第4話 久しぶりの「いただきます」
久しぶりに誰かと囲む食卓は、温かな笑いに包まれていた。
幸太郎が手を洗ってリビングに戻ると、先に座っていた唯花と三谷の二人は、その微笑みを幸太郎に向けた。なんだか肩の力が抜けて、自分まで頬が緩みそうだと幸太郎は思った。
幸太郎が唯花の隣に座ると、「いただきます」の合図で皆が箸を取った。
「いただきます」を誰かと言うのも久しぶりだった。わかめと豆腐の入った味噌汁を見ながら、幸太郎はI・Cの皆との食事を思い出していた。訓練は厳しく、自由時間もほとんどない中で、食事だけは皆とゆっくり話せる時間だった。
手に取ったお椀を見つめたまま動かない幸太郎を、唯花は心配そうに見ていた。
「上坂さん、何か嫌いなものでもあった?」
三谷が、唯花の視線に気づいて幸太郎に声をかけた。
「あ、いや、誰かとご飯を食べるのが、その、久しぶりだったから」
「そっか、長いこと一人でいたんだものね」
三谷の声がリビングに響く。唯花も三谷も箸は止めないが、何とも話しづらくて次に続く言葉を探していた。幸太郎も空気が重くなってきたのを感じてはいたが、これ以上何か話しても余計にどんよりとしそうで、食卓に目を落としたまま味噌汁をすすった。しばらく箸と食器の音だけが鳴り響く中、むずがゆさを抑えきれず、唯花が話題を変えた。
「ねえ、上坂さんは学校行かないの?」
卵焼きを口に入れたままの口で訊く。幸太郎はハッとした表情で唯花を見た後、少し考えてぼそぼそと口を開いた。
「学校って楽しいのか?」
「え、今まで楽しくなかったの?」
唯花が頓狂な声を出す。
「いや……今まで行ったことないから」
「そっか、I・Cの施設にいたんだもんね」
〝I・C〟と言う単語を聞いて、三谷が即座に唯花の顔を見た。まるでそれが言ってはいけない単語のように、三谷は顔を強張らせていた。だが唯花は三谷に優しく微笑んで言った。
「大丈夫だよ、お母さん。私たちがある程度は上坂さんについて知ってるって話は、さっきしたから」
「そう……だったの。上坂さんごめんなさい。私たちも公国出身で戦争は常に隣り合わせで生きてきたので、まだ受け止めきれてないこととかいっぱいあるんです」
「いや……いいよ。俺も正直、こないだまで牢獄にいた元軍人が、まともに相手してもらえるとは思ってないから」
「いえ、そんな……」
「いやいや」
幸太郎は三谷の真意を酌んで、それでも彼女を制止した。
「三谷さんは、それでも俺をここに置いてくれてる。娘さんのお願いだからってのもあるだろうけど、最後に決めたのは貴方だ。その点、とても感謝している」
幸太郎の言葉に、三谷はしきりに頭を縦に振った。
「いえ、こちらこそ。少しずつ慣れていきますので、時間はかかるかもしれませんが、よろしくお願いします」
再び、場が静まり返る。だがさっきと違って重苦しさはなかった。それを察してか、唯花は話を戻した。
「もし、やることもないんだったら学校行かない?」
唯花は、手を叩いて提案する。幸太郎としても、学校は少なからず興味があった。I・Cに居た頃も、自分が送っていたかもしれない学校生活を想像しては、振り払って訓練に参加していた。だけど公国が負けて、もう戦う必要がなくなった自分には、どう使っていいのかわからないほど時間がたくさんあった。
そんなI・C時代の思いがこぼれたのだろう。幸太郎は素直に気持ちを伝えた。
「たしかに、行ってみたさはある」
「なら、なおさらだよ!」
そう言うと、唯花は素早く朝食を食べ終えて、食器を片付ける前に走って階段を上っていった。
「こら、片づけてから上がりなさい」
「あとでやるー」
ふうと息を吐いて、三谷は「すみません」と幸太郎に謝った。
「あの子ももう17になるのに、もう少し落ち着いてもいいとは思ってるんですけど」
「あれくらいが、ちょうどいいと俺は思うけど」
「そう言ってもらえているだけ、まだ救われます」
幸太郎は、朝の散歩で見ていた唯花の顔を思い出しながら、箸を総菜に移した。今日の献立は白身魚のフライと卵焼きに、昨日いい匂いがした、かまぼこだった。
昨日ここを訪れた時にしていた香りが思い起こされ、まずはかまぼこを口にした。噛み応えがよく、だしと共に魚の甘味が染み出て、口の中が満たされる。束の間それを楽しむと、今度は白米を口に運び、甘味が残った舌の物足りなさを補った。二度にわたる充足感が幸太郎の脳を鷲掴みして、彼は何度かかまぼこと白米の投入を繰り返した。
元々、かまぼこの味を教えてくれたのはミナミだった。I・Cにいたころ、魚が苦手だった幸太郎が少しでも美味しさを理解できるようにと、彼女は公国の料理担当にかまぼこを用意するよう頼んでくれていた。最初、何も知らずに食べた幸太郎は、「美味しい、美味しい」と夢中になって食べていた。あとから魚で出来ていることを知らされたのだが、その頃には魚の苦手意識もなくなっていて、出てきた魚料理もすんなり食べることができていた。
幸太郎が思い出に浸っていると、どたどたと足音を立てて、制服姿の唯花が下りてきた。
「上坂さん! 私の制服どうですか?」
唯花は左右に身体を揺らして、ブレザーのスカートをたなびかせた。幸太郎は朝に唯花から言われたことを思い出し、たどたどしい声で褒める。
「ああ……似合ってる」
「……! ありがとうございます!」
唯花は満面の笑みで、それに応える。
唯花が笑うと、その場からすべての邪な感情が消えて、彼女にスポットライトが当てられたように場が明るくなる。幸太郎も、その一瞬は目線が離せなくなって、少し困った。
二人がお互いを見つめあっている横で、申し訳なさそうに三谷が聞く。
「いい感じのところ申し訳ないのだけど、学校行かなくて大丈夫なの?」
壁にかかった時計を見ると、時刻は7時半を指していた。
「あ、やばい! 早くいかないと」
そう言いながら、唯花は制服のポケットや鞄の中身を確認して玄関まで走った。髪を乱しながら靴を履き、いざ出発とドアノブを触った彼女は、ふと振り返って幸太郎を見た。
「行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
幸太郎の言葉に唯花は満面の笑みで応えると、三谷にも「行ってきます」を伝えて扉を出た。
慌ただしかったリビングが落ち着きを取り戻し、幸太郎は再び食卓に向かう。ふと三谷を見ると、彼女はさっきまで唯花がいた玄関を、花でも見るような優しいまなざしで見つめていた。
「三谷さん」
幸太郎の呼びかけで、三谷の一点凝視が解けた。
「なんですか?」
「学校ってそんなにいいものなのか?」
「そうですね、一概にいいとは言えませんが……」
三谷は間を含む。
「少なくとも、あの子は喜びます。見た通り家ではとても元気ですけど、学校の話は一切しないんです。たまに私が聞いてみても、曖昧な返事しかしないんですよね。だから、もしかすると、なかなか上手くいってないこともあるのかなって、親としては心配にもなるんです」
なるほど、と幸太郎は思った。まあ、さっき自分を学校に来るように誘ったぐらいだから、学校そのものに嫌悪感を抱いてはいないのだろう。ただ、せっかくの縁だし、唯花の誘いに応じてみるのもいいかとは思った。
「学校、行ってみることにするよ。俺で良ければ娘さんのことも、たまに見ておくことにする」
その言葉に、三谷はさっきまでの不安げな顔を緩めた。
「ありがとうございます。すみません、無理に行かせるような話の流れにしてしまって」
「それは気にしなくていい。自分もまだ「自由」についてわからないことがたくさんある。より多くの人間と関わってみて、それが何か確かめようと思う」
「わかりました。ありがとうございます。もし、何か私にお手伝いできることがあったら言ってください」
「ありがとう。その時は頼むよ」
幸太郎は、出された朝食を食べ終えると、自室に戻りスリジェ本部に向かう支度を始めた。
資材の箱から取り出した時計は、8時ちょうどを指していた。I・Cにいた頃は、8時から訓練が始まっていた。休む暇もなく、朝から動き続けていた幸太郎にとって、今日のこの時間は、庭で横になって空でも観察しているような、穏やかなものだった。
この後幸太郎は、学校に通うことになるのだが、彼や三谷の唯花に関する心配事は、あながち外れていなかったと、さらにもう少し先で知ることになる。
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