episode.4 A flock of roses
授業の準備をする前に、いつもの引き出しを開けて気が付いた。
中身が空っぽだ。なくなっていたのだ。ここにいつもしまっているものが。
わたしの絵本が。
いつもは絶対ここにしまっているから、他の場所にあるというのはありえない。引き出しを引っ掴んで外したり、机の下を覗いて手を入れてみたり、意味もなく引き出しを叩いたりしてみる。けれどどこにもない。
わたしの絵本が。大切な絵本が、どこにも、どこにも――
「何か探してるの?」
ベッドのシーツを剥がし始めたところで、服を着替えていたローザが声をかけてきた。
「わたしの絵本が無いのよ! どこにも! いつも引き出しにしまっていたのに!」
「いつもそこに大事にしまってたのはワタシも知ってる。昨日も確かに、リリーがちゃんと引き出しに入れてるところを見た筈だけど……」
「ローザ、何か知ってるんじゃないの?」
勝手に口から言葉が吐き出されていた。気付いたときにはもう遅く、激流のように渦巻く感情に押し出されて、言葉が止まらなくなっていた。
「ここにわたしの宝物しまってるって知ってるの、ローザくらいでしょう?」
「そうだとして、それをワタシがどうするんだい?」
「誰かに教えたんだわ。リリーは絵本を宝物にしてることを秘密にしてるって! それがないと何もできなくなるって! あの絵本はあの子の引き出しの中にあるんだって! そうやってわたしの弱みを握って、寄宿学校の中でまた孤立させる気でしょう? そうやってあなたも、わたしを子供っぽいって笑うのね!」
「そんなこと……するわけないよ。たった一人のルームメイトが悲しむようなことを、ワタシがするわけないだろう?」
「でもあの三人組に脅されたら! 誰だってそうするわ!」
わたしの言葉の濁流に押されてもなお、ローザはわたしを真っすぐ見つめている。その瞳は、太陽を隠す黒雲のようにかげっている。光が失われていく様子は悲痛なものだった。
そんな目で、わたしを見ないで。
居ても立っても居られなくなり、わたしは弾かれたように部屋を飛び出した。息を切らしながら、いつもより長く感じる廊下を走り抜けて外に出て、そこからさらにバラ園の中を通っていく。バラの匂いでむせ返りそうになりながら、ひたすら走った。
無数の赤いバラに睨まれているような、鋭い茨が腕をぶすりと刺してきそうな、そんな気がした。ボンネットを付けていないわたしの長い金髪は、頼りなく風になびいている。クシで
どれだけ走ってもても、バラ、バラ、バラ、バラ。このバラが延々と続いていくような気がしてくる。涙が次々と溢れて止まらない。息が、苦しい。
ようやくバラ園を抜けて、いつものヤナギの木の下に辿り着いた。自由時間はいつもうるさいのに、今はしんと静まり返っている。バラたちが、昨晩の雨を吸い込んでいる音まできこえてきそうなくらい。わたしの荒い息遣いが、嫌に大きくきこえる。その静けさが余計に心を抉る。わたしはもう、独りぼっちだ。
ああ、リリーという名前が憎い。
そんな名前とは違って、
わたしは疲れ果てて、ヤナギの木の下にぺたりと座った。前を向くと、通り抜けてきたバラ園が見えてしまうから、ただ俯いているしかなかった。下を向くと涙が零れてしまう。けれど、そんなことを気にしている余裕なんてない。こうして待っていれば、あの憎きバラ園からローザが出て来てくれるのではないかと、心のどこかで期待している自分がいる。大切な絵本を抱えて、「さっきはごめん。ワタシが悪かった」って言ってくれることも。
待っている? ローザもあの三人組のグルかもしれないのに?
こんな時までわたしは……。本当に自分が嫌になる。
授業前の予鈴が鳴っても、ただ一人のルームメイトはバラ園から出てくることはなかった。このままここにいてアビー先生から〈救済〉を受ければ、もっと最悪な状況になる。痛いのはもう嫌だ。
仕方なく立ち上がって、できるだけ急いで、けれどいつもの半分の速さで部屋に戻った。
案の定、部屋には誰もいなかった。さっきよりも部屋のあちこちに物が散らばっていて、雑然としていた。シーツは剥がされ、引き出しは全て開けられていて、まるで大きな嵐がこの部屋に訪れたかのようだった。
わたしの机の上には、用意した覚えのない授業道具たちがまとめられている。その一式を持って急いで教室に向かったが、教室に向かう途中で本鈴が鳴った。遅刻した上、無断で中庭に出ていたこともアビー先生にバレてしまい、その場で鞭打ちを受けてしまった。
三人組は嫌らしい嘲笑を浮かべてわたしを見ていた。ハンナは自分が鞭打ちを受けたかのように痛そうな顔をしている。
ローザはこちらを
その日の昼食は抜きにされてしまった上に、ローザに話しかける機会が見当たらなかった。でももし機会があっても、話しかけることは出来なかった。お邪魔虫がいなくなったと言わんばかりに、ローザの近くにはいつも誰かがいたから。お腹が空いて、気分は沈んだまま、最悪な一日が終わっていく。そう思っていた。
けれど事態は、思っていたより早く動いた。昼休み後の自習時間、テストに向けて真面目に勉強しようかと思ったところで、歴史の教科書だけないことに気付いた。幸い、その時先生はいなかったので、急いで部屋に取りに行った。
部屋は相変わらず散らかっている。探すのに骨が折れそうだと思いながら、ノロノロと探し出した。
机の引き出しを開けた時、わたしの身に覚えのないものが入っていた。それは雑に破り取られた一枚の紙切れだった。それにはこう書かれていた。
『お前の本を持っている。夕食後、納屋で待つ』
わたしはその場で凍りついた。間違いなく犯人だ。容疑者は五人。エミリア、ルーシー、ジェシカ、ハンナ、そしてローザだ。今なら誰がやってもおかしくない。だからこそ、誰だか分からない。字から判別しようと思って、穴が開きそうなくらい紙を凝視してみた。けれど、誰が書いたのか全く見当もつかない。直線だけを使った特徴のない字で書かれていたからだ。余計に質が悪いし、気味が悪い。
後でローザに相談してみようという考えが浮かんだけれど、すぐ取り消した。ローザだって容疑者だ。そんな人に相談するなんて、犯人の前で無防備な姿をさらすだけ。そうでないにしても、今は頼れるような状況ではない。
ローザが寄宿学校に入学してくる前は、全部自分一人で何とか解決していた(もちろん全部ではないし、完璧とは言えない)。ただ前の状態に戻っただけだ。だから大丈夫。わたしは弱くない。自分にそう言い聞かせた。
……なのに。
前は独りでやれたことが、今ではできなくなっているような気がする。少し前までは地下室の檻の中で一晩過ごしても、全然平気だった。自分のロウソクの火が消えたからって怖がることなんてない。化け物を怖がる小さな子供じゃないのだから。ただ痛いのを我慢するだけ。そうして目を閉じて眠れば良い。ただそれだけ。泣く余裕なんてない。だから平気だった。平気だと思っていた。
なのにどうして、今朝も、今も、こんなに胸が苦しいのだろう。どうして独りの戦いが、こんなにも寂しいのだろう。どうしてこんな時に――
あの手の温もりを思い出してしまうのだろう。
……ダメよ、リリー。弱気になってはいけない。それでは犯人の思うツボにはまってしまう。
アビー先生が戻ってこないうちに、急いで教室に戻った。相変わらずみんな、静かに自習している。何か喋っていれば、何となく犯人が推測できたかもしれないのに。テストが近いから、今日に限ってみんな真面目に勉強している。
わたしも同じように勉強しようと、自分の席に戻る。教科書を開いてみたけれど、文字が宙に舞っているみたいだった。その文字たちがわたしに囁きかけてくる。
『独りぼっちのちびっ子リリー。子供みたいにわめく怒りんぼ。誰からも愛されない寂しんぼ』
頭の周りでクルクル回る文字たちを振り払うように、わたしは辺りを見渡す。みんなの顔を見ていく中で、やっぱりローザが目に入ってしまう。手元の教科書を熱心に見ている端正な横顔からは、何も読み取れなかった。
長く感じた一日だったけれど、ようやく夕食の時を迎えた。結局自習には身が入らず、テストで最下位だったわたしだけが補習になった。みんなが遊んでいる時に無理矢理勉強させられたから、頭は疲れ切っている。昼食を抜きにされていたので、今日の夕食は幾分か美味しく感じるかもしれない。
そう思っていたけれど、黒ずんだパンは布をかじっているみたいにぱさぱさして味を感じない。水っぽい冷めたスープも泥水のように見えてくる。ただでさえ不味い食事が、今日はもっと不味い。今日はいつもより早く食べ終えてしまいたかったけれど、中々終わらなかった。
食卓にいる他の生徒たちは楽しそうにおしゃべりしている。エミリアが話の中心になって、今日の歴史のテストの出来具合を報告し合っているみたいだ。エミリアをおだてるために、周りがあれこれ思考を巡らせながら、みんなで気遣い合戦をしている。
ローザも例外ではなく、愛想笑いを浮かべながら無言になり過ぎないように、けれども目立ち過ぎないように話の輪に加わっていた。その時のローザは、一人一人品定めしているような目つきをしている。アビー先生がわたしを地下室に連れていく時の目に似ている気がして、ほんの少し寒気がした。
何とか食事を終えて、一度荷物を置くために部屋に戻った。先に戻っていたはずのローザは、なぜか部屋にいなかったので、心底ホッとした。このまま部屋にいるのも、黙って部屋を出ていくのも、ものすごく気まずいと思っていたからだ。
徐々に早まる心臓の鼓動を抑えようと、ベッドに座って深呼吸した。鼻の中に、自分の匂いと、ローザの匂いが微かに入ってきた。ルームメイトが一人増えてまだそれ程経っていない部屋を、夕暮れの真っ赤な光が照らす。
今日の朝、狂ったように絵本を探し回って、部屋中の物を引っかき回した。わたしの人生の中で五本指に入る、最悪の一日の始まりだった。散乱している本や衣服、文房具にあたる僅かな日の光が、一日の終わりを告げている。
けれどわたしの戦いは、まだ終わっていない。わたしは一息ついてすくっと立ち上がり、部屋を出た。外へ出ればまた先生に怒られるだろう。それでもわたしはためらうことなく、外へ踏み出した。
お姫様を迎えに行く王子様のように、勇敢な一歩だった。
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