episode.2 Sparkling eyes, staring eyes

 次の日は、昨日までの生活が嘘みたいに思えた。

 朝、目を開けてすぐに誰かの存在を感じることができる。おはよう、という言葉さえもこんなに心に染み渡るなんて。


 朝食に向かうのも、教室に向かうのも一緒。慣れないローザのために寄宿学校について教えている時間も、まるで別世界に来たみたいだった。もう十年くらいここにいるわたしがそう思うのはなんだか可笑しいけれど、長らくルームメイトがいなかったわたしは、より浮足立っていたのかもしれない。


 わたしたちは予鈴と共に教室に入った。広い教室に見合わないたった七人の席が、バラバラの間隔で点在している。そこではエミリアを囲むようにジェシカ、ルーシーが座って談笑しており、ちょっと距離を置いたところでハンナが黙ったまま話をきいていた。レイラの席は相変わらず空席だ。


「ここが教室よ。授業が始まるまでに席についてないと、先生の〈救済〉を受けちゃうわ」

「〈救済〉って?」

「要はお仕置きよ。先生の言うことは絶対なの。でもね、先生は日によって機嫌も言うことも変わるから、そこも見極めなきゃいけなくて――」

「貴女はいつもトロいのがいけないんでしょ」


 わたしたちの会話にエミリアが割り込んできた。彼女の近くに座っているジェシカとルーシーもこちらを見てクスクス笑っている。


「新入生……ロー、だっけ?」

「ローザだよ」

「ああ、ローザね」


 ルーシーはローザに名前を訂正されて、ごめんごめん、と手をひらひらさせている。


 どうせわざと間違えたんだわ。新入生を見極めるために……。


「貴女、あまりこのうすのろと関わらない方が良いわよ。ねぇ、ハンナ?」


 急に話を振られたハンナは少しビクッと肩を震わせると、彼女の細い首がもげてしまいそうなくらい激しくうなずいた。色素の薄い茶色の瞳には、有無を言わせない黒色が大きく侵食している。


「ええ、子供っぽさが移ってしまうわ」


 ルーシーの言葉とハンナの同意の後に、すかさずジェシカがすぐさまそう付け足した。


「いつまで経ってもヒョロヒョロで小さいし」と、エミリアが鼻で笑い、

「鈍くさくて気品が無いし」と、ルーシーが口を大きく歪めてニヤリと笑い、

「子供っぽいことしか話せないし」と、ジェシカがブタのような声を上げて笑った。


 三人組の連撃はいつものことだけど、新入生まで手下に付けようとしている高慢な態度には、心底腹が立つ。


「わたしだってこれから成長して、ちゃんとした大人の女性になるわよ!」

「ほら、すぐ怒る。そういうところが子供っぽいのよ」


 ルーシーが嫌味たらしく勝ち誇ったような笑みを浮かべている。


「おチビちゃんリリーは、大人になった女性が、将来永遠に添い遂げることにした殿方と何をするか、知っているのかしら?」


 エミリアが当たり前な質問で、なぜあんなに嫌らしい笑みを浮かべているのだろう?


「決まってるでしょ? 結婚するの」

「それから?」

「お城で式を挙げる……」


 それをきいて、なぜかルーシーが吹き出した。


「その夜は?」

「え……夜? それはもう大人だから……」


 大人の女性の、恐らく人生で一番幸せな日の夜。その光景を思い浮かべながら、一呼吸おいて答えた。


「もちろん、幸せだった時間を振り返りながら寝るわ。大人だから、もちろん一人で寝るのよね」


 三人組はもう耐えきれないというように、ゲラゲラと笑い出した。その姿の方が上品とは言えない。


「そういうところが子供なのよ。……それにしても、一人で寝るって……あはははは」


 よく分からないけれど、どうやらわたしへのからかいネタを増やしてしまったらしい。わたしの顔が熱くなってくるのが分かる。


「こういう子なのよ、おチビちゃんリリーは。新入生も気を付けなさい」

「あはは、ここは色んな子がいて楽しいね」


 エミリアの湿っぽい皮肉を、ローザは爽やかな初夏の風を吹かせるようにして受け流した。自分たちのペースに上手く巻き込めなくて、三人は少し言葉に迷っている。 

その様子は見ていて愉快だったので、さっきまでの腹立たしさは消えていった。


 ちょうどそのタイミングでベルが鳴った。それに合わせて、コツコツという規則正しい靴音と共に、アビー先生が教室に入ってくる。この靴音をきく限り、今日の機嫌は悪くなさそうだ。


「さあ、授業を始めるわよ。ローザ、分からないことはその都度他の子や私にきいてちょうだい。他のみんなはそれ以外の私語は厳禁よ。従順でいられない子は神様のご加護を頂けないんですから。いいわね?」


 はい先生、と返事をする時だけは生徒全員の息がぴったりと合う。誰も積極的に〈救済〉を受けに行くような真似はしないからだ。


 それから裁縫、地理……と順調に授業が終わっていく中で、わたしはローザの凄さに目を見張った。裁縫の時間では針を波のように滑らかに動かし、地理では知識量の多さにみんなを驚かせた。こんな調子で授業をこなしていったので、わたしから教えることはあまりなかった。

 アビー先生は自分が連れてきた新しい〈家族〉の優秀さに、かなり満足気だった。三人組も、使えそうな手玉だと思っているのか、群れの獣たちみたいに目を輝かせていた。



 午後の授業が一通り終わって自由時間になると、いつも通りわたしは大きなヤナギの木の下に座って、中庭を眺めた。新入生がみんなと中庭で話し込んでいる。

 世界の軸になっているかのように仁王立ちしているエミリア。エミリアを刺激しないようにそっとかたわらに立つルーシーとジェシカ。その三人からほんの少し離れて愛想笑いを浮かべるハンナ。その四人が新入生を取り囲んでいる。

 ここからでは会話の内容は聞こえないけれど、恐らく遠回しに寄宿学校カーストを新入生に教えているのだと思う。ちょっと前に来た新入生にも、同じような集会を開いていた。だけどその新入生は病弱だったらしく、入学して間もなく亡くなってしまった。名前も思い出すことが出来ないくらい短い間だった。


 それはさておき、あの集会はエミリアの中では必須行事で、基本全員参加らしい。けれどわたしは仲間外れ扱いなので、あのメンバーで全員出席になる。実際の生徒数は、わたしと、今ここにいないレイラ、そしてあの新入生を含めて生徒は七人になった。

 ちょっと前はもう少し多かったし、あの強制集会はもっと騒がしかった。けれど徐々に人数も減って、今では大分静かになった。少し距離があっても、エミリアのやけに甲高いキーキーとした声がここまできこえてくる。


 先生も例外ではない。前は校長でもあるアビー先生の他に先生が数名いて、今よりもっと色んな授業を受けられた。けれど、その先生もコロコロと変わった。長くて一年、短い時は二週間で出ていった。ここの生徒たちが気に食わなかったのかもしれない。あんなにひねくれた三人組がいたら、大人だって相手をするのは嫌に決まっている。

 エミリア中心社会は大人たちでも手を煩わせていたのだから、あんなものに参加する必要なんて無い。あのような恒例行事は、他にもいくつかある。どれもがくだらないごっこ遊びのようなものだ。わたしは絶対に参加しない。

 最初のうちは参加しないと、取り巻き二人に打たれたりしていたけれど、一貫して行かないようにしているうちに、向こうが諦めてくれたようだ。そして今は、あんなちっぽけな社会勉強よりも大事な用事が、わたしにはあるのだから。


 真っ白なスケッチブックを膝に乗せて、鉛筆を手に取った。それから少し離れたところにいる、あの人の横顔を観察する。

 特徴的なあの短い黒髪は、今はボンネットの下にしまわれて、額や首筋から少し見えているだけだった。耳元に見える後れ毛や、瞳にかかる前髪が時々そよ風で揺れる。

 その度に思い出してしまう。授業を受けていたローザの姿。真剣に問題を解きながら、時々細い指で髪をいていた。窓から射し込んだ日の光を受けて際立つ白い肌と、つややかに輝く黒髪。前髪の間から見える切れ長の瞳。しゅっと通った鼻筋に、薄くても形の良い唇。


 それを紙の上で再現しようとすると、鉛筆が震えた。久しぶりに描きたいと思える被写体が現れた嬉しさもあった。けれどそれ以上に、不安になる。実際の人を描く初めてだったせいもあったが、その中でも彼女は、どれもが奇跡のような曲線で構成されているみたいに思えるのだ。だからものすごく難しい。

 これまで見慣れた絵本の王子様のことを思い浮かべて描いてみるけれど、ここのパーツがおかしいと思える。そこを直すと、別のパーツもおかしいと思える。次々とおかしな場所が出てきて、全てがおかしく見えてくるのだ。


「何書いてるの?」


 一人でうんうんと唸っていると、突然上から声を掛けられた。驚いて見上げると、ローザがいつの間にかわたしの近くにやってきていて、柔らかな笑みをたたえいた。


「た、大したものじゃないわ。久しぶりに描いてたから……」

「絵を描いてたの? そんな素敵な特技があったんだね。リリーが嫌じゃなかったらだけど、見せてほしいな」


 目をきらきらと輝かせるローザに負けてわたしは黙って頷くと、スケッチブックを手渡した。


「これ、ワタシかい?」


 ここには黒髪で、しかも髪が短い女の子はローザしかいない。わたしの顔が熱くなってきた。


「ワタシはこんなに綺麗じゃないよ」


 赤面するわたしに構わず、ローザはまじまじと絵を見ている。そんなに見つめられたら、描ききれなかった線の一本一本がバレてしまう。わたしのつたない絵を見られている時間が、とても長く感じられた。それからローザは、スケッチブックをぱらり、ぱらりとめくり始めた。


「あれ、こんなに上手なのに、他は何も描いてないの? リリーの絵、もっと見たいのに」

「描いてたんだけどね……。他のスケッチブックに描いてたの」

「今は無いの?」

「うん……失くしちゃって」


 そっか、と少し残念そうな顔をしたローザを見て、少し罪悪感が湧いた。とっさに嘘をついてしまった。前のスケッチブックは失くしたのではなく、盗られてしまったのだ。

 ちょっと前に、あの三人組が魔女狩りごっこ(これも強制集会と並ぶ恒例行事らしい)という名目で、わたしのスケッチブックをぶん捕って、中庭でぐちゃぐちゃにされてしまった。このことを言えば、ここに来たばかりのローザには重荷になってしまうだろうから言いたくない。


「これまでどんなものを描いてたの?」

「そうね……。最初はバラとか木とか、蝶や鳥なんかを描いてたけど、最近は描きたいって思うものが無かったの。だから久々に描きたいものが描けて楽しいわ」

「そんな時にワタシがモデルだなんて、嬉しいな。良ければ描きやすいように何かポーズをとろうか? リリーが描く絵をもっと見たいからね」

「いいの? 嬉しいわ! じゃあお願い」


 ローザの言葉に甘えて、彼女にはわたしから横顔が見えるように目の前に座ってもらった。本当は正面からの顔を描いてみたいけれど、向き合うと気恥ずかしいので、そんなことは言えない。


「エミリアたちと話してたんじゃなかったの?」

「ああ、彼女たちの自己紹介が終わったから、この辺りを探検してくるって言って抜けてきたんだよ」


ちらりと中庭の方を見てみると、あの三人組はきゃっきゃと耳に障りな声を発しながら、またボール遊びをしていた。


「加わらないの?」

「うん、あの三人よりも――」


 ローザは姿勢を崩し、わたしの目を真っ直ぐ見つめた。


「君に、興味があるからね」


 透き通ったヘーゼルの瞳が、きらりと瞬く。その光に反応するみたいに、自分の鼓動がドクリと波打った。

 何か言わなきゃ。けれど、何も思いつかない。わたしがそうしてどぎまぎしているうちに、ローザは横顔がよく見える姿勢に戻っていた。


「リリーこそ、あの遊びに加わらないのかい?」

「……ボール遊びは、苦手だから」

「そっか。まぁ、無理に加わる必要は無いよ。好きなことをしてる方が良いからね」

「ローザは、何が好きなの?」


「そうだね……」と少し考えこんだ。


「リリーみたいに絵は描けないし、ちょっと違うかもしれないけど、雨が好きかな」

「わたしもよ!」

「本当?」

「えぇ、その日はとても静かに過ごせるもの。雨音がよくきこえて。それに、外遊びに無理して行かなくていいから……」


 あとは嫌がらせも減るから、と付け足したかったがグッとこらえた。自由時間という名義だけど、部屋に籠っていてはいけないという暗黙のルールがある。晴れた日は、よく三人組に良いおもちゃにされることが多い。それが好きではない。


「雨の日は特別静かな気がするよね。ワタシも部屋で過ごして、お話を考えたりするんだ」

「お話ですって?」


 わたしは驚いて、スケッチブックから顔を上げた。勢いのあまり鉛筆が手からぽろりとこぼれ落ちた。


「わたしね、絵本が好きなの! 昔から大事にしてる絵本があってね……」


 わたしは立ち上がって、他の子に見つからないようにそばの茂みに隠していた宝物を取り出した。


「この絵本なの。他のみんなにはないしょね」


 分かった、と言ってローザは頷いてわたしから絵本を受け取り、パラパラとページをめくりながら絵本を眺め始めた。


「素敵な絵本だね」


 絵本の表紙は鮮やかに色付けされていて、表紙の中心には窓からぼんやりと外を眺める女の子が描かれている。その表情は夢を見ているような、自分の身に降りかかる不運を憂うつに思っているような、複雑な雰囲気が入り混じっている。


「お話、何か考えてるの?」

「そうだね、この絵本のように素敵なお話じゃないと思うけど……」


 ローザは絵本を閉じて少しためらってから、決意したようにこほん、と咳ばらいをした。


「よし、ちょっとだけお話しようか。そんなに見つめられちゃうと恥ずかしいから、リリーは描きながらきいてて」

「分かったわ」


 いつもより自分の頬が緩んでいるのを感じながら、わたしは落ちた鉛筆を拾い、またローザを描き始めた。



 とある大きな町で、一人の小さな男の子がいました。

 その男の子はひとりぼっちのさびしんぼ。くらす家もないし、友だちもいません。



「家も無いの? 雨が降ったらどうするの? 寒さで死んじゃうわ!」

「意外とやっていけるものだよ。町には貧民街っていうところがあって、家が無い人も沢山いるんだ。雑用の仕事とかを適当に見つけてやりくりしてね」


 大きな町を実際に見たことがないわたしは、言葉を失った。町にいけば、皆どこかしらに家があると思い込んでいた。唖然あぜんとしているわたしに、ローザは優しく語り掛けるように話を続けた。



 そんなつらい生かつの中で、男の子にようやく小さな友だちができました。

 それはどこからかやってきた、くろいネコです。

 ふしぎな色のひとみをキラキラとかがやかせた、くろネコ。

 きんじょの子どもたちにいじめられていたところを、男の子がたすけたことがキッカケでした。

 それ以来、ふたりは大のなかよし。

 まいにちいっしょにあそんだり、ごはんを食べたり、さむい雨の日は、身をよせあってねむったりしました。



「ネコ! 私、本物のネコを見たことないの。いつか触ってみたいな……」

「触れるよ、いつか」


 ローザは切れ長の目を一層細めて微笑んだ。


 そんなに魅力的な生き物なのかしら?


 空いている左手を茂みに這わせて想像してみる。


 ネコってどんな手触りなのだろう。このごわごわした制服よりも気持ちいいのだろうか。ウサギは時々見るけれど、警戒心が強くて触らせてくれない。わたしが嫌われているというよりも、ここのバラ園に近づきたくないという風だけど。


 そうして少ない想像力を振り絞っていたら、途中から黒ネコの毛は、ローザの髪に変わっていた。


 慌てて茂みから手を引っ込め、スケッチブックに手を戻した。話し続けるローザの横顔を眺める。ボンネットの間から見えるローザの髪は、光を全て吸い込んでしまったかのように黒く、はみ出た髪が、自由を求めて風になびいていた。


 それから先は、友達の黒ネコに導かれて男の子が不思議な世界を冒険する話だった。これまで読んでいた絵本の話とは違って、とてもワクワクするものだった。あまりに夢中になりすぎて、途中で描くのを忘れかけたこともあったけれど、何とか集中して絵を描き進めた。ローザが話し終わる頃に、わたしもなんとか描き終わることができた。


「出来たわ」

「本当? 見せて」


 ローザにスケッチブックを渡すと、宝物を目にしているみたいにじっくりと眺めていた。


「凄いな……ワタシがこの絵の中に入っちゃったみたいだ」

「そこまで褒めてくれるなんて嬉しい。ローザのお話、とても面白かったわ。本当にその世界に行ってきたみたいだったもの」


 ふと絵本に目がいって、唐突に一つのアイデアが思い浮かんだ。


「そうよ、いつかローザがお話を書いてよ! わたしがそこに絵を加えて、一緒に絵本を作りたいわ!」

「素敵なアイデアだね! 寄宿学校を出て、そうしていくのもいいかもね」

「寄宿学校を出て……ね」


 確かにここを出たい。それはずっと思っている。けれどここを出たらどうなるのだろう。ロンドンという大きな街があるらしい、という知識くらいで、ここ以外の場所のことをほとんど知らない。わたしがここに来たのは確か、五歳か六歳くらいだっただろうか。ここでかなり長く過ごしていると、そんな正確な数字はどうでもよくなってくる。だから寄宿学校を出てから何をするかなんて、想像もできない。けれどもいつかはやってくる。


「その時は自由なのね。ロンドンという街にも行けて――」


 それこそ絵本みたいね、と呟きをかき消すように、自由時間の終わりを告げるベルが鳴った。その音に体が自然に反応して、校舎へ戻ろうとする。毎日同じ時間に規則正しく鳴るベルに従う、奴隷みたいに。


 あの音から開放される日が来たら、わたしは一体何をするだろう。好きな時間に起きて、好きなだけ絵を描いて、好きな本を読んで――


いずれは愛する人と……。


頭の中でそんな自分を思い描くことは出来なかった。眠っている間に見た夢のように、その考えが泡のように消えていく。わたしは急いでスケッチブックと絵本を抱えて、ローザと一緒に校舎へ戻った。




 ローザは物覚えが早い。寄宿学校の生活リズムや力関係を早々につかんだみたいで、勉学や実技のテストの成績は、エミリアの次くらいの位置を保っていた。おかげでローザはハンナや、時々こっそり来るルーシー(もちろんわたしも)の課題を手伝っている。そのせいもあって、ローザは絵に描いたような優等生ぶりを発揮している。


 そんな順調な日々が続き、ローザが入学して一週間程経ったある日のことだ。

 空は鉛が流し込まれたように暗い雲が立ち込めていて、朝からどんよりとしていた。そんな空模様を見ていると、余計ベッドから出たくないと思ってしまう。


「どうしたの、リリー?」


 ベッドから起き上がれないでいるわたしに、ローザが声を掛けてきた。ローザはとっくに着替え終わっている。


「昨日……鉛筆、失くしちゃったの」

「絵描きに使っているものかい? ワタシのを貸そうか?」

「ううん、そうじゃなくて……あれはお父様からの最後のプレゼントなの。スケッチブックと鉛筆、それと絵本。あれが最後の一本だったの」

「そっか……探すの手伝うよ。何か特徴とかはある?」

「わたしの名前が彫られているの。それですぐに分かるわ」

「分かった。けれど今からは無理だね。もうすぐ予鈴が鳴る。リリーも早く授業の用意をした方が良い。アビー先生に怒られちゃうからね」


 その言葉でようやくわたしは起き上がった。でもまだ、体が重い気がする。こんな日でも、ルームメイトはパチリと目を覚まして、テキパキと支度している。それを見てつい、優等生ローザ問題児わたしの差を感じてしまう。


 鉛筆は自由時間になったら探すことになった。その時間まで雨が降らないように祈りながら、ノロノロと教室に行くと、みんなは既に席についてお喋りをしていた。わたしたちが最後だったが、授業にはなんとか間に合ったようだ。


 それからすぐ本鈴が鳴ると、先生が床に穴でも開けそうな勢いの靴音と共に教室に入ってきた。それをきいたわたしたちは、一斉に静かになる。


 先生は、分厚い雲も怯えて逃げていきそうな顔をして、教卓の前に立った。それから無言でわたしたちの顔を、一人一人じっくりと見回した。こういう時は絶対に、目を逸らしてはいけない。


 静かな教室の中で、しばらく先生とわたしたちのにらめっこが続いた。それから先生は、水がこぼれそうなコップでも抱えているのではないかと思えるくらい、静かに話し始めた。


「授業を始める前ですが、今日は皆さんに、残念なお知らせをしなければなりません」


 そう言ってから重くついた一息は、教室の中の緊張をより高めた。


「今朝、バラ園の大切なバラが数本、折れかかっているのを見つけました」


 たかが数本、と思うかもしれないけれど、これはかなりの大問題だ。

 先生が丹精込めて育てるバラは、寄宿学校の資金にもなる。それ以上に先生は、バラへの愛情がものすごく強い。バラ園にいる先生を見かけたなら、まるで自分の子供みたいにうっとりとした眼差しで、一輪一輪に何かを語り掛けているような様子を見ることが出来る。つまり先生にとってバラが折られるということは、自分の子供の首が折られたのと一緒だ。犯人はただじゃ済まない。


「明らかに誰かが折ったような跡が残っていました。やった人は正直にここで、罪の告白をしなさい」


 教室に重い沈黙が訪れた。神の無慈悲な審判を前にしているという風だった。こんなところで正直に白状する子なんているわけない。この沈黙は永遠に続くだろう。


 そう思っていたけれど、それはあっさり破られた。


「先生」


 立ち上がったのはルーシーだった。


「もっと早く言うべきでした、申し訳ありません。あたし、知ってます。この子がやりました」


 そう言い放って、指を指した――


わたしを。


「昨日見たんです。自由時間終わりにバラ園に引き返そうとしているリリーを。様子がおかしいと思って見に行ったんです。そうしたら、バラが折れていて……」


 次々と吐き出される身に覚えの無い証言に、最初は今起きている出来事の処理が頭の中で追いつかない。けれど、他の生徒から注がれる視線で我に返って、急いで席を立ちあがった。


「わたし、そんなことしてない!」

「先生、リリーは昨日、真っすぐ部屋に戻っている筈です」


 ローザがわたしの後に、すかさず冷静なフォローを入れてくれた。


「本当なの? ルーシー?」


 だんだん険しくなっていくアビー先生の表情とは裏腹に、ルーシーは淡々と答えた。


「ローザは昨日、エミリアと一緒に勉強会をしていました。なので、リリーの行動は最後まで見ることが出来なかった筈です。それに、バラの近くでこれを見つけました」


 自分の獲物を高々と掲げるようにして、ルーシーは右手に握ったものを見せた。名前が掘られてる。間違いない。


「わたしの鉛筆!」


 思わず声を上げてしまった。その瞬間、アビー先生はぎろりとこちらを見た。


「リリー、やはり貴女なのね! そんなにも私のことが嫌いなのかしら? こんな事をして神様がお許し下さると思ってるの? 今日も〈救済〉が必要ね」


 理性を持って話しているのか、ヒステリックになっているのか、ごちゃごちゃになったように先生はまくし立ててきた。この状態になってしまえば、ここから何を言っても、もう何もきいてもらえない。


「来なさい、リリー! 他のみんなは私が戻るまで自習しててちょうだい」


 先生はもの凄い力でわたしの腕をつかんで、引っ張った。必死になって叫んでも、先生はきこえないというような顔をしている。どれだけ足がいてもビクともしない。この細い枝のような腕のどこから、そんな力が出ているのだろう。


 抵抗の甲斐なく、あっさりと教室の外に連れ出されてしまった。その間に見えたのは、戸惑うローザの表情と、勝ち誇ったようにほくそ笑んでいる、ルーシーの憎たらしい表情だった。

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