episode.14 A kiss for the lily, loneliness for the rose


 今日の夕食は、いつもよりほんの少しだけ豪華だった。

 食卓には小さなパンと、野菜のシチューが並べられている。アビーがみんなのグラスに、葡萄酒ぶどうしゅを注いで回っていた。

 色のある食卓を満たすシチューの香りに、みんなは顔をほころばせている。その食卓の傍を、コバエが数匹飛び回っていた。


「さあ、子供たち。葡萄酒は渡ったわね?」


 はい、とワタシたちはバラバラに返事をした。


「今日はルーシーのお別れ会よ。ルーシーのこれからがより良いものになりますように。乾杯!」


 グラスを鳴らしてから、みんなは葡萄酒を口にした。ワタシも同じようにグラスを傾けてから、机に置いた。長机の端に座るルーシーは、悪い女王のように得意げな笑みを顔一面に湛えている。


「やっぱりこれから、家庭教師になるの?」


 ハンナが興味深そうに尋ねていた。


「いつかはね。でも十八歳になるまでは、向こうの寄宿学校にいるつもりよ」

「他の寄宿学校はここよりも広いかしら……?」

「さあね。少なくともここよりはマシなはずよ」


 ルーシーはそう言ってリリーを見た。その目には明らかな侮蔑の色が混ざっている。


「……何よ、ルーシー。わたしは関係無いでしょ?」

「アンタがとろくさくなければ、もう少しマシな生活ができたのかなって。アンタとはもうちょっと仲良くできたかもしれないし、連帯責任の〈救済〉も、もっと少なく済んだかもしれないのに、って思っただけよ」

「……悪かったわね」


 リリーは反抗的な目をしながらも、言い返すのを我慢しているようだった。


「出発はいつなの?」


 少し雰囲気が悪くなったのを察して、ハンナがそう尋ねた。


「明日の早朝よ」

「そうなの、早いのね。ここから遠いところなのかしら?」


 ルーシーの返答に、ハンナはグッと口角を上げて反応している。大袈裟な声を出しているところがわざとらしい。


 ハリボテお別れ会の輪は放っておくことにして、ワタシは隣のリリーを見つめた。葡萄酒のせいか、さっきの怒りのせいか、リリーの顔は耳まで赤くなっていた。


「大丈夫? リリー」

「……ええ。大丈夫よ、ローザ」

「ふふ、リリーも大人になってきたね」

「え? そうかしら?」


 リリーは青い瞳を少し見開いて、顔をより一層赤らめた。


「だって、ルーシーに何も言い返さなかったから。これまでルーシーには散々な目に遭わされてきたじゃないか」

「そうね、もう言われ慣れてるし……それに、事実だから」


 リリーはそう言って申し訳なさそうに、色づいた頬をきゅっと上げてはにかんだ。葡萄酒を飲んで血色が良くなったせいか、唇の色が可憐なピンクに色づいている。


「……リリーはきっと、そうやって素敵な大人になっていくんだろうね」

「なれるかしら?」

「なれるさ。大丈夫だよ」


 リリーの愛らしさにつられてワタシも笑ってみせると、彼女は恥ずかしさを誤魔化すように、葡萄酒をもう一口飲んだ。



 夕食後は余韻に浸ることなく、みんなはそれぞれの自室に戻った。そうしてやがて、寄宿学校全体を、死んだような静けさが包み込んだ。

 リリーはベッドに横になってすぐ、ストンと眠りに落ちたようで、穏やかな寝息を立てている。

 ワタシはリリーが眠っている傍に腰かけ、リリーの頬に手を伸ばした。そのあどけない寝顔は、手を当てても崩れることはない。あの汚らしい男に一度汚されたとは思えない鮮やかなピンク色の唇から、温かい吐息が掌にかかる。

 その愛らしい唇を、親指でそっとなぞってみた。頬とはまた違った柔らかさと、薄皮の繊細な感触を、指先から伝って全身で感じ取り、体を震わせた。


 熱のこもった溜め息が、ワタシの口から漏れ出す。

 絵本が焼失した夜、唇でここを塞いだ時の高揚感が蘇ってきた。果実になることも知らない一輪の花に口づけしたかのようで、みずみずしく、青々とした香りが、鼻腔を満たすような気がした。


 ワタシはリリーの体の上に、そっと覆いかぶさってみた。それでもリリーは表情一つ変えず、眠りに身を委ねている。リリーの寝間着のボタンを、ゆっくりと外した。胸の下まで外し終えて肌着をめくると、花びらの中が露わになった。

 月明かりに照らされた肌は、白く輝いている。所々に残る痣が、水彩絵の具を紙に垂らしたように肌の上にじんわりと広がっていた。その上を薄い産毛が覆い、一つ一つが光を含んでいる。控えめな胸は、イギリスの平原にあるなだらかな丘を思わせる。大人の女性たちが持つものの大きさには及ばない。けれどその胸は、大人になるために繭を突き破ろうと足掻いている途中なのだ。


 花の形を崩してしまわないように、ワタシは指先で順番に触れていく。金色の前髪、こめかみ、頬、首筋、鎖骨――あばら骨の感触を確かめながら、胸の輪郭をそっとなぞる。弛緩した小さな胸を、親指と人差し指の間にそっと挟み込む。か細く、儚い体つきをしているのに、包み込むような柔らかさと、確かな鼓動が指に伝わってくる。

 これだけ触れているのに、リリーはまだ眠り続けている。その寝顔を見つめながら、服の下に手を滑らせていく。肋骨を通って、下腹部へ至る。この体はいつか花粉を受けて、命を宿す日が来るかもしれない。そんなことを知らない腹部は、呼吸に合わせて穏やかに上下していた。


「ローザ」


 ワタシは顔を上げた。


 雲一つなく晴れ渡る空の下、ワタシは平原の只中にいた。心地いい爽やかな風が吹き抜けていく。それに合わせて青々とした草が揺れる。真っ赤なバラは、どこにもない。


「ローザ」


 声の主は、丘の上にいた。太陽に照らされた豊かな金髪を自由になびかせ、広い海を思わせる青い瞳を煌めかせている。


「ローザ」


 透き通った声は、丘の上から発せられている筈なのに、すぐ近くできこえる。


「さあ、行きましょう」


 そう言って彼女は手を差し出し、ワタシは手を伸ばした。



 気が付くと、暗いベッドの上に戻っていた。ワタシの手は、布団から出ているリリーの手の上に重ねられている。リリーはまだ、眠っていた。

 ワタシはその手を離すと、リリーの肌着を元に戻し、外したボタンを上までしっかりと留めた。リリーの布団をかけ直してからベッドを降り、そのまま部屋を出た。


 ドアを音もなく閉めると、床板がよく鳴る箇所を避けながら廊下を歩いた。窓から差し込む月明かりを頼りにしながら廊下の端まで行き、地下へ続く階段の前へと辿り着いた。

 その場で立ち止まり、階下から物音がしないか、耳を澄まして確かめた。アビーの靴音がしないと分かると、音を立てないように地下へと降りた。

 地下にはいつもの通り、ぶちぶちと人形を引きちぎるレイラの姿以外、誰もいない。レイラは作業に集中している。こちらから声を掛けない限り、ワタシの存在に気付くことはないだろう。


「こんばんは、レイラ。元気そうだね」


 そう挨拶しながら、レイラの近くにしゃがみ込んだ。


「あら、ローザ。いたのね」


 顔を上げてワタシを見て、興味の無さそうな声で返事をした。それからまた、手元の人形に目を向けた。


「今はあなたと遊んでるヒマはないの」

「忙しそうだね」

「ええ。まだエミリアも完成してないのに、今度はルーシーも仲間入りさせなきゃいけないもの」

「ワタシもいなくなる頃には、人形になるのかな?」

「そのつもりよ」


 ふうん、と適当に反応しながら、自分の制服の胸元を軽くつまんでみた。あんな傀儡くぐつの仲間になるなんて、こちらから願い下げだ。


「アビー先生は?」

「知らないわ。きっとバラのお世話ね」

「バラのお世話、か。こんな夜中に熱心だね。レイラはあのバラ、どう思う? あんなにむんむんと香るバラなんて、きたりしないのかい?」


 レイラは何も答えず、ただ人形を破り続けている。その近くには、シチューを完食した後の皿と、口をつけられていない葡萄酒のグラスが置かれていた。


「葡萄酒、飲まないの?」

「レイラ、ブドウ酒はキライなの。変な味がするから」

「奇遇だね。実はワタシも嫌いなんだよ」

「用事はそれで終わり? そろそろあっちに行ってほしいんだけど」


 レイラは作業を続けながら、明らかに苛立ち始めたような声で答えた。ここでジェシカを相手にするときと同じように話を続けると、噛みついてきたり喚いたりしてかなり面倒なことになるだろう。


「ああ、それだけだ。そろそろ寝るよ。おやすみ、レイラ」


 何も答えないレイラを背に、地下室を出る階段へと向かった。


「ローザ」


 不意に後ろから、レイラが声を掛けてきた。


「あなたは、この学校に来たの?」


 意外な人からの意外な質問に、思わず振り向いた。


「……なんでそんなこと、きくのかな?」

「あなたを作るときのためにきいてるの。あなたは他の子たちと、どこかちがうように見えるから」

「じゃあ逆にきくけどさ、レイラはどうしてここに来たの?」

「はぐらかさないで」

「言ってくれたらワタシも答えるよ」


 牢に閉じ込められた化け物の顔から、今にも暴れ回りそうな苛立ちが消えた。その顔には、年相応の少女が持つ孤独と悲しみが滲んでいる。


「……ここしか来るところがなかったの。お屋しきにも、ビョウインにも、レイラはいらないって言われた。でもアビー先生はちがった。レイラを呼んでくれたから」


 そう言い終えた直後、少女の顔は消え失せ、元の化け物の顔に戻った。


「さあ、言ったわよ。ローザも教えてちょうだい」


 少しの間沈黙を置いて、今の自分の顔を想像してみた。誰よりも濃い眉間の皺を際立たせて、可笑しな笑みを浮かべているだろう。


「……寂しかったから、でどう?」

「あなたが? 意外ね。てっきり何か、目的があって来たのだと思ってたわ。いつも思い詰めた顔をしてるもの」

「この世界は寂しがり屋な人間で溢れてるんだよ。レイラは知らないだろうけど」

「……いいわ。早く出てってちょうだい」


 言われずとも出て行くさ、と心の中で答えながら、ワタシは地下室をあとにした。階段を上りながら、背筋を走る寒気を感じていた。


 もう少し寄宿学校の中で、夜の探索をしようと思っていたが、バラ園から戻ってくるアビーらしき人影が窓の外から見えたので、目立った収穫を得ることなく、ワタシたちの部屋に戻るしかなかった。


 部屋に戻り、音が廊下に響きわたらないよう、慎重にドアを閉めた。部屋はリリーの静かな寝息しかきこえない。彼女はベッドで身じろき一つせず眠っている。ワタシはその隣に滑りこみ、リリーをじっくりと眺めた。


 彼女を支配している恐怖はなく、穏やかな顔をしている。夢も見ずに眠っているようだ。その深い眠りが、一時的に苦しみから解き放っているように見えた。

 ワタシは眠る唇に口付けをし、舌先でそっとなぞった。


 ほんのりと苦い、葡萄酒の味がした。





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