episode.16 The darkest night
まともな食事を与えられず、頬は痩せこけていた。薄汚れた制服から伸びる茎のような手足には、ミミズ腫れや青痣が浮き出ている。皮膚の所々には、血の塊が付いたままになっていた。目は今のアビーに負けず劣らず虚ろになっている。初めて会った頃の澄み切った湖のような瞳からは程遠く、今は茶色くねばついたテムズ川くらい淀んでいた。
ワタシはリリーをベッドに座らせてから、ゆっくりと服を脱がせた。その花びらの中は、侵蝕が進んでいた。痣がもっと大きく広がり、元の白さを思い出せなくなりそうなくらいだ。鞭の跡は沢山の蛇が体内に入っているように、そこら中を駆け巡っている。
リリーが背中を優しく拭いてくれた時のことを思い出しながら、ワタシはリリーの体を拭いた。傷口に水が染みても、リリーは痛いと
今の寄宿学校は以前よりも静かで、ある意味騒がしい。
遠くからはレイラの甲高い叫び声が、ちょうど真上にある礼拝室からは時々歩き回るような足音が、隣の部屋からはジェシカがすすり泣きが。これが昼夜問わず、ひっきりなしにきこえてくる。まるで沢山の人たちと暮らしているみたいで、とても賑やかだった。
廊下を通り過ぎ、中庭で遊び回り、教室で談笑している顔も知らない子供たちが、今にも見えてきそうだ。
そうして奏でられる狂騒曲をきき、浮き出た背骨の感触を指先に感じながら背中を拭く。リリーの体を綺麗にすればするほど、桶の水は暗く濁っていった。
「……今日は、久しぶりに二人で眠れるね」
リリーは答えない。
「……アビー先生、本当におかしいよ。なんでリリーばかりに当たるんだろうね? まるでワタシは見えてないみたいだ」
リリーは答えてくれない。
「……もう
リリーは何も、答えてくれない。ワタシはようやく、リリーの意識がどこへ行っているのかが分かった。リリーは読み物でもするように、呆然と両掌を見つめている。
――燃えかすになった、あの絵本を読むように。
これが、結果だった。
己の欲望のままに、ただ奪ってきただけのワタシが得たのは――
「……水が冷たいだろう? 本当はお湯を用意してあげたかったんだけど、ごめんよ……痛いだろう? こんなに体を腫らして……ごめんよ、……ごめんよ、本当に、本当に………」
ワタシの視界が、水彩画のように滲んできていた。そして桶の水より温かい感触が、頬を伝った。
「…………ローザ?」
リリーはようやく顔を上げて、ワタシを見た。
「ああ、ローザ……あなたが泣く必要なんてないのに……」
リリーは礼拝室の冷たい聖母像よりも温かく、慈悲に溢れた微笑みを向け、ワタシを抱き寄せた。剝き出しになったリリーの肌が、寝間着越しでも感じられた。
それは眠りから醒めないお姫様のものではなく、一人の人間としての、確かな温かさがあった。
「そうよね、ローザ。あなただって、女の子よね。それも、誰よりも強くてたくましい、王子様みたいな女の子だわ。でも、王子様みたいに振舞ってくれたのは……わたしのためなのでしょう? 本当にありがとう……そして、あなたにばかり無理をさせてしまって、ごめんなさい」
涙なんてとっくの昔に
涙のやり場が分からないワタシは、それを零すまいとしていた。そうしていると、リリーはワタシの顔を、自分の胸元まで優しく導いてくれた。
我慢しなくてもいい――そう言われたかのようだった。
ワタシは目を閉じた。流れ続ける涙に、身も、感情も、全てを委ねることにした。ワタシから溢れた涙も、嗚咽も、リリーの胸がしっかりと受け止めてくれた。
「わたしのために頑張ってくれてるって分かってたのに……。わたしったら、いつまでもお姫様気分で……あなたに頼ってばかりだったわ。いつまでも守られてるだけじゃ、ダメよね」
居場所がなかった感情も、流れることを忘れていた涙も、全てが行くべきところへ辿り着くまで、リリーは抱きしめてくれた。
そうしてワタシも、行くべきところを見つけた。もう涙は、零れなくなっていた。
リリーは泣き止んだワタシを見届けてからゆっくりと体を離し、ワタシの目を真っすぐ見つめた。
「わたしは、ローザとずっと一緒よ。どこに行っても、何があっても」
リリーは決して、目を逸らさない。
「もう何も、怖くない」
その青い瞳の奥には、美しい命の炎が燃え上がっていた。
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