ウェディング・ベール

美澄 そら

第1話


「あの……松戸まつどさん」

「はい」


「俺と結婚してくれませんか」


 その言葉に、わたしは力強く頷いた。


「はい!」

「じゃあ、それまで……」



「キス禁止で頑張ろうね」



 二十四歳の秋。憧れの会社の先輩と両想いになると同時に、プラトニック・ラヴ宣言をされてしまった。

 茫然自失。今にも枝から飛んでいきそうな枯れ葉のようなわたしに、玉水たまみず先輩は今日も優しい眼で微笑む。


 ああ、なんて恨めしいこの世界。

 わたしはただただ頷くしか無かった。


 世界中でとある感染症が蔓延して、十九年が経つという。

 人々はマスクをすることが当たり前になり、外出時にマスクをすることが条例になり、外食は制限を設けられ、人との接触は殊慎重にならざるを得なくなってしまった。

 わたしは物心付いたときにはもうこんな世界だったけれど、親は口癖のように「昔は」とマスクをしていなかった世界のことを話していた。

 わたしは当たり前のように授業を配信で受けて、なるべく人に会わないよう外食は家族と個室で食べて、誰かと遊んだときは必ず誰と遊んだのかを親に報告し、記録してもらう。

 飲み会は画面越しが当たり前。

 社会人になって増々人に会う機会は無くなり、入社二年経っても、違う部署に所属しているとなれば、マスク越しどころか名前しか知らない社員もいる。

 月十日しかない出勤。同期にすれ違うこともない。

 そんななか、わたしの指導役に当たったのが玉水 大志ダイシ先輩だ。

 彼はわたしの出勤に合わせて出勤し、画面越しではなく直接教えてくれた。

 その指導は丁寧で、優しくて、わたしはすぐに先輩に懐いた。


 わたしはぐびっと缶チューハイを呷った。

 シュワシュワとぶどうとアルコールの香りを包んだ炭酸が、喉を刺激しながら、胃の方へ滑り落ちていく。

 目の前のノートパソコンには、大学からの友人コウちゃんが映っている。

 金曜の夜恒例になっている、二人だけのリモート飲み会だ。


「プラトニック・ラヴとか、今流行ってるしいいんじゃない?」

「よくない! 全っ然よくない!」


 コウちゃんは赤ワインのグラスを少しだけ傾けて、優雅に嗜んでいる。

 同い年とは思えないほど、コウちゃんは落ち着いていて大人だ。


「流行ってるって言っても、女子高生や女子大生じゃあるまいし……」  


 昨今、国の全体的な結婚率は下がっていると言われているものの、早婚は進み、そして離婚率が上がっている。

 つまり、プラトニック・ラヴの末に結婚したものの、合わなくて別れているカップルも残念ながら多いということだ。

 自分たちはどうだろうか。

 そもそも、わたしはこの欲求不満を乗り越えていけるのだろうか。


「キス、したい」


 わたしがパソコンのキーボードの上にパタリと倒れると、コウちゃんがくすくすと小さく笑った。


「キスしたいんだ」

「そりゃしたいよ! 好きなんだもん」

「かーわいー」


 画面の向こうでコウちゃんがピックに刺さったチーズを口にする。

 その仕草一つ一つが、色気を醸し出していて、思わず胸ををくすぐられてしまう。

 わたしもコウちゃんみたいに妖艶だったら、玉水先輩もクラっときてくれるだろうか。


「それにしても、玉水って珍しい名字よね」

「そう?」

「昔、子役に居たくらいじゃないかしら。実際に周りに居たことなかったし」


 そういえば、そうかも?


「でも散々我慢して、結婚式で最愛の人との最初キスとかロマンチックね」


 ほんとうに、そうかな?


 モヤモヤした気持ちを残したまま、コウちゃんとのリモート飲み会が終わった。

 わたしは再びキーボードの上に突っ伏して、玉水先輩のことを思い出して――やっぱりキスしたいなぁと思った。



 それからの一年、本当に玉水先輩とわたしはキスもセックスもなく、清らかなお付き合いを続けた。

 手を繋ぐときはアルコール消毒が必須で、デートも最小限。食事で同じ皿の物を食べることが無ければ、間接キスなんてもちろん無し。

 それでも耐えられたのは、お互い名前呼びになったこと、婚約指輪をいただけたこと、結婚式の準備を一緒にできたことで愛されてると感じることが出来たからだ。

 手の届く距離に居て、気軽にスキンシップできないのはとても淋しかったけれど、おかげでお互い感染症にも罹らず今日を迎えられた。



 レースが幾重にも重ねられた純白のマーメイドドレス。

 ウェディングベールの縁には、凜と咲き誇る百合の花。


 わたしは真っ白な不織布マスクを付けると、顔を覆い隠すようにベールを下ろした。


 今日はわたしの結婚式。

 マスクで表情は読み難いけど、緊張でガチガチのお父さんの左腕に右手をそっと乗せる。

 微かに震えているのは、お父さんのせいなのか、わたしのせいなのか。

 この扉の向こうにはヴァージンロードが敷かれ、その先で白のタキシードを身に纏った彼が待っている。


 両家の拍手を受けながら、お父さんとヴァージンロードを並んで歩く。聖歌の代わりに生演奏で頼んだ結婚行進曲が、厳かにチャペルの中を満たす。

 時折、涙ぐんでいるのか、お父さんの鼻を啜る音が聞こえてきて、わたしまで泣きそうになってしまう。

 チャペルのステンドグラスから降り注ぐ、鮮やかな光がわたしの纏う白のドレスを色付けていく。

 牧師様の前、ダイシくんの元へ辿り着くと、お父さんの腕からダイシくんの差し出す手へと右手を移す。

 お父さんとダイシくんが目配せをしているのを見て、少しだけ胸が苦しくなった。

 緊張しているわたしと対照的に、ダイシくんの目元はいつもと変わらず優しく穏やかだ。


「新郎ダイシ。貴方は病めるときも健やかなるときも、新婦チカを愛し、支えていくことを誓いますか」


 髭をたくわえた外国人の牧師様の、やけに片言なセリフが静かなチャペルに響く。


「はい、誓います」

「新婦チカ。貴女は病めるときも健やかなるときも、新郎ダイシを愛し、支えていくことを誓いますか」

「はい、誓います」


 わたしは力強く頷き、答えた。


「続いて、指輪の交換を――」


 彼に指輪を通してもらうと、今度はわたしが震える指で彼の細くて長い指にリングを通す。

 一目惚れして決めたティファニーの指輪が通されて、二つの指輪がわたしの指できらりと輝いた。

 


「それでは、誓いのキスを――」


 わたし達が向き合うと、マスクピローを持った男の子が緊張した面持ちで横に立った。 

 ダイシくんの手がそろりと伸びてきて、わたしのウェディング・ベールをゆっくりと上げる。

 百合の刺繍が施されたベールが上げられると、視界が明瞭になった。

 そして、ダイシくんはわたしのマスクを片耳ずつ外し、マスクピローへ預けると、彼も自身の着けていたマスクを外しマスクピローへと置いた。

 その瞬間に微かにざわめきが起こる。


「あれって、子役の――」


 そう聞き取れた瞬間、彼の唇がわたしの唇に重なった。





 結婚式も無事に終わり、予約していたホテルへと向かう。

 明日から二人で新居に転がり込む予定だ。


「聞いてなかったよ、子役やってたの」


 しかも、高校受験を理由に芸能界を引退するまで、子役ながらCMに五本、ドラマに十本、映画に三本も出演しているという大スターだ。

 同世代ということもあって、女子の憧れの対象になっていた。

 芸能人に興味のなかったわたしまで名前を知っているレベルだ。

 ただ、正直、ダイシくんが子役だってざわめきのせいで、初めてのキスはふわっとした印象になってしまったので、教えて欲しかったなぁと思う。


「言わなかったからね」

「教えてくれてもよかったのに」

「在り来たりだけど、チカには顔じゃなくてちゃんと内面で見られたかったんだよ」


 それは、顔の自慢とか、ふざけてる訳ではなくて、彼が生きてきた経験のなかでその選択が正しいという判断になったのだろう。

 三歩先にいるダイシくんに駆け寄って、空っぽの手に自分の手を絡めた。

 もう手を繋ぐためにアルコール消毒をする必要もない。


「どんなダイシくんだって、好きになってたと思うんだけどな」


 右も左もわからないまま入社してきたわたしを温かく見守って、ときには叱咤激励してくれて、そんな風に傍に居てくれた。

 それが上司と部下として当然の付き合いだったとしても、わたしはきっと惚れていたに違いない。


「そうかな」


 珍しく自信のないダイシくんの手を引く。

 進行方向と反対へ引っぱられたダイシくんは、たたらを踏んで止まった。

 わたしは彼のマスクを引きずり下ろすと、自分のマスクも下げて、啄むようにキスをした。


 どうか、今だけは誰にも見られていませんように。


 あいにく最初のキスは曖昧なものになってしまったけれど、もう愛情表現するのに我慢しなくていい。

 やっと、あの我慢の日々から解放される。

 あなたに触れられる。


「大好きよ、ダイシくん」


 一年分の大好きをこめて、もう一度キスをした。





 




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