episode.13 Grasp the thorn, and dye me red
◆
みんなが寝静まった寄宿学校は、異様なくらい静かだった。
リリーはアビーの服を返しに行っている。ワタシは部屋でリリーの帰りを待っていることにして、その間に、濡らした布で傷口の汚れを落としていた。
掠り傷や引っ掻き傷が、思っていたよりも多かった。体中に水が染みたり、時々間違って傷を引っ掻いてしまったりして、思わず呻き声をあげていた。
ここに帰ってくるまでは全く痛みなんて感じていなかったのに。こんな情けない姿をリリーに見られていなくて良かった、と思ってしまう。
そうして苦戦していると、部屋のドアが開いた。
「あ、ごめんなさい! ノックすれば良かったわね……」
リリーは少し顔を赤らめて、ドアの後ろに隠れていた。ドアの隙間から見えるリリーの顔色は、先程よりも幾分か良くなっているように見える。
「自分の部屋なんだから、ノックなんて必要ないよ」
「そうなんだけど、ね……」
そうして恥じらうように俯くリリーを見てようやく気付いた。ワタシが上半身を晒しているのを見たせいだった。それが可笑しくて、つい失笑してしまった。
「ふふ、同性なんだから気にしなくていいよ。これまでもそうだっただろう?」
「それもそう、ね」
リリーは愛らしくはにかんでゆっくりと部屋に入って、静かにドアを閉めた。
「たくさん傷が付いてるわね。とても痛そうだわ……」
「大丈夫、このぐらいなんてことないよ」
「背中の血、ちゃんと取れていないわ。良かったらわたしが拭き取ってあげる」
「本当に? じゃあお願いしようかな」
リリーはワタシから布を受け取って、桶の水の中へと入れた。か弱い手で絞られている布からは、少ししか水が出てきていない。
それでも何とか時間をかけて布を絞り終えると、ベッドに上り、覚束ない手つきでワタシの背中を拭き始めた。
痛くない? と最初は確認しながら拭いていたが、加減が分かると何も言わなくなった。背中に布が触れる音がきこえてくるくらい、静かな時間が続いた。
「……ローザは本当に、男の子みたいね」
リリーが
「こんなに細いのに、他の女の子よりも体つきが逞しい気がするし、あんな大きな男の人も
「貧民街で暮らすなら、強くないと生きていけなかったんだ。女のままでいることは命取りになるんだよ」
「ローザは本当に凄いのね……それなのに、わたしったら……」
背中を拭われていた感触が、ぴたりと止まった。ほんの一瞬黙った後、背中に冷たいものが触れた。触れたのは布ではなく、か細いリリーの指先だった。季節はもう夏になろうとしているのに、指先は氷のように冷たい。
「ごめんなさい……わたしが外に行きたいなんて言わなければ、ローザはこんな傷を――」
「それは違うよ。ここから出たいと思うのは当然のことだ。リリーを守り切れなかったワタシの責任だよ」
「ああ、ローザ……」
今度は背中に、おでこと髪が触れるのを感じた。それからすぐ、小さな嗚咽がきこえてきた。ワタシの肩に乗せられたリリーの白い指に自分の手を重ね、その指を握った。
ふと、窓ガラスに映る自分たちの姿が目に入った。ぼんやりと浮かんでいるワタシたちの姿は、暗闇の中で取り残されているようだった。そんな中でリリーは、ワタシにしがみつくように身を預けている。
そうだ、リリー。この世界に心優しい王子などいない。居場所なんてものも無い。アビーは、外にワタシたちの家は無いと言っていた。それは正しいんだ。居場所が欲しいならば、誰かから奪うしかない。この世界は、欲深い人たちで満ちているのだから。
けれど
けれどそれでは生きていけない。貧民街の端で純白で美しい百合が咲いたところで、世界は何も変わってくれはしない。泥だらけの足で踏まれるか、悪事に染まった手で摘み取られてしまうだけだ。
ワタシは
ワタシに縋るリリーをガラス越しに見つめながら、心の中でそう誓った。
◆
「コナー! あれはどういうことだ?」
ジャックは険しい顔をして、ワタシの胸倉を掴んでいる。
「あそこの店主、中々鼻が利く奴だったからね。あんな中途半端な作戦じゃバレるだろうと思ってたんだ。実際アンドリューがとちったじゃないか。簡単に見つかってただろ。だから火をつけて気を逸らしたんじゃないか」
「そうじゃない!」
ジャックはワタシを、勢いよく壁に押し付けた。背中の痛さよりも、胸の膨らみがバレないかが気になって仕方なかった。
「まだ仲間が残ってただろ! 逃げ遅れてたらどうすんだよ?」
「そんなトロい奴は〈スラム・ハウンズ〉には向いてない。オレたちの足を引っ張るだけだ。そんな奴は死ぬなりなんなりすれば――」
ワタシは左頬に強烈な衝撃を受け、思わずよろめいた。口の中で血の味がし始めた。
「……確かにオメェは有能だけど……言って良いことと悪いことがあるだろ」
ジャックの黒っぽい瞳に、人影が映っている。頬骨が浮き出た白い顔。色のない唇。目だけは
「まあまあ、落ち着けよジャック」
アンドリューがワタシとジャックの間に入り、胸倉を掴んでいたジャックの手をゆっくりと解いた。
「俺も他の奴らも無事だし、目的の金だって持ち出せたんだ。良いってことにしようぜ。ほら、仲直りの
ジャックはアンドリューからジンのボトルを受け取ると、豪快に飲んだ。それから残った分をワタシにグッと差し出してきた。
「……オメェのおかげで、誰一人犠牲を出さずに済んだ。危なっかしかったけどな。トッサの判断だったから仕方なかったってことにしといてやるよ」
ワタシはジャックからジンを受け取り、残りを一気に飲み干した。その様子を見ていたアンドリューは満足げに頷いた。
「あのボヤ作戦、俺は好きだぞ。火ぃ見た時の店主のアホ面、すげぇ面白かったな。こんな顔してさ」
アンドリューは大袈裟な顔真似をしてみせた。それを見たワタシたちは思わず吹き出して、さっきまでの張り詰めた空気が嘘のように緩んだ。
「あれさ、これからは最初から作戦に組み込めねぇか? そしたらもっと成功率も高くなると思うんだけど」
アンドリューの提案で、ワタシの心臓はドクリと大きく波打った。
「……止めた方がいい。多用し過ぎると
「それもそうか。じゃあ最終手段ってことで」
「それもダメだ。
ワタシとジャックは容赦なく却下し、アンドリューはちぇ、と残念そうにしていた。
火を多用されたら困る。困るのはワタシだ。今足が付いて捕まってしまうわけにはいかない。そうならないように気を付けなければ……。
もし追ってきたら、その時は〈
今考えていたことを二人に悟られないように、ワタシは大袈裟に笑顔を作った。
◆
あの短い逃避行から、一か月経った。日差しがだんだん強くなり、少し汗ばむ季節になっている。中庭のバラは変わらず真っ赤に咲いていて、それが余計に暑苦しい。
そんな気怠い午後に、ワタシたちは野外で水彩画の授業をさせられていた。置かれた椅子は全部で五つ。リリー、ワタシ、ジェシカ、ハンナ、ルーシーという並びで座り、絵筆を握ってそれぞれの作業に集中している――と思っていたが、ジェシカは集中できないのか、時々筆を止めて遠くを見つめていた。
「ジェシカ、大丈夫?」
始めに声を掛けたのは、アビーではなくハンナだった。アビーは生徒たちの授業に身が入らないのか、少し離れたところでぼんやりとバラ園を見つめている。ここからではきこえないが、何かぶつぶつ呟いているようだった。
「え、……ええ、大丈夫よ」
ハンナに答えるジェシカの声は、ほんの少し上擦っていた。
「ジェシカが描いてるの、風景画じゃないのね。折角外にいるのに」
「べ、別に……外にいるからって、外の物を描かなければいけないわけじゃないでしょ?」
ジェシカは、格下に対して威圧的に話そうと努力しているようだ。だが小者感が隠しきれていない。こんな威厳でここのトップになるのは無理がある。
「じゃあ、何を描いているんだい?」
ワタシは
「……アンタには関係ないでしょ?」
「酷いなあ。一つ屋根の下で暮らすナカマじゃないか。そんな憂鬱顔で描き上げる作品に興味が湧くのは当たり前だと思うけど」
ワタシはそう言いながら立ち上がった。少し前なら授業中に立ち上がるなんて言語道断だが、今はかなり自由になっていた。そうしてジェシカのところへ行き、絵を覗いてみた。ジェシカの画用紙には何やら人物らしきモノが、
「……これは誰なんだい?」
「エミリアよ! 分からないの?」
ジェシカは勢いよくそう口走った後、あっ、と口をつぐんだ。心の中でワタシはやっぱりな、とほくそ笑んでいた。ハンナはワタシを見て一瞬顔を
「よく描けてると思うわよ! 特にこのダークブラウンの長い髪が――」
「さっきからうるさい」
ご機嫌取りのために大きくなっていたハンナの声に耐えきれなくなったのか、ルーシーが心底不快そうに列の端から声を荒げた。
「野犬みたいにキャンキャン吠えたり、鼠みたいにチョロチョロと動き回ったりしてる暇があったら、集中しなさいよ」
ハンナを相手にするジェシカが小型犬なら、ルーシーは恐らく狼だ。それ程の違いがある。唸るような一声に、ハンナは黙り込んだ。ワタシも仕方なく席に戻ることにした。それからはしばらく誰も喋らなかった。
席に戻ってから、ワタシの筆は完全に止まっている。暑さで頭が上手く働かない。そのせいもあるが、耐え難い退屈が、頭の中を支配していた。
今のリリーは、触られることを酷く恐れている。
教室に向かったりするときはリリーから腕を絡めてきて、並んで歩いている。一緒に眠る時、日によってはリリーからワタシの体に身を寄せることがある。
けれどワタシから腕を取ったり、リリーの体を抱き寄せようとしたりすると、リリーは過剰に驚く。そして呼吸が荒くなって、上手く息ができなくなってしまう。ワタシが思っていたよりも、あの時のトラウマがリリーを
ただリリーを待つだけ。それが退屈なのだ。
リリーは隣で誰よりも絵描きに集中している。絵を描く時は他のことをする時よりも、気を紛らわすことができるようだ。
リリーの横顔は、真剣そのものだった。画用紙に向けられた眼差しが、リリーの顔を大人っぽく見せている。その瞳には、以前の無垢な輝きはほとんど残っていない。どこか憂いを帯びているような深いブルーの瞳が、リリーの魅力を一層引き立てている。
ワタシはリリーの絵をこっそりと覗いてみた。以前は絵本のような柔らかいタッチで、王子の絵を描いていた。けれど今は、よりリアルな画風になっている。画用紙に描かれる人物は、王子のような男性ではなく、少し丸みを帯びた女性特有のシルエットになっていた。
「エミリアからお手紙は来たの?」
ハンナが声を潜めて尋ねると、まだよ、とジェシカは素っ気なく答えた。
「向こうの生活が落ち着いたら送るって言ってたけど、あっちが楽しすぎてここのことなんて忘れてるのかもね。お別れ会で見たあんな晴れやかな顔、今まで見たことなかったもの」
ジェシカの内心は待ち焦がれているのだろう。聞いてもいない憶測が、口から勝手に零れている。
「早く来るといいね」
「ええ」
それからはまた沈黙が続き、そろそろ授業の終わりの時間だという頃になった。ハンナがアビーを呼びに行った。
「先生。……先生? ……アビー先生!」
「……ああ、ごめんなさい、ハンナ。どうしたの?」
「授業、そろそろ終わりの時間です」
ハンナの呼びかけにようやく我に返ったアビーは、慌ててポケットから懐中時計を出して確認しようとした。けれど懐中時計は紛失してしまったことを思い出して、余計あたふたとしている。
「あ、ああ……もうそんなに経ったのね。ありがとう、ハンナ。さあ、みんな。画材を片付けてちょうだい。それから悪いけれど、次の時間は自習にしててくれるかしら。後で算数のテストするから、しっかり勉強しておきなさい」
はあい、とみんながバラバラに返事をすると各々道具を片付け始め、教室へと向かった。
「また自習なのね……」
リリーはワタシの隣で絵の具を片付けながら、少し不満げに溜め息をついた。
「あまり他の子たちの輪に入りたくないわ……」
「ルーシーだろう? 一番厄介なのは」
ワタシは小声で聞くと、リリーはこくりと頷いた。
「もう少しの辛抱だよ。ルーシーも今日で卒業なんだから」
「それも、そうね……」
ワタシがそう励ましても、苦笑いしか返してくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます