。


「他の2枚には、結局何が入ってたんだ?」


「私にもわかりません。ですが、最初に選ばれたものを使ったうえで、それでも平常心を保てている方には別の扉を開く機会が与えられると聞いたことがあります」


「その平常心も、センサーの類で測るのか?」


「それもそうですが、SAKURAは特に副作用が強いので、抑えが効かなくなる方は見ただけでわかります。そのせいか、SAKURAを授かった方が別の扉を開いたという事実は、ただの一度も確認されておりません」


「尚更使いたくなくなったよ」


「ええ、私からも本当に必要な時以外は使わないように勧めます」


 幸太郎は、SAKURAをズボンのポケットに入れると、オリヴァに続いて本部長室を後にした。その後3階の資料室で、唯花の通っている緑崎高校についての案内や資料を受け取り、今後の流れについて説明を受けた後、そのまま寮に帰った。

寮に帰ると、三谷がちょうど昼食の準備をしているところだった。


「あら、お帰りなさい。もうすぐお昼出来ますからね」


「すまない、昼まで作ってもらって」


「いいんですよ、家だと思って楽にして頂ければ」


 靴を脱いだ幸太郎は、キッチンの横で三谷に会釈し、階段を上った。洗面所で手洗いとうがいを済ませた後、一度書類を部屋に置いてから、リビングに戻った。


 今日のお昼はオムライスだった。唇だけで噛みたくなるような卵の軟らかさに、幸太郎の脳は覚醒していた。夢中になって食べている幸太郎に、三谷が感心する。


「いい食べっぷり、ですね」


「美味しいよ、とても」


「そうですか、作って良かったです」


 三谷が目の周りの皴を寄せて喜ぶ。幸太郎はオムライスを食べる手を止めて三谷の顔を見た。こういった笑顔は、唯花とよく似ている。恐怖心を持ちつつも、徐々に心を開いてくれていることが、幸太郎には嬉しかった。


 胸の中が優しい気持ちに包まれていくのを微かに感じながら、スプーンを持つ手に力を入れたとき、三谷は恐る恐る、幸太郎に尋ねた。


「それで……本部長さんとのお話はどうでしたか?」


「とりあえず、娘さんと同じ学校に行けることになった」


「ほんとですか! それは良かったです。唯花も喜ぶと思います」


 三谷は安堵して息を吐いた。だがすぐに何かを思い出したように「あっ」と声を上げて一度手を叩いた。


「制服、買いに行かないとですね」


「どうやら、もう用意してくれてるみたいだ」


「あらあら、これは準備が早いですね。さすが、本部長さんといったところでしょうか」


「そうだな……」


 本部長の名前が出る度に、幸太郎は先程の口論を思い出す。守るべきものも、守ってきたものも何もかもが自分の幻想でしかなかったショックは大きく、幸太郎には正しさが何かさえわからなくなっていた。


「一先ず、この後服屋に制服を取りに行こうと思う」


「どこの服屋さんですか?」


「たしか、ル・ビュイデ……」


「ル・ブイ・デ・バーグですか?」


 突然、三谷よりも高い声が服屋の名前を言い当てた。二人は玄関を見ると、鞄を背負った唯花が靴も脱がずに二人を見ていた。


「あら、学校はもう終わったの?」


「うん、3時間で終わったよ。昨日言ったじゃん」


「ああ、そう言えばそうだったわね。お弁当はじゃあ、いらなかったか」


「ううん、お弁当は学校で食べてきたよ。今日も美味しかった」


「良かった」


「ところで、上坂さん、ル・ブイ・デ・バーグに行くんですか?」


「そうだよ」


「一緒に行ってもいいですか?」


「構わないけど」


「ほんと? じゃあ私着替えてきますね!」


 そう言うなり、唯花は急いで階段を上っていった。上からバタバタと慌ただしい音が聞こえる。


「すみません、また気を遣ってもらって」


「いいよ、全然。それより、その服屋はこの近くに?」


「ええ、緑崎高校の隣です。せっかくだから、学校の周りも唯花に案内してもらったらいいかもしれませんね」


「なに? 呼んだ?」


 階段の上から声がする。


「何も言ってないよ!」


 三谷が応じると、またバタバタと、今度はクローゼットを開ける音も聞こえてきた。




 5分後、唯花が下りてきた。フレアスカートにニットを合わせ、上からコートを羽織っている。朝見た時よりも、大人びて見えた。


「どうですか?」


「うん、似合ってるよ」


「あらあら」


 幸太郎が唯花を褒めているのを見て、三谷は茶化した。そして席を立つと「上坂さん、唯花をお願いね」と言って階段を上っていった。唯花は頬を紅潮させていた。


「じゃあ、案内頼む」


「わかり……ました」


 唯花は顔を隠したまま、玄関を出た。




 寮を出て西に20分、海岸沿いを歩いたところに、緑崎高校はあった。坂の上にあり、海岸からは幾分か高い位置に校舎はある。学校から海が見えるのはいいが、地盤は弱そうだった。津波が来たら、無事では済まないだろうと幸太郎は思った。


 道の突き当りに面した校門をくぐると、右手にグラウンドが見えた。今も、授業を終えた野球部が、指示やエールを交わしながら練習している。その様子を横目に見ながら坂を登ると、複雑に重なった5階建ての校舎と、モニュメントを中心に円周上へ広がった入り口が見えた。


「ここが、上坂さんが明日から通う緑崎高校です」


 唯花は腰の後ろで、自分の右手と左手を組みながら得意げに話す。


「景色がいいところだな」


「そうですね、私もたまに学校帰りで海に行ってます」


「泳ぐのか?」


「まさか。私はただ波の音を聞いて風にあたっているのが好きなんです」


 唯花は振り返って海を眺めた。


「なるほどな」


「今度、見に行きましょうね」


「ああ」


 敷地内を軽く案内された後、二人は隣に位置する、ル・ブイ・デ・バーグに入った。店内は制服だけでなく、様々な種類の服がこれでもかと言うほど詰めてしまわれていた。棚によっては溢れて山のように積みあがっているところも多くある。中でもレジカウンターは山積みの服で、奥に人がいるのかも見えなかった。


 幸太郎が店員を探して店内を彷徨っていると、唯花はレジの前まで行って、奥に聞こえるように誰かを呼んだ。


「瑠璃さん! 出てきてもらっていいですか?」


 まもなくして、何かがひっくり返るような音が続き、カウンターの横から何かが出てきたかと思うと、唯花に向かって飛びついた。だが唯花は上手くいなし、何かは服の山へと突っ込んでいった。


 唯花がため息をつく。


「瑠璃さん、やめてください」


 唯花に嫌がられ、瑠璃と呼ばれる女性が、服の山からしかめ面を出した。


「いいじゃん、減るもんじゃないし」


「私のメンタルはすり減るんですよ!」


 服の山から抜け出た瑠璃は、唯花を捕まえると、手のひらで唯花の頬をこねくるようにいじった。唯花の目や唇が直線で描いたように横に伸びる。見ているのもさすがに可愛そうなので、二人に近づくと、瑠璃は「あら、お客様がいたの」と言って唯花を解放した。涙目の唯花が幸太郎の後ろに隠れたのを、右から左から覗こうとしている瑠璃に、幸太郎は尋ねた。


「今日ここで、緑崎高校の制服を受け取る予定の者なんだが……」


「あー、はいはい。ちょっと待ってね」


 瑠璃はカウンター奥に戻るフェイントをかけてから、少し顔を出していた唯花を見て、笑いながら店奥に入っていった。さっきよりも幸太郎のコートを引く力が強くなっている。


「そんなに怖いのか?」


「遠慮なしに私の頬っぺた触ってくるんですよ? ほんとにやめてほしいです」


「なら言えばいいじゃないか」


「言いました! でもいっつもやめてくれないんです」


 さらにコートを引く力が強くなった。息も荒くなってきたので、それ以上瑠璃の話をするのはやめることにした。


 しばらくして、瑠璃がブレザーの上下を入れた箱やベストなどを両手に抱えて出てきた。ふらふらと右往左往しているので、幸太郎は手伝おうかとも思ったが、瑠璃は「いいからいいから」と強行し、近くの棚に積んであった服をどかして、そこに制服一式を雑に載せた。


「あー、重かった。あ、そう言えばお客さん、唯ちゃんの彼氏?」


「違います!」


 幸太郎が答えるよりも前に、唯花が顔を隠したまま叫んだ。尚も幸太郎の後ろに隠れたまま、唯花は続ける。


「うちに下宿してくれてるお客さんです」


「へええ、お客さん。その割には随分と仲がいいみたいだけど」


「ゔ―!」

 

 唯花はうめき声をあげて幸太郎のコートが小刻みに揺れ始めた。さすがの幸太郎も止めることにした。


「そろそろ、やめにしてやってくれないか」


「あら、私と唯ちゃんのコミュニケーションを邪魔する気?」


「何がコミュニケーションですか! こんなのいじめですよ、いじめ!」


「わかったわかったって。とりあえず、彼のコートがしわしわになっちゃうから落ち着いて」


 はっと我に返った唯花は、自分の手元でよれよれになっているコートを見てぱっと手を離した。


「すいません!」


「いいよ、落ち着いたか」


「はい、たぶん」


「いやー、良かったよ。ほんと冗談が通じないんだから」


「冗談の域を超えてます!」


 笑う瑠璃と怒る唯花。二人の間に立たされて完全に巻き込まれた幸太郎は、なんだか早く店を出たくなってきた。


「お客さん、上坂さんで合ってる?」


「ああ」


「へー、初対面からため口って……私ちょっとなめられてる?」


 制服の状態を確認する手は止めずに、目線だけこちらに向けて語尾を上げた。一瞬空気が重くなる。この緊張感は何となく戦場のそれと似ていて、幸太郎は自然と身構えていた。瑠璃は、その様子をじっと見ながら、不意に緊張を切り裂くように笑い始めた。


「いやいや、そんなに身構えないでよ。ただあんまりにも硬すぎるから、ちょっとからかっただけじゃん」


「敬語で話した方がいいか?」


「ぶはっ、いいかって」


 瑠璃は恥ずかしげもなく、腹を抱えて笑った。


「ちょっと瑠璃さん、ほんとに怒りますよ」


「ごめんごめん。まあ、楽な方でいいよ。とりあえず、制服の方は準備できたから、持ってって」


 瑠璃は、レジの下から大きなビニール袋を取り出し、一式を詰めて幸太郎に渡した。代金は本部から支払われているようで、幸太郎と唯花はそのまま店を出た。


 帰り際、「またおいでね」と瑠璃は言っていたが、唯花は見向きもせずにスタスタと先に外へ出た。




 日暮れまでまだ時間はあり、案内してもらおうかとも思ったが、幸太郎の荷物が多かったこともあって、その日は帰ることにした。横に並んで歩きながら、幸太郎は瑠璃について聞いた。


「瑠璃さん、面白い人だな」


「あの人たまになるんです。普通にしてる時もあって、お店自体は好きなんですけど、今日みたいな日には買い物もしたくなくなります」


「昔から知ってる風だったな」


「そうなんです。小学生の時から母に連れられて行ってましたが、その頃はまだ瑠璃さんも高校生で、単純に可愛がってくれるお姉さんでした。私も嫌いじゃなかったんですけど、いつからかスキンシップが度を超すようになってきて、今はできれば関わりたくないですね」


「色々あるんだな」


「色々あるんです」


「でもさっき、家を出る前に「私も行きたい」って言ってたけど」


「揃えている服は好きなんです。いいものもたくさんあるし。だけど、それを買うかどうかはその日次第ですね」


「瑠璃さんの気分次第ってことか」


「そういうことです」


 その後も、唯花が今まで受けたの話をしながら、気づけば寮に着いていた。二人の帰りが早いので三谷は驚いていたが、幸太郎の荷物の量を見て納得したようだった。


 もう少し唯花と話そうかとも思ったが、唯花は唯花でやることがあるらしく、自分も明日から始まる高校生活のために、今日は自室で準備をすることにした。


 だが、幸太郎は制服を整理し終えるとやることがなくなってしまった。教科書は明日、学校で受け取れるようで、それ以に持っていくものもなかった。


「一年前の俺に学校へ行くなんて伝えたらどんな反応をするんだろうか」


 幸太郎は、ベッドに寝転がってI・Cの食堂を思い起こしてみる。皆が笑って騒いでご飯を囲む。その日、本で読んだことや、夢の話を皆で一緒になって話す。そこには訓練中にはない、素の自分と皆の笑顔があった。




─あんな風に、学校でも笑っていられるといいな─




 そんなことを考えていたらなんだか瞼が重くなってきて、幸太郎は夕飯までの間ぐっすりと眠った。

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