おばけちゃん

大塚

第1話

 長く続いた雨が止み、夏の気配を感じ始めた。今年の梅雨は長かったと生臭坊主の慈信じしん和尚が言い、彼のような者でも季節の移り変わりに気を配ることがあるのかと首を傾げれば、

「死体が腐っていけないからな」

 皮肉めいた物言いに、気分を害することは最早ない。


 仕事を始めて早数年、週に一度は寺の階段を上るのが習慣になっていた。キリスト教徒が日曜日の礼拝を欠かさないのと良く似た気分で。

「何を言いやがる、全然違う。向こうさんに失礼だ」

「そうすかね」

「おめえみてえな人間は神にも仏にも救えやしねえ」

 そういうあなたはどうなんですかと訊こうとしてやめた。彼は別に、これといった罪を犯してはいないのだ。を丁寧に葬っているだけ。その身元や死因を質さないことが、罪といえば罪か。

 父親ほどの年齢の慈信が淹れたコーヒー(季節を問わず舌が痺れるほどに熱く苦い)を飲み、小一時間ほど雑談を交わして、帰る。墓参りに来た檀家が連れて来る子供の相手をすることも、たまにある。住職と親しげに会話をするどう見ても僧形ではない男に誰ひとりとして警戒心を向けず、我が子を任せるのが些か不思議ではあった。


 若い僧侶に呼ばれた慈信が、スクーターに乗って街に下りていった。見送りを終えて手持ち無沙汰になった身で、庭に咲く小さな青い花を、千切っては投げ、千切っては投げ。駐車場の契約がどうとかいう会話が聞こえてきたが、まったく、生臭坊主は忙しい。

 日も翳ってきたし、今日はもう帰ろうか。縁側から腰を上げたところで、そこに佇む人影に気が付いた。秋には見事に色付く大銀杏の下に、小さな子どもが立っていた。

 子どもは確かにこっちを見ていた。見ているということは分かるのだが、それだけだった。

 この世のものではないのだな。短絡的に、思う。

 子どもの顔が分からない。身の丈が分からない。性別も、年の頃も分からない。ただ、こちらを見詰める大きな目、紐の解け掛けた青いスニーカー、ゆるく握られた小さな拳が、目の前のが子どもであるということを伝えてくる。

(俺が、殺したのだろうか)

 内心呟いて、煙草を咥える──

水城みずき!」

 ライターを鳴らしたところに、大声が飛んできた。目を細めて振り返れば、佇むのは慈信和尚。小脇にヘルメットを抱え、夕陽を背負って立っていた。

「なんだそいつは」

 もっともな問い掛けに口の端をひん曲げ、

「俺が知りたいす」

 と、再度視線を向けると、子どもの姿はきれいさっぱり消え失せていた。

「駐車場、大丈夫だったんすか」

「大丈夫じゃない。ヤクザだよ面倒臭い」

 ヤクザ、を強調する慈信の巨躯を見るともなしに見上げた。伸びかかった剃髪に、白いものが混ざっている。良く見れば太い眉毛にも、ぽつぽつと。

「ヤクザ」

「そうだよ」

「言っときましょうか」

 若頭に。水城の言葉を、慈信は鼻で笑う。

「聞くかね」

「まあ、聞かんすねえ」

「だろうな」

 半分ほど吸った煙草をスニーカーの底に押し付けて消し、

「帰ります」

「そうかい」

「またそのうち」

「水城」

 縁側に放り出したパーカーを拾いながら、片目に男の姿を映す。慈信の低い声は、赤と紫の夕刻に良く映える。

「殺したのか」

「子どもですか? いいえ」

「ならいい」

 バイクに跨り、一度だけ大銀杏に視線を向けた。子どもは、やっぱりどこにもいなかった。


 翌週、いつも通りに寺を訪ねた。先週とは較べものにならないぐらい暑い日だった。

「こんちは」

 境内には先客がいた。数ヶ月前にも会った若夫婦だった。

 最近、夫婦揃って幼少時代を過ごしたこの街に家を建て、東京から引っ越してきたのだという。墓地に眠るのは妻の祖母だ。

「彼は私の友人の息子で──」

 問わず語りに説明する慈信の声を背中で聞いて、小さく笑う。友人とは、息子とは、良く言ったものだ。

 世間話に花が咲いている様から察するに、暫くコーヒーは出ないだろう。汗を拭きつつ住職の住処に勝手に入り込み、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出した。

 墓地とは反対側にある縁側で、コンビニで買ったおにぎりを頬張った。今日はこれから一仕事だ。いくらか腹を膨らませておかないと、毎度のこととはいえ気が滅入る。

 と、大銀杏の下に、小さな子どもが現れた。

「……お茶飲む?」

 この世のものだ。若夫婦の息子である。三歳なのか五歳なのか、ちいさな人間の年齢の見当をつけるのは得意ではない。墓参りに飽いたのだろう、確か数ヶ月前にもこんな風に境内を駆け回っていた。

 飛びついて来た少年は、コップの麦茶を一息に飲み干した。もうひとつコップを持って来ようと立ち上がる。お茶請けも何かしらあったはずだ。

 ハッピーターンと麦茶で少年はすっかり上機嫌になり、水城の膝の上で庭の草を千切っている。平和だった。途方もなく穏やかな時間。

「おじちゃん」

「はいよ」

「あれ、だれ?」

「……」

 鳥肌は立たないし、恐ろしくもない。ただ、初夏の木陰に子どもがもうひとり、立っていた。

 煙草を咥えようとして止めた。膝の上には、この世の息子だ。

「誰だろう」

「お茶のむかな?」

「どうかな。きいてみようか」

 相変わらず焦点が合わなかった。子どもだということしか分からない。だが今日は、男かな、漠然と思った。根拠はない、直感だ。

 風が吹き、大銀杏の枝を揺らした。すずしいね、と膝の上から声。そうだなと応じて、此岸の匂いがする髪を撫でてやる。

「寝ちまったのか」

 慈信が笑い、若夫婦はしきりと頭を下げている。面倒を掛けたと思っているのだとしたら、気にする必要なんかないのに。

 少年を連れた一家を見送り、ようやく煙草とコーヒーで一服する。とはいえ今日は、これ以上の長居はできないのだが。

「木の下に、ガキでも埋まってんすかね」

 呟きに、慈信が両目を大きく見開く。

「また出たのか」

「はあ」

「ガキも見たのか」

「ええ」

「そいつは……」

「俺、行きます」

 煙草を捨てて、立ち上がる。両切りの紙巻煙草を手にした慈信が、非難にも似た視線を寄越す。

「水城」

「なんつうんすかね」

 ジーンズのポケットを探り、裸のままの鍵を取り出した。次に金が入ったら、バイクをメンテに出さないと。

「俺にも良く分からんのです」

 夕焼けの空に、灰色の雲が揺れていた。一雨来るのかも知れないな。思いながら、額に浮いた汗を拭う。


 他者の命を断つ為の道具を扱う手で子どもを抱いたことに、少しだけ罪悪感を覚える。


 深夜、強い雨が降った。体中に染み付いた鉄の匂いは消えないが、激しく叩き付ける雷鳴と雨音で幾らか気が紛れた。

 荷物を積んだトラックが走り去る。空っぽの倉庫で、煙草に火を点けた。

 昔は煙草なんか吸わなかったのだ。匂いも大嫌いだった。

「水城」

 コンクリートの床を踏み締める音と共に、唐突に、柔らかい声がした。

「若頭」

「面倒掛けたな」

「いえいえ」

 肩をすくめ、裸電球の下に浮かぶ青白い顔を見上げる。若頭、岩角遼いわすみりょう。こんなところには滅多に顔を出さないはずの人。

「続きますね」

「ああ」

「大丈夫なんですか、中は」

「ああ。……水城」

「俺もまあ、できる限りは役に立ちたいけど」

「水城」

 鋭い切っ先から鮮血滴るこわれた刀とか、枯れ落ちる寸前の彼岸花とか、そういった儚くかなしいものに岩角は似ている。名を呼んだきり木偶のように黙りこんでしまった彼とふたりで返り血を浴びていた時代を、脈絡なく思い出した。

「慈信和尚はご健在か」

「今のアレも弔ってもらいますよ」

 何も言われなくても話の行く先が見えた。見えてしまった。手の中で押し潰した煙草を尻ポケットにねじ込み、

「若頭」

「できればこんなことは頼みたくないんだが」

「俺、おばけを見たんですよ」

「は?」

 弾かれたように双眸を瞬かせる岩角が嘗ての相棒を置き去りにして、銃声とも悲鳴とも無縁の場所に立ったことを、妬ましいとは思わない。誰よりも彼を知る者として、彼の代わりに幾らでも汚れる覚悟はできている。

「俺に似ていた」

 茫然とする顔から、血の気が引いていく。

「いや、おまえかも知れないが」

 岩角を、いびつで美しい彼を、怯えさせたいわけではない。

 ただもう二度とその高みから降りてきて欲しくないだけだ。血反吐に塗れ苦痛と呪詛を一身に受ける俺の地獄楽園を、放っておいて欲しいだけなのだ。


 慈信は別段驚きもしなかった。

「奴にしてみれば目の上のたんこぶだろうしなぁ」

「そうすか」

「過去の遺産すべてを整理したいと思っても、おかしくはないさ」

「いやおかしいでしょ世話になってんのに」

 夕刻会い、煙草を吸いコーヒーを飲み、素麺を食いすいかを食い、再び煙草を咥える頃にはすっかり日が暮れていた。空には細い月が出ていた。

「そもそもなんなんすか整理って。あいつ何様すか」

「若頭様だろ。おい、酒飲むか」

「なんすか」

「すいかと一緒に届いたんだ。『夜明け前』っちゅう酒でな」

「カッコいいすね、島崎藤村か」

 大銀杏の下の子どもの姿は、昼間よりも明瞭になっていた。男の子だ。年の頃は未だに分からないが、小学校に上がる直前といったところだろうか。

「なんなんすかね、マジで」

「おめえか、あいつだろ」

「慈信さんもそう思いますか」

「幽霊はああいう風には出てこないからな」

 久し振りの酒だった。ひとくち飲んだだけで、体がふわふわと熱い。

 今ならおばけの顔も判別できるのではないかと目を凝らすが、無駄な徒労に終わる。おばけは水城を見ているが、水城はおばけを見ることができない。

「寂しいんだろうよ」

 慈信の声が、夢の中のように遠くから聞こえてくる。

「寂しくて、甘えているんだ」

「どうしてすか。あいつは何もかも持ってるのに」

 縁側を辞して、畳敷きの客間に倒れ込んだ。酔いが回るのが早い。人殺しばかりしているから、酒の飲み方を忘れてしまった。

「本当にそれが欲しかったんだろうかね」

「知らんすよ。俺はあいつじゃない」

「岩角はおまえになりたいのかも知れない」

 禅問答かよ、生臭坊主のくせに。笑いながら、畳の上で四肢を伸ばした。

「そいつは駄目だ。俺は俺、あいつはあいつ。そうでしょ」

 その瞬間、霧が晴れるように視界が開けた。

 あのこどもが、真上から覗き込んでいた。

「だとしたら」

 驚くほどに良く見えた。忘れ難い顔がそこにいた。

 我知らずくちびるが綻ぶ。そうして、こどものこぼれ落ちそうに潤んだ目を見詰めながら、言った。

「かわいそうに」

 どこかの部屋の窓ガラスが、割れる音がした。


 金目当てに押し入って来た不良少年の集団など、目を閉じていても撃退できる。多少酒に酔っていたとしても問題はない。だが、慈信和尚が怪我をしたのだけは予想外だったし、良くなかった。

 気にすることはないと慈信は言った。現場に警察の手が入った以上水城もそのつもりでいた。しかし、

「知っている顔がいたんすわ」

「何だと」

「里中くんの舎弟。ったく、馬鹿なことしやがって」

 腕一本折られたぐらい大したことじゃないと胸を張る慈信を病院に放り込み、旧知の刑事に連絡を入れ、これで暫くは安全だろう。岩角本人からの着信が続く携帯電話は名も知らぬ橋の上から夕陽で赤く染まる川に投げ捨てた。目に付く道具をすべて革のバッグに詰めて、バイクに跨ろうとして手を止める。

 夕焼けの中で、子どもが見ている。

「ちょっと行ってくるだけだ」

 少し迷って、そう言った。顔が再び、ぼやけ始めている。

「こいつも整備に出したいし……」

 小さな手が、青いスニーカーが、解けて、空気に溶けていく。水城には、あの夜掴んだ彼の名前がもう分からなくなっている。

「……そういやこないだの仕事の分、貰ってねえな、カネ……」

 子どもの姿が、完全に消えて失せた。優しい汗の匂いだけが残っていた。


 バイクはやめだ。銀色の鍵をポケットに仕舞い、歩き始めた。空で瞬く小さな星々が憐れみの目でこちらを見ている。水城は笑った。俺にはもう帰る場所はない、あのおばけにも二度と会わない。

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