episode.8 In the depth of hell

 ◆



 ロンドンに着く頃には、もうすぐ日が沈みきってしまいそうになっていた。


 この街はいつも、煙突から噴き出ている黒煙で空気が淀んでいる。ガス灯が煌々こうこうと輝いているが、それは表通りだけで、少し道を外れれば、私たちは闇に取り込まれてしまう。この街はそうして住む世界を二つに分けている。雨でも流しきることが出来ないそうした文明の穢れが、この街の影を一層暗くしているのだ。


 ロンドンはとても広い街であり、ここからあの小さな二人を探し出すことは容易なことではないだろう。けれど私は迷うことなく歩き、着実に目的地へと進んだ。

 表通りは多くの馬車が行き交い、泥があちこちに飛び跳ねている。泥が服にかかったと、ステッキを振り上げて怒る人々の罵詈雑言が飛び交っている。花売りの女の子がカゴを落として、色とりどりの花が道路に散らばった。花は誰にも拾われることなく泥だらけの足たちに踏まれ、みるみる色を失っていく。そうした光景を横目に、私は裏道に入った。


 裏道は表通りよりも暗く、静かだ。少しでも雨を凌ごうと、身を小さくしてうずくまる人々。歩く私を値踏みするように見つめる少年たち。半ズボンから出ている彼らの足は、肉の薄さを物語っている。項垂れて動かない女。その腕に抱かれている赤ん坊は乳房を探して、小さな手を彷徨わせている。表通りの光を避けるような場所では、男女が抱き合っている。むさぼる様にキスをし、男は引きちぎれそうなくらい強く、女の胸やお尻を掴んでいる。

 昔から何も変わらない光景だ。路上で弱っていく子供たちに、私はただ何もせず通り過ぎるしかない。もし手を差し伸べようものなら、腕を、最悪この身の全てを持っていかれることになる。これが私たちの生きる世界であり、地獄の底だ。


 そうして馴染みの道を歩いていた時、それはきこえてきた。


「いやああああ!」


 聞き覚えのある甲高い悲鳴だった。私は急いで悲鳴があがった場所へ駆けつけた。そこにはリリーとローザ、そして、血だまりの中で倒れている一人の汚らしい男がいた。

 リリーは地べたにぺたりと座り込んで、荒い息遣いで小刻みに震えている。リリーの服、正確には私の箪笥の中にあった服だが、ボタンは乱暴に引きちぎられ、胸元が大きくはだけている。

 ローザは息を切らしながら、倒れた男を見下ろしている。リリーと同じように服装が乱れ、顔や体は痣や血だらけだ。けれど苦悶の表情は一切見せていない。ただ男の胸に刺さったナイフをじっと見つめている。その目は、食料を食い荒らして丸々と太ったネズミを駆除した後のように、無機質な殺意と、小さな達成感があるように感じられた。


「リリー! ローザ!」


 そう呼ぶと、ローザはまるで私を待っていたかのように、顔を上げた。


「アビー先生……よくここが分かりましたね」

「……ローザ、貴女がやったの?」


 ローザは何も答えず、男の胸からナイフを引き抜いた。その穴から、ドクドクと血が零れ、また道を汚していく。ナイフから血を振り払って、ポケットから取り出したハンカチに包んでいる。その動作はとても手慣れていて機械的だ。リリーを見つめている瞳だけが、生き物としての定義を保っているかのように思える。そうしてナイフをしまい終わると、私の方に目配せをした。

 私はその目配せに応えるように、うずくまっているリリーの傍に近づいた。


「リリー、もう大丈夫よ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」


 震えた声でひたすら謝り続けるリリーの背中を、ゆっくりとさすった。こうしてリリーの背中をさするのはいつぶりだろうか? もしかしたら一度もしていなかったかもしれない。

 ここに来るまでに、彼女たちを見つけた後の処遇を考えていたが、この様子を見ていると、具体的な案は浮かんでこなくなった。


「さあ、帰りましょう。貴女たちの家は、ここには無いわ」

「……そうですね、先生」


 歩けそうかと聞くと、ローザはこくりと頷いた。彼女はリリーに手を差し出して立ち上がらせ、はだけた服を直していた。ローザの胸元に血がべったりと付いていたので、自分が身に着けていたケープを外して、ローザの肩にかけた。


「ローザ、そのまま表の通りに出たら目立つわ。これを付けなさい」

「ありがとうございます」

「面倒なことになる前に帰るわよ。ローザ、リリーが上手く歩けなさそうだったら支えてあげてちょうだい」

「分かりました」


 そうして私たちは小汚い男をそのままにして、その場から立ち去った。私は二人を引き連れながら、一度だけ後ろを振り返った。男が動き出す気配はない。さっきまでの血だまりは雨に流されて、道に薄く引き伸ばされていた。


 念のため、人に見つからないように遠回りして表通りに出ると、そこで辻馬車を捕まえて乗った。御者は私たちのボロボロになった身なりを見て、少し顔を引きらせた。

 できるだけ早く行ってもらえるように、三人分の乗車賃に加えて、さらに多めに払うと愛想良く微笑み、馬に勢いよく鞭を振るった。


 ロンドンの街が次第に遠ざかっていく。雨は相変わらず降り続いていて、馬車に強く叩きつけている。雨音と馬車の耳障りな音が、私たちの間の沈黙を埋めた。

 リリーは光を失った百合のように項垂れている。ローザは外の様子をぼんやりと見ていて、二人はお互いを見ようとしない。けれど、リリーの左手はしっかりとローザの手を握り、ローザもその手をしっかりと握り返している。まるで私にはきこえないやり取りが交わされているかのようだ。


 この脱走で、二人の間により大きな結束が出来たのだろう。けれどその結束は、同じ力で働いているもののように思えない。どちらかが茨のように片方に絡みついているかのような、そんな結束だった。

 そんな二人を見ていると、何だか頭が痛くなってきた。もしかしたら昨日の寝不足も祟っているのだろうか。


「――、アビー」


 私の名前を呼ぶ声がきこえる。そうして呼ばれるのは、数十年振りだった。


「アビー、信じる者は救われるのよ」


 頭の中で彼女の声が響いている。私を優しく包み込むような、とても心地良い声だ。その声をきいていると、体から自分が抜け出していくかのような感覚になる。


 寄宿学校まではまだかかる。少しの間だけ。少しの間だけでも、今はこの声に、体を委ねよう。


 憐れな二人をあの馬車の中に残して、私はあの頃へと旅立った。

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