Chapter.1 純白のユリは、茨の中で血を流す
episode.1 A vivid dream, then it comes
晴れ渡った空の下、庭中を女の子たちが走り回っており、アビー先生はその様子を、バラ園からにこやかに見守っている。先生の丁寧な水やりを受けて、燃えるように咲くたくさんの赤色のバラが、きらきらと輝く。その上を一匹の蝶がふらりと飛ぶ姿は、どこか気怠そうに見えた。
「赤一面の景色は、もう見飽きたわ」
そう言いたげに。
庭にそびえ立つ大きなヤナギの木の下でわたしは独りで座り、庭の様子でも眺めて暇を潰そうとしていたところだった。
――いいえ、そんなことをしたくてここにいるんじゃない。何かする気が起きないだけだ。
とりあえず開いたスケッチブックは、わたしのそばに置いてある。それが風にあおられて、パラパラとページがめくれた。どのページも真っ白で、その白さが腕についた青アザを引き立ててる気がして、余計憂うつになる。
自分の腕を眺めていたら、わたしの頭に何かぶつかった。周りを見てみると、わたしのそばで、ボールが弾んで転がっていた。
「あら、ごめんなさい、リリー。遠く投げ過ぎたわ」
いつもの三人組がわたしをジロジロと見てる。反省の色が少しも無いエミリアの声に、他の二人はクスクスと笑ってる。
「そのボール、こっちに投げてくれない?」
「ひょろひょろな貴女にできるなら、だけど」
偉そうに命令するエミリアに、ルーシーが嫌味を付け加えた。ジェシカはクスクスと笑い続けている。わたしは立ち上がってボールを拾うと、出来る限り力いっぱい投げてやった。ボールは三人組の頭上で、キレイな放物線を描いて飛んでいった。
「下手くそリリー」と、エミリアが毒づき、
「ひねくれリリー」と、ルーシーが嫌味を付け加え、
「うすのろリリー」と、ジェシカが関係ない悪口を吐いた。
口々に文句を吐きながら、三人はボールを追いかけていった。きっと後で何か仕返しされるだろう。でもそんなことはどうでもいい。このくらいはしてやらなきゃ気が済まない――わたしではこの程度のことしか出来ないけれど。
ボールが当たったところがじんわりと痛んで、少し熱くなってきた。こんな調子だから、最近は好きだった絵を描けていない。それよりも、描くのが少し億劫に思えるくらい、描きたいものがない。面倒に思ってしまう。
こんなにやる気がないのは、昨日の夕食前にちゃんとお祈りをしなかったせいかしら?
お祈りの時間は嫌いだ。誰のために何を言ってるのかが分からなくなる。だから途中から、言ってるフリをしてみたが、それがアビー先生にバレた。その場で鞭打ちされて、その日の夕食は抜きにされてしまった。
わたしを見てたみんなの顔が思い浮かぶ。表向きはみんな、先生に対して従順そうにしている。けれどわたしを見る目は侮蔑に満ちていて、笑いたそうにしていたのがバレバレだった。
いつか絶対仕返ししてやりたい。けれどエミリアがこの学校を牛耳っている限り、その望みは叶いそうにない。
波立った気持ちを落ち着かせるために、スケッチブックの下から絵本を取り出した。この表紙を見るだけでも、顔がほころんでいくのが分かる。あの女どもに見つからないように気を付けながら、わたしは秘密の本を開いた。
赤一色の退屈なこの庭とは違う、色鮮やかな世界。
一人の女の子の元に王子様が訪れて、キスを交わす。このお話が、昔から大好きだった。不幸な女の子が苦難を耐え忍んだ先に待ってるハッピーエンド。それに憧れずにはいられない。
幼い頃からずっと寄宿学校にいるわたしには縁の無い話だって、みんなから笑われるかもしれない。だけどいつかは、ここを出る日がくる。その日には、この絵本みたいな王子様が迎え来てくれたら……そう願ってしまう。どれだけみんなから笑われたって、わたしも女の子なんだから。
ひっそり絵本を眺めているうちに、休み時間の終わりを告げるベルが鳴った。わたしは絵本をスケッチブックの下に隠して、校舎の方へと急いだ。
なんてことのない退屈な一日は、今日もこうして終わる。そう思っていた。
けれど今日だけは、違っていた。
絵本のおかげで何とか調子を保てたその日の夕食の時間。運命の時は、なんの前触れもなく訪れた。
食堂に集まったわたしたち五人の席と、滅多に埋まらない六人目の席、さらにもう一つ、席が用意されていることに気付いた。しかもその席はわたしのちょうど正面だったので、尚更気になった。みんなも気づいたのか、いつもよりざわついている。
アビー先生がわたしたちの前に立ち、手をぱん、と叩くと、すぐに静かになった。
「可愛い子供たち、今日もお疲れ様。お腹が空いているところ悪いけど、夕食の前に、新しく今日から家族になる子を紹介させてちょうだい」
いらっしゃい、と先生がドアに向かって優しく言うと、ゆっくりとドアを開けて、その人はやってきた。
まず目に入ったのは身なりだった。ここにいるみんなと違って、その人の服は所々ほつれていて、お世辞でもキレイとは言えない。
顔色は青白くて、目の下が黒ずんでいる。けれどそれに負けず、短く切られた黒髪の間から見える凛々しいヘーゼル色の瞳が、特に輝いている。
新入生を一目見て、一同が言葉も出せず、固唾を飲むのがわかった。そんな中で、わたしたちの中でも最年少のハンナが、おずおずと尋ねた。
「先生、うちの学校って女の子しかいないですけど、今日から男の子も入るんですか?」
わたしもそう思っていたし、恐らく生徒全員が思っただろう。その人が着ているロングコートと、膝下丈のズボンという見慣れない服装だったからだ。外の男の子はみんなこういう服装なのだろうか?
ハンナの質問に対して、アビー先生はくすりと笑った。
「違うわ、この子は女の子よ。さ、自己紹介して」
そう言いながら先生は、その子の背中をぽんと優しく叩くと、彼女は少しだけ緊張したような調子で話し始めた。
「初めまして。ローザ……ローザ・モリスです。今日から、宜しくお願いします」
「ありがとう、ローザ。みんな、今日から仲良くしてね」
そうアビー先生が笑いかけている間、その新入生、ローザと目が合った。彼女はわたしを見ると、瞳を細めて微笑みかけてきた。第一印象で抱いた陰気なイメージと大きく違った優しい笑みに、わたしは思わず目を逸らしてしまった。
「ローザ。そこの席についてちょうだい」
アビー先生がわたしの目の前の席を指し、新入生はその席に座った。清潔な制服を身につけているみんなの中で、新入生は特に浮いて見えた。煙突の中にでも入ってきた後なのかと思うくらい、服は黒ずんでる。他のみんなも興味津々に、新入生をジロジロ見ていた。
「さあ、みんな。夕食にしましょう」
アビー先生がそう言うと、お祈りが始まった。今日は昨日みたいなことが起こらないように、素直にお祈りに従わないと。お仕置きされてるところを初日から新入生に見られるのは、さすがのわたしでも恥ずかしい。
夕食が終わって、わたしは早速、新たなルームメイトとなった新入生を自分の部屋まで案内した。アビー先生から、わたしは一人で部屋を使っていたので、今日から新入生と相部屋になるように言われたのだ。
これまでルームメイトはいなかったわけではない。元ルームメイトの名はレイラ。彼女こそが教室や食堂の、埋まることのない席の主だ。レイラは少し――いや、かなり接し方が難しい。
見かけはただおしゃべりが大好きな女の子だ。けれど彼女は、人形作りに異様なこだわりがある。わたしが縫い物中のレイラに話しかけてしまった時のあの変わりようは……思い出しただけでもゾッとする。
そんなレイラは、寄宿学校の中で上位に食い込むくらい問題児扱いを受けているわたしよりも、さらに長く地下室にいる(と言うよりも、地下室が彼女の部屋となっていると言うべきか)。なので、部屋で共に過ごしたことがほとんどなく、ルームメイトはいないも同然だった。
そして、この新入生が入ってきたことで、レイラは遂に元ルームメイトになった。久しぶりのルームメイト……今すぐにでもスキップしたい気分になる。だけど、特にキョロキョロしたりすることなく、真っすぐ前を向いて静かに後ろをついて来る彼女の前でそんなことをするわけにはいかない。だから今はグッとこらえることにした。
みんなの部屋の前を通ると、中から楽しそうにお喋りをする声がきこえてくる。いつも独りぼっちだったわたしにとって、これは心を搔き乱す騒音でしかなかったけれど、今は楽しげな音楽のようにすらきこえる。わたしたちの間の沈黙を埋めてくれるにはちょうど良い。
ようやく最奥の自室に着くと、わたしはドアを開けて新入生を中へ招き入れた。
「ここがわたしたちの部屋よ」
「落ち着けそうな良い部屋だね」
「そう?二人で使うにはちょっと狭いかもしれないわ」
ここは本当に狭い。部屋には使い古された自習用机と椅子が二つずつとベッドが一つだけしかない。それでももっとスペースがほしいと、これまで何回思ったことか。自分がこの部屋を用意したわけではないけれど、何となく申し訳ない気がしてきた。
わたしが俯いていると、新入生が顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 緊張させちゃったかな?」
「ああ、ごめんなさい! あなたみたいなルームメイトって初めてで、それに……なんだか、男の子といるみたいな気分になっちゃって……」
男の子に会ったことはないけれど、と付け足すと、彼女は少し照れたように笑った。
「やっぱりそう見えるよね。髪の短い女の子なんて他にいないから、驚かせちゃったかな? 他の子たちもみんな、ワタシのことジッと見てたから」
ローザは気にするように、短い黒髪の毛先をつまんでいじりながら言った。彼女にとっては繊細な問題だったのかもしれない。
「ああ、ごめんなさい! 初めて見たからちょっと慣れなかっただけ。その髪、素敵だと思うわ」
「本当? どうもありがとう」
慌てて言葉を付け足したので少し上ずった声が出てしまったが、彼女はそれを気にすることなく、華やいだように笑った。その顔を見ていると、やっぱり女の子なのだとホッとする。けれど反面、心のどこかで絵本の王子様のようにはいかないかと、がっかりしている自分もいる。
……わたしったら、新入生に何を期待してるのかしら。
「君は、……ええと」
「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。わたしはリリー、リリー・ベネットよ」
「リリー……リリーか。見た目の愛らしさに相応しい良い名前だね」
リリー、リリー、とわたしの名前の発音を一音一音味わうように言うので、わたしの顔が熱くなってくるのが自分でも分かった。
「そ、そうかしら? そんなこと、言われたこと無いわ」
「もっと自信を持って良いと思うけどな」
彼女は流れるような仕草で、わたしの長い金髪をひと房手に取った。
「こんなに綺麗な髪を持ってるのに……みんな見る目が無いんだよ」
その時初めて、彼女とまともに目が合った。明るいヘーゼルの瞳が明かりに照らされて、きらりと輝いている。その目を見た瞬間、わたしは何かの魔法にかけられたように、彼女から目を離すことが出来なくなった。
「改めて自己紹介するね。ワタシはローザ・モリス。リリーがルームメイトで嬉しいよ。ここに慣れるまでは勝手が分からないから、これから色々教えてほしいな」
「えぇ、もちろん。……あ、そうそう。これ、ここで使う服よ」
ローザの自己紹介でようやく魔法が解けたわたしは、アビー先生から受け取っていた服をローザに渡した。
ありがとう、と言って受け取ると、何のためらいもなく着替え始めた。ローザの邪魔にならないようにわたしは椅子に座って、その様子を眺めた。
寝間着のワンピースに体を通すローザの身体は、他の子たちよりもたくましくて、どこか現実離れしている。絵本の王子様のような格好の方が、きっと似合う。想像するだけでも顔が熱くなってきそう……。
そんな空想をはかどらせようとして、我に返った。わたしも寝間着に着替えなくちゃ。わたしはローザから背を向けて、なるべく彼女が視界に入らないように急いで着替えた。その間、わたしはちらりとローザを見た。ワンピースに少し戸惑っているのか、時々ボタンをとめる手が止まっていたり、ワンピースの裾を触っていたりしてした。そうしてわたしが着替え終わるのと同時に、ローザの着替えが終わった。
「変じゃない、かな?」
「いいえ、ちっとも」
「良かった。こういう女の子の服、ずっと着てなかったからね」
「そうなの? わたしはこういう服しか着たことないから……」
身なりを気にするようにくるりと回ったり、服のシワを整えている。
やっぱりローザも女の子ね。
「さ、もう寝ましょう。ここまでの長旅で疲れたんじゃない?」
「そうだね……そうしようかな」
いつも通りベッドに入ろうとしたところで、ようやく思い出した――ローザと同じベッドで寝なければならないことを。
「あ、ローザ。ここのベッドはね、部屋に一つしかないの。前のクラスメイトが部屋を移した時に持って行っちゃって……。アビー先生、忘れてたのかしら。……わたし、ベッドがないかアビー先生に聞いてくるわ」
「待って!」
部屋から出ようとドアノブに手をかけたところで、ローザが声を上げた。
「行かなくて良いよ。このベッドは充分な大きさだし」
ローザはベッドにするりと入って、近くをポンポンと叩いた。
「だから一緒に寝ればいい。ほら、おいでよ。いつもより狭くなっちゃうけど」
そう言ってローザは、いたずらっ子のように笑った。顔が火照るのを感じながら、わたしはおずおずとローザの隣にすべり込んだ。それからロウソクの火を消すと辺りは暗くなり、窓からほのかに射し込む月あかりだけになった。
お互い、何もしゃべらなかった。色々と聞いてみたいことはある。けれど長旅で疲れているであろう新入生を、さらに疲れさせてしまうかもしれないので、今は我慢することにしよう。
何もしゃべらない代わりに、わたしは突然やってきた新しいルームメイトの背中をしばらく眺めた。隣で横になっているローザは、暗闇の中で黒い輪郭になっている。
ベッドの中に二人で入るだけで、こんなにも温かくなるなんて知らなかった。何だかいつもより心臓の音がうるさい気がする。思っていたよりわたし、緊張していたのかも。男の子みたいだからかしら? でもとても優しそうで、笑うと花がパッと咲いたようにかわいい。
……女の子、なのよね。
そんなことを考えながらローザの熱にふんわりと抱かれるうちに、だんだん緊張がほぐれてきた。そうしてベッドが暖かくなった頃、わたしは眠りについていた。
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