episode.16 The darkest night


 邪魔者ハンナがいなくなってから一週間程経った日の夜、数日地下室に幽閉されていたリリーが、ようやく部屋に帰ってきた。

 まともな食事を与えられず、頬は痩せこけていた。薄汚れた制服から伸びる茎のような手足には、ミミズ腫れや青痣が浮き出ている。皮膚の所々には、血の塊が付いたままになっていた。目は今のアビーに負けず劣らず虚ろになっている。初めて会った頃の澄み切った湖のような瞳からは程遠く、今は茶色くねばついたテムズ川くらい淀んでいた。


 ワタシはリリーをベッドに座らせてから、ゆっくりと服を脱がせた。その花びらの中は、侵蝕が進んでいた。痣がもっと大きく広がり、元の白さを思い出せなくなりそうなくらいだ。鞭の跡は沢山の蛇が体内に入っているように、そこら中を駆け巡っている。

 リリーが背中を優しく拭いてくれた時のことを思い出しながら、ワタシはリリーの体を拭いた。傷口に水が染みても、リリーは痛いとうめくことなく、ただ黙ってワタシにされるがままになっている。


 今の寄宿学校は以前よりも静かで、ある意味騒がしい。

遠くからはレイラの甲高い叫び声が、ちょうど真上にある礼拝室からは時々歩き回るような足音が、隣の部屋からはジェシカがすすり泣きが。これが昼夜問わず、ひっきりなしにきこえてくる。まるで沢山の人たちと暮らしているみたいで、とても賑やかだった。

 廊下を通り過ぎ、中庭で遊び回り、教室で談笑している顔も知らない子供たちが、今にも見えてきそうだ。

 そうして奏でられる狂騒曲をきき、浮き出た背骨の感触を指先に感じながら背中を拭く。リリーの体を綺麗にすればするほど、桶の水は暗く濁っていった。


「……今日は、久しぶりに二人で眠れるね」


 リリーは答えない。


「……アビー先生、本当におかしいよ。なんでリリーばかりに当たるんだろうね? まるでワタシは見えてないみたいだ」


 リリーは答えてくれない。


「……もう寄宿学校ここに、四人しか残ってないよ。これからワタシたち、どうなるんだろうね?」


 リリーは何も、答えてくれない。ワタシはようやく、リリーの意識がどこへ行っているのかが分かった。リリーは読み物でもするように、呆然と両掌を見つめている。


――燃えかすになった、あの絵本を読むように。


 これが、結果だった。

 己の欲望のままに、ただ奪ってきただけのワタシが得たのは――


「……水が冷たいだろう? 本当はお湯を用意してあげたかったんだけど、ごめんよ……痛いだろう? こんなに体を腫らして……ごめんよ、……ごめんよ、本当に、本当に………」


 ワタシの視界が、水彩画のように滲んできていた。そして桶の水より温かい感触が、頬を伝った。


「…………ローザ?」


 リリーはようやく顔を上げて、ワタシを見た。


「ああ、ローザ……あなたが泣く必要なんてないのに……」


 リリーは礼拝室の冷たい聖母像よりも温かく、慈悲に溢れた微笑みを向け、ワタシを抱き寄せた。剝き出しになったリリーの肌が、寝間着越しでも感じられた。

 それは眠りから醒めないお姫様のものではなく、一人の人間としての、確かな温かさがあった。


「そうよね、ローザ。あなただって、女の子よね。それも、誰よりも強くてたくましい、王子様みたいな女の子だわ。でも、王子様みたいに振舞ってくれたのは……わたしのためなのでしょう? 本当にありがとう……そして、あなたにばかり無理をさせてしまって、ごめんなさい」


 涙なんてとっくの昔にれたものだと思っていた。なのに、リリーがか細い手でワタシの頭を撫でるたび、どんどん外へ出ようとした。

 涙のやり場が分からないワタシは、それを零すまいとしていた。そうしていると、リリーはワタシの顔を、自分の胸元まで優しく導いてくれた。 

 

 我慢しなくてもいい――そう言われたかのようだった。


 ワタシは目を閉じた。流れ続ける涙に、身も、感情も、全てを委ねることにした。ワタシから溢れた涙も、嗚咽も、リリーの胸がしっかりと受け止めてくれた。


「わたしのために頑張ってくれてるって分かってたのに……。わたしったら、いつまでもお姫様気分で……あなたに頼ってばかりだったわ。いつまでも守られてるだけじゃ、ダメよね」


 居場所がなかった感情も、流れることを忘れていた涙も、全てが行くべきところへ辿り着くまで、リリーは抱きしめてくれた。

 そうしてワタシも、行くべきところを見つけた。もう涙は、零れなくなっていた。   

 リリーは泣き止んだワタシを見届けてからゆっくりと体を離し、ワタシの目を真っすぐ見つめた。


「わたしは、ローザとずっと一緒よ。どこに行っても、何があっても」


 リリーは決して、目を逸らさない。


「もう何も、怖くない」


 その青い瞳の奥には、美しい命の炎が燃え上がっていた。

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