episode.6 A dream is gone, and still she sleeps

 ◆



 目を開いても暗闇だった。

 頬をつけていた枕は濡れている。まばたきをするとまた一滴、ぽたりと枕に落ちた。その音が大きくきこえる。


 ……静か過ぎる。


 急に不安に駆られて、わたしはベッドから体を起こした。


 ……よかった、ローザはちゃんと隣にいる。


 暗くて顔は見えないけれど、ちゃんと寝息がきこえる。ローザの寝息はいつも小さい。だから時々、わたしが眠っている間にいなくなってしまうのではないかと思っていた。


 まだ少し痛む膝を指でなぞる。ローザが手当てして巻いてくれた布の感触が、さっきまでの不安を和らげてくれた。ローザはわたしを置いて行ったりしない。


 だからこの不安とは今日でお別れ。さよならを告げるために眠らなきゃ。


 わたしはまた、腫れぼったいまぶたを閉じる。けれどやっぱり、簡単には眠れない。眠る前までは、体に鉛が詰まっていたみたいだった。疲れていたのだと思う。だから、ベッドに倒れ込んだらすぐに眠れた。でも目が覚めたら、その鉛が一気に流れ出して、今度は体が空っぽになってしまったみたいだった。空っぽになると、その隙にするりと入り込んでくる。もう考えたくない、あの悪夢が。


 悪意の炎に焼かれてしまった、わたしの大切な絵本。宝物だった絵本。憧れであり続けた絵本。わたしの希望だった絵本。あれが読めれば、わたしはきっと素敵な大人になれる。そう信じ続けてきた。でも、今はもうない。ヤナギの木の下でワタシを励まし続けてきた存在は、わたしを置いて遠い場所へ行ってしまった。

 しかしそんな存在だったからこそ、絵本がなくても覚えている。何度も何度も読み返したから、どのページの絵も、言葉も、すぐに思い浮かべられる――はずだった。 

 思い浮かべようとすればするほど、わたしから遠ざかっていく。わたしの姿と重ねたあの女の子が、まだ見ぬわたしの王子様が、さよならも告げずに去っていく。


 あの二人はお城で一緒に暮らす。ずっと、幸せに。わたしをここに置いて。あの女の子は――わたしの顔をしたあの子は、炎の向こうに消えていった。


「リリー」


 背後から声がした。その声は、わたしにまっすぐ届いた。


「ごめんなさい、ローザ。起こしちゃった?」

「ううん、ワタシは元々眠りが浅いんだ。だから大丈夫だよ。……眠れなさそうだね」

「絵本のことを、考えてしまって……」

「……大切なものだったんだね」

「あの本はね……わたしの大切な……」


 口に出そうとすると、また涙が、ぽたり、ぽたりと頬から零れ落ちた。涙さえわたしを置いて、闇に溶けていく。


「……ねぇ、ローザ」

「なんだい?」

「ローザはお話を作れるのよね?」

「そうだよ。どこかで聞いたような話ばかりかもしれないけどね」

「あの絵本では、女の子は王子様とお城で幸せに暮らすの。それでお話は終わり。けれどもしローザがお話を作るなら……あの後は、どうなると思う?」


 そうだね……と考えこみながら、ローザは布団の中で体勢を変えた。厚い雲の間から、欠けた月が顔を出した。その月明かりが部屋の中を照らす。さっきまで真っ黒な穴のようだった輪郭が、形を帯びた。ローザの端正な横顔がうっすらと見える。天井を見上げながら、一生懸命考えてくれているようだった。


 わたしは待った。どれだけでも待てた。だって、これから始まるお話は、きっと希望に満ち溢れているはずから。


 ローザはお話が思いついたのか、すうっと息を吸って、ゆっくりと話し始めた。



 ……女の子は王子さまとけっこんしたあと、しばらくはしあわせにくらしていました。

 けれど女の子は、イジワルなしゅうとめや、しつけがきびしいめし使いたちがイヤになりました。

 王子さまは、次の王さまになるのに、人々や王さまにわる口ばかり言われていたことに気がつきました。

 そうして二人とも、おしろでの生かつにつかれ果ててしまったのです。



「なんだか辛いお話ね。あの絵本は『ずっと幸せに暮らしましたとさ』で終わってたのに」

「『ずっと幸せに暮らしましたとさ』、なんていうのは物語を終わらせるための建前だよ」


 ローザの声が、いつもよりもっと低くなった。わたしの隣で話していた人が、知らない誰かに入れ替わってしまったのではないかと思ってしまう。でも確かに、その人はローザだ。僅かな月明かりが、辛うじてローザの姿を照らし出している。その瞳は、今にも闇に溶けだしそうなくらい真っ黒だった。憂いているような、諦めているような……そんな目をして、ここではないどこかを見ている。


「ずっとここにいてもいい、なんて場所はこの世界のどこにも無いよ。そもそも永遠なんて、この世界には無いんだ」


 わたしは脳裏に寄宿学校を思い浮かべた。変わることのない質素な校舎を、それを取り囲むように咲くバラたちを、中庭で遊ぶみんなを、にこやかに水やりをするアビー先生を。その風景の中で、ローザは続けて声を響かせる。


「幸せでいられる場所というのはあると思う。そんな場所があったらずっといたいって思ってしまうよ。けれどやっぱり、ずっとではない。ワタシたちの遠い先祖が楽園エデンから追い出された。きっとあの時にワタシたちは、永遠を奪われたんじゃないかな」


 さらにわたしは思い浮かべた。エミリアの嘲笑を、ルーシーの嘘吐きを、ジェシカの虚勢を、ハンナの臆病を。まだローザの声は響いている。


「だからワタシたちは、常に追い求めなくちゃいけなくなった。幸せという形は言葉でも例えられない。厄介なことにハッキリ見えたりもしないし、生き物みたいに姿だって変わるからね。今日の幸せが、明日の幸せだとは限らない」


 わたしは恐れた。音を立て続ける鞭を、アビー先生の歪な笑顔を、レイラに生み出される人形を、引きちぎられた残骸たちを。風景はぐるぐると回って、ローザの声はさらに大きくなる。


「けれどだからといって、追いかけるのを諦めてはいけないよ。新しい物語の続きは、誰にでも作れる」


 ローザの声が、強く、真っ直ぐ届いた。その声が回る風景を切り裂き、音を立てて崩れていった。


「だからね、リリー」


ローザは真っすぐワタシを見つめた。月明かりに照らされて、ヘーゼルの瞳が瞬いた。


「絵本のページは終わっても、本当に物語を止めることはできないんだよ。ワタシたちが作り続ける限り……ね?」


 さっきまでの声とは一転して、また普段の優しさをまとった響きに変わった。


「だからさっきのお話はね、こう続ければいいんだ」


ローザは息を吸い込むと、穏やかな音楽のように物語を紡いだ。



 女の子と王子さまは新しいしあわせをさがすため、こっそりおしろをぬけ出しました。

 そこから二人の長い、長い旅がはじまったのです。



「旅、ね……。なんだか大変そうだわ」

「そうだね……でも辛くなっても独りじゃないよ。お互い励まし合って、愛し合って。旅の途中でも、長く笑えるようにしていくんだ」

「そんな旅ならきっと楽しいわね……独りじゃなければ、友達だっていいのかしら?」

「いいかもしれないね。友達でも愛する人でも、時々喧嘩をしてしまうことは変わらない。でも二人が思い合えば、繋がりは途切れたりしないよ」

「友達と愛する人って、何が違うの?」

「何が、か……そうだね……」


 ローザはしばらく黙り込んでしまった。わたしも自分で考えてみたけれど、やっぱり分からない。これまであの絵本だけじゃなくて、他にも色んな絵本を読んだ。孤独だったり、兄弟がいたり、友達ができたり。どの話も面白かった。けれどどれも、あの絵本には敵わない。 

 あの絵本を読んだ時の胸の高鳴り。わたしの中であの絵本は、ずっと一番であり続けた。そうあり続けてきたのには、きっと訳がある。その答えがローザの口から出るのを待った。

 ローザの唇がかすかに震えている。その震えをなだめるように、ローザは舌を唇の上で小さく動かした。唇が濡れて、そこだけが突然形を帯びだした。


 月が雲に隠れた時、熱を帯びた息と共に、答えは吐き出された。


「愛する人にはね……キスを、したりするんだ」

「キス? キスなら昔小さい時にされたわ。よく覚えてはいないけど、お父さんとか、時々アビー先生にも」

「あれはおでことか頬だろう? そこじゃなくて――」


 闇の中から手が伸びてきて、わたしの左頬を包んだ。細い指先がゆっくりと顔をなぞって、そして触れた。わたしの唇に。


「ここだよ。絵本でも見ただろう?」


 その囁きと、唇から伝わる指先の感触で、わたしはピクリと肩を震わせた。全身の感覚が唇に集中している。

 ふわりと闇が近づいて、わたしの体に密着した。心臓の鼓動が早く、大きくなっていく。指先から伝わる熱と自分の熱。二つの熱が混ざり合って、体の中を駆け巡る。その熱は頭の奥まで届いて、じわりじわりと溶かしていく。

 暗闇の中で、わたしはローザを見つけ出そうとした。けれど目の前にあるのは、真っ黒な殻に包まれてるだった。


「怖い?」


 闇の吐息が、わたしの顔にかかる。


「……したことがないから、ちょっとだけ……」

「大丈夫。力を抜いて」


 その後はあまりにも一瞬だった。ふわりと頬に風を感じたかと思うと、わたしの唇に触れた。


 


 気付いた頃には王子様はわたしから離れて、闇の中へと消えていった。


「おやすみのキスだよ。本当のキスは、リリーの王子様を見つけてからしてもらうといい。その時までお楽しみに取っておくんだよ、いいね?」


 頭が熱い。ローザの声が、頭の奥で呪文のようにぐわんぐわんと響いている。その呪文でわたしは、何も言えなくなっていた。

 おやすみ、とローザは短く言って、何事もなかったかのように背中を向けてしまった。やがてピクリとも動かなくなり、黒い殻は閉じられた。


 寄せては返す波のように、感情たちが浮かんでは消えていく。とても嬉しくて、とても怖い。満ち足りていて、満たされない。興奮と混乱で、体に熱がこもっている。波が押し寄せるたびに、上手く息が出来なくなった。これが何なのか、ローザにききたい。けれど、どう説明していいのか分からない……。とにかく息を落ち着かせよう。


 しばらく呼吸を落ち着かせることに専念していると、ようやく波は収まった。そうして熱が引いた頭の中で、ローザの呪文はようやく言葉になった。


 本当のキス? わたしの王子様? そんな人が、寄宿学校の外にはいるのかしら?


 わたしももうすぐ、十七歳になる。どんな人とこれからの生涯を添い遂げていくのかを、そろそろ考えてもいい歳のはずだ。窓の外はいつの間にか霧が立ち込めていた。森の木々がうっそうと生い茂っているのが、霧の向こうにあっても分かる。

あの森の中を独りぼっちで歩いていくのはとても怖い。けれど二人ならどうだろう? 手を繋いで、お互いの熱を感じながら歩けば、きっと怖くない。


 確かな温かさに包まれながら、わたしは眠りの森へと入っていった。灰になってしまった絵本のことは、すっかり頭から離れていた。



 約十二年間の学校生活で辿り着けなかった答えに、ようやく辿り着いた。


 ――いいえ、逃げ続けてきた答えと、ようやく向き合う時が来た。


目が覚めてから、わたしはベッドの中で、ローザが目を覚ますのをじっと待った。


「おはよう、リリー」

「おはよう、ローザ」


 ローザの声は寝起きとは思えないくらいしっかりとしていた。ヘーゼルの瞳は朝日をたっぷりと取り込んで、わたしを真っすぐ見つめている。まるでわたしの決断を、ずっと前から待っていたかのように。


「ねぇ、ローザ」

「なんだい?」


 わたしは声を震わせないように、一度間をおいた。


「寄宿学校の外に行きたいの。あなたと一緒に」


 ようやく目を覚ましたお姫様を迎えるような笑顔で、ローザは大きく頷いた。




 Continue to Chapter.2...

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