episode.5 Doubt and burst

 闇の底に沈もうとしている納屋は、バケモノが潜んでいそうな不気味さがあった。辺りは静寂に包まれていて、草を踏みしめる音がやけに大きくきこえる。


 一体誰が待っているのだろう。納屋に近づけば近づくほど、鼓動が早くなっていく。


 いよいよ納屋の前に辿り着き、そのドアに耳を当ててみた。物音一つきこえない。生唾をゴクリと飲み込んで、錆びたドアノブをひねった。ぎいっと軋んだ音を立てながら、運命の扉は開いた。


 そこには誰もいなかった。バラの肥料が入った大量の麻袋と、スコップなどがあるだけだ。中は土やカビの独特な臭いが充満している。所狭しと置かれている肥料袋の間に、ヒト一人隠れられるようなスペースはない。まだ来ていないだけなのか――。


「あら、もう来てたのね。アンタはいつもノロマだからビックリしちゃった」


 後ろから声を掛けられて、思わず飛び上がった。すぐさま振り返ると、そこにはジェシカの姿があった。ローザではなかったことへの安堵と、いたずらで絵本を盗んだことへの怒りが湧き上がってきて、頭の中はごちゃごちゃになっている。


「弱虫リリーのことだから、てっきり来ないと――」

「あなたが絵本を持ってるのね?!」


 ジェシカの嫌味ったらしい前置きを遮ると、ジェシカはにぃっと笑った。


「ええ、そうよ。これでしょ?」


 ジェシカは左手に持っている絵本を掲げて、ひらひらと見せびらかした。


「十六歳にもなって絵本が宝物だなんて、本当に子供なのね。知った時は腹を抱えて笑ったわ」

「返して!」


 わたしが飛び掛かると、ジェシカはひらりとかわし、納屋の奥へと入った。わたしは勢い余ってその場で転んでしまった。さっきまで嘲笑的な笑みを浮かべていたジェシカの顔から、途端に笑みが抜け落ちた。瞳は憎悪の炎でギラギラと鈍く光っている。


「アンタを子供だって思って油断してたわ。あたしがバラを折っちゃったことがバレるとは思わなかった。しかもご丁寧に手紙とバラまで送りつけてくるなんて。ことしてくれるじゃない」

「なんでわたしがやったって……」

「そんなの筆跡で分かるわよ。何年寄宿学校ここで暮らしてるのさ? アンタの子どもっぽい字なんて何百回も見てるわよ。詰めが甘いところは、まだまだお子ちゃまね。わざわざアンタに手紙を返して、お手本を見せてあげたじゃない。気に入って頂けたかしら?」


 わたしはただ黙って睨み返すしかなかった。ただ策略を借りただけでは、完全な仕返しはできない。興奮で頭に血が上ると細やかな注意力が欠けてしまう。今更ながらわたしの悪い癖を思い知らされた。床に座り込んだままのわたしと、わたしを見下ろすジェシカの間には、絶対埋まることのない、深く黒い溝があるように思えた。


「アンタにお手本を示しただけじゃ物足りない。……もしエミリアにバレたことが知られたら……アンタ、どうしてくれるのさ!」


 焦りを混ぜながらジェシカは早口でそう叫ぶと、床に絵本を叩きつけた。大きな音を立てて叩きつけられた絵本は、その勢いで角が折れ曲がった。

 ジェシカは手に持っていた小さな瓶を傾けると、ドボドボと液体が零れた。叩きつけられた絵本は、見るも無残な姿に変わり果てた。


「何するのよ! 大事な絵本なのよ!」

「大事だって知ってるからやってるんでしょうが!」


 これまで聞いたことがないジェシカの怒号で、納屋がピリピリと震えた。その迫力に気圧されそうになったけれど、転んだ時にすりむいた膝の痛みを抑えながら、何とか立ち上がろうとした。その時、しゅっと何かを擦る音がした。


「これ以上近づかないで!」


 マッチに灯った小さな火で、ジェシカの必死な形相が闇の中に浮かんだ。


「謝って! あたしたちに逆らったことを! 早く誓って! 二度とあんな真似しないって! このことは秘密にするって! アタシに逆らうのは、エミリアに逆らうのと一緒なの!」


 あの三人組の面目を保つために、わたしは利用された。酷い仕打ちを受けて、無関係なローザまで疑うことになって、心が押し潰されそうな孤独を強いられた。ここまでされて、言うことに従うわけがない。


 わたしは一直線にジェシカの元へ駆け出した。そうしてジェシカの手からマッチを奪おうとしたのだ。けれど駆け出す頃には、マッチはジェシカの手から離れていた。落ちたと思った瞬間、大きな炎の壁が、わたしたちの間に立ちはだかった。

 炎は狭い納屋の中で、あっという間に周りの肥料を喰らい始めた。バン、バン、と爆ぜる音を立てて、むくむくと大きくなっていく。初めて見る大きな炎の怪物に、声が出なくなっていた。ジェシカはここまで燃え上がることは想定していなかったようで、入り口の方へ後退りしたきり、目を見開いたまま動けなくなっていた。


「貴女たち! 何してるの?!」


アビー先生が半ば悲鳴のような怒号と一緒に納屋に入ってきた頃には、炎の大きさはわたしの身長を超えていた。


「……肥料に火が燃え移って……そしたらあっという間に……」


 今起こっている状況を未だに整理出来ていない頭を何とか動かして、わたしは先生にそう伝えた。本来説明するべきなのはわたしじゃない。火を放った当の本人は、暑いはずなのに口元をガタガタと震わせている。燃え上がる炎に照らされた顔は、紙のように真っ白だった。

 アビー先生の後に続いて、ローザが納屋に入ってきた。バケツいっぱいの水を抱えて、それを勢いよく炎にかけた。


「危ないから離れて! 早く消火を!」


 ローザの冷静な掛け声でわたしたちはようやく我に返ると、井戸水やら貯めていた雨水やらをありったけ持ってきては火にかけた。四人でそれを何度か繰り返しているうちに、火は次第に小さくなっていった。


 火が消えた頃には、納屋に元の静寂が訪れた。わたしたちの荒い息だけがきこえる。さっきまでのカビ臭さがなくなって、焦げた匂いが辺りを充満し、火が燃え移ったバラの肥料はもちろん、納屋にあった物は全部黒焦げになっていた。こんな中でも絵本だけは魔法の力で守られて――なんて願うほど、わたしはもう子供ではない。


「これは一体どういうこと?」


 アビー先生にそう聞かれ、ジェシカは力なく手を挙げた。


「……あたしがやりました」


 この事件の後では、流石に嘘をつく気力は残っていなかったらしい。ジェシカの顔は、未だに血の気が戻っていない。


「勝手に外に出た上に、火までつけるなんて……。ジェシカ、私の部屋まで来なさい」

「……はい、先生」

「とにかく、誰も大きな怪我はしてないわね?」


 アビー先生の厳しくも、いつになく優しい声に、わたしたちは黙って頷いた。


「ローザ、教えてくれてありがとう。貴女が教えてくれてなかったら今頃どうなっていたことか」

「いえ、ワタシは偶然見つけただけですから」

「リリーはローザと部屋に戻りなさい。事情はジェシカからきくから。ローザ、リリーをよろしくね。くれぐれも勝手に外に出さないように」

「分かりました、先生」

「行くわよ、ジェシカ」


 ジェシカはアビー先生に背中を押されて、力なく歩いていった。あれだけのことをしてしまえば、かなりキツイ〈救済〉が待っているだろう。情けなく丸めたジェシカの背中は無様だった。いつものわたしなら笑ってやるけれど、今のわたしにそんな元気は残っていない。


「すまない、リリー。ワタシが目を離したうちにこんなことになっていたなんて……ああ、膝を擦りむいてるじゃないか。痛そうだ」

「大丈夫よ、全然痛くないわ。……それとね、ローザ――」


 わたしは喉の奥に引っかかっていた物を吐き出すように、今日一日ずっと言えなかった言葉を続けた。


「ごめんなさい、あなたを疑ったりして……。あなたがやるわけないのに、わたし、酷いこと言っちゃった……」

「いいんだよ。あれは疑ってしまっても仕方なかったから。リリーが無事なら、それでいいんだ」


 そう言ってローザは、淡く優しい光を湛えた瞳でわたしを見つめた。温かい光だ。その温かさで、恐怖や不安で凍りついた心が、少しずつほぐされていく。それでもまだ少し震えていたのか、ローザはわたしの背中に手を回して、そっと撫でてくれた。


「ジェシカ、今晩いっぱいは部屋に帰れないわね、いい気味だわ」


 そう言って笑ってみたけれど、無意識に視線が焼け跡の中でさまよってしまう。もう見つかるはずはないと実感すればするほど、目から涙が溢れてきた。


「大事にしてた絵本、燃やされちゃったの……」

「そうだったのか……。あの三人組、油断ならないって思ってたけど……まさかジェシカがここまでするとはね……流石にワタシも予想できなかった。でもここまでの事件を起こしたとなれば、あの三人組も大人しくなるだろうね」


 ローザはわたしの背中をさすりながら、焼け跡を見回した。


「それにしても、バラの肥料ってあんなに燃えるんだね」

「わたしも驚いたわ。大事な肥料だからってアビー先生はあまり触らせてくれないから……。あんなに恐ろしいものだなんて知らなかったわ……」

 ローザのあどけない表情を見ているうちに、気分がだんだん落ち着いてきた。


「さて、部屋に戻ろうか。色々あって疲れただろう?」

「ええ、そうね。でもローザが来てくれて安心したわ。絵本の王子様みたいで、カッコよかった……ありがとう」

 ローザは微笑むと、王子様のように仰々しくお辞儀をしてみせた。本当に王子様が目の前にいるような感覚になって、顔が少し熱くなる。ワンピースを着た王子様は、わたしの手を取って部屋までエスコートしてくれた。



 ◆



「もうかえっちゃうの?」

「ごめんな、リリー。今から行かなきゃいけないところがあるんだ」

「そっか。パパはいそがしいのね。つぎはいつ会える?」


 わたしがそう聞いたところで、お父さんは何も言わなくなってしまった。部屋のあちこちからきこえる赤ん坊の泣き声がうるさい。小さいわたしと目線が合うようにしゃがんでくれているお父さんの顔を見つめた。薄暗い部屋の光が、お父さんの痩せこけた頬の影を濃くしている。


「パパ、ちゃんとごはん食べてる? このまえよりもおカオがほそいわ」

「アハハ、リリーはちゃんとパパのこと見てくれてるんだね。嬉しいな。でも大丈夫。ちゃんと食べてるさ」


ニッと、お父さんが笑う。立派なヒゲの下で、シワと一緒に細長い赤い筋が動いたのが見えた。


「おヒゲの下、ケガしてるわ。どうしたの?」

「……ああ、ちょっとケンカしちゃってね」

「ケンカ? ケンカはダメよ! なかなおりしなきゃ」

「そうだね……仲直り、しなきゃね」


 お父さんは俯いて少し考えてから、わたしの顔を真っ直ぐ見つめた。


「なあ、リリー。これからお父さんは、いなくなったお前のお姉ちゃんを探しに行く。仲直りするために必要なことなんだ。もの凄く時間がかかると思う。一か月、半年、一年、それ以上かもしれない。その間乳母小屋ここには帰ってこられなくなる。お前ももうすぐここにいられないくらい大きくなる。だからお父さんが帰ってくるまで、リリーには寄宿学校に行ってもらいたいんだ」

「きしゅく、がっこう?」

「ああ、そこでリリーと同じくらいの子達と一緒に暮らすんだよ。沢山勉強して、遊んで、お友達を作るんだ」

「パパと、くらせないの?」

「お姉ちゃんを見つけたら、必ず戻る。そうしたらお母さんも呼んで、一緒に暮らそう」

「やっとママに会えるのね! どんな人かしら? どんなドレスをきているのかしら?」

「素敵な人だよ。会ってからのお楽しみ。……だから、リリー。パパが帰るまで、待っていられる?」

「ええ、まってるわ。これまでもリリー、ちゃんとまってたから」

「……ありがとう。やっぱりリリーは良い子だ。そんな良い子に、預かっていてほしいものがあるんだ」


 お父さんはそう言って、そばにあった鞄から物を取り出した。鉛筆のセットと、スケッチブック、そして絵本だった。


「これはね、お前のお姉ちゃんが大切に使ってたものなんだ。リリーに持っていてほしい」


 わたしはその三つをお父さんから受け取って、一つ一つじっくりと眺めた。

鉛筆の一本一本には、元々彫られていた文字を消すように、上から何本もの横線が刻まれている。その隣に文字が彫られている。わたしではアルファベットすら読めない。

 スケッチブックを開くと、花や、うさぎ、髪の長い女の子、そしてヒゲがついた男の人の似顔絵が描かれていた。その下に何か文字が書かれている。


「ねぇ、パパ。これ、なんてかいてあるの?」


お父さんにそのページを見せた途端、お父さんは声を上げて泣き出した。ごめんよ、ごめんよ、と言い続けて。何が何だか全く分からないまま、わたしはお父さんに強く抱きしめられた。


「このスケッチブックは……リリーが使ってしまってくれ。お父さんにはちょっと……辛いものだから」

「わかったわ。リリーがつかう。だからなかないで、パパ」

「ありがとう、リリー」


 わたしは抱きしめられたまま、お父さんが落ち着くのを待った。

 持っていた絵本の表紙が目に入る。なんてキレイな色だろう。この薄暗い小屋とは違って、とても色鮮やかな世界だった。表紙に描かれている長い金髪と青い瞳を持つ女の子は、わたしにそっくりだ。そのせいなのか、その絵本に親近感が湧いた。この絵本が早く読めるようになりたい。強くそう思ったときには、早く寄宿学校に行きたくて仕方がなくなっていた。


 お父さんは泣き終わるとわたしの体から手を離して、出発の準備を始めた。


「きしゅくがっこうにはいつ行けるの?」

「来週だよ。校長先生が迎えに来てくれる」

「たのしみだわ! リリー、べんきょうがんばる! パパがかえってきたら、こんどはリリーがこのえほんをよみきかせてあげるからね!」

「それが読めたらリリーも、すっかり良い大人だね。楽しみにしてるよ」


 頬が濡れたまま、お父さんは笑った。無理をしている時にする笑い方だった。アビー先生がよくそんな顔をするから、よく知っている。


「お父さん、もう行くね。リリー、良い子でいるんだよ」

「うん! いってらっしゃい、パパ」


 扉が完全に閉じてしまうまで、わたしはお父さんの背中に手を振り続けた。


 それがお父さんの、最後の姿だった。



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