誰の前にもある春という名の救い

純文学とエンタメの区分については、数多の書き手と読み手が一世紀にわたり議論を尽くしてきたところであるが、巷間言われる切り口の一つに、「全ての読者に一律の価値を提供するのがエンタメ文芸であり、一人一人の読者をして異なる価値を見出さしめるのが純文学である」というものがある。
この解釈の妥当性についてはここでは問題としないが、私が本作『うすらひの鏡に映す』を拝読して抱いたのは、件の区分に照らせばこれは紛いもなく純文学である、という印象であった。即ち、本作には、主人公・雪緒の語りを通じて、読み手の内心に偏在する思春期の記憶を揺さぶり、各々の体験と紐付いた感懐を立ちのぼらせる力がある。
十七歳の雪緒は、己の外見に、ひいては己という存在そのものに、徹底して自信を持つことのできない少女として描かれる。その人格形成の根源となったのは、実の親から向けられてきた、悪意のない、ゆえに残酷な言葉の数々だ。
そして、それは、高校生という彼女の年齢を思えば、実に自然で、ありふれた心の在り方であるといえる。身近な人の言葉が呪いのように心に食い込み、自己の評価を縛る――こうした経験は誰の記憶にもあることだろう。むろん私にも覚えがあるし、聞けば作者自身にもあるという(天から四物も五物も与えられてみえる彼女でさえそうなのなら、やはりこれは人間普遍の体験なのであろう)。思春期とは、そうした目に見えない鎖の数々を断ち切り、己の価値を見出していくための時期なのかもしれない。冬に閉ざされた雪緒の心を通じて、読み手は、かつて自分も乗り越えてきた、あるいは未だ振り切れずにいる、青春時代の淡く長い葛藤を思い出す。
そして、雪緒は「せんせい」との一冬の交わりを経て、己の人生にもいつか春が訪れることを知る。「せんせい」との出逢いと別れは、誰の前にもある思春期の呪いからの救済のメタファーだ。必ずしも物語のような鮮烈な出逢いを伴わずとも、人は誰もが大人になり、雪融けの道を歩いてゆかねばならない。いまや人生の季節を謳歌する読み手ならば、「自分にとっては、あの時のあの体験が『せんせい』の絵だったのだ」と感慨深く思い出すことだろう。読み手が未だ長い冬に囚われているならば、雪緒を通じてその人もまた、目を上げれば春は近いことを知るだろう。その希望こそ、作者が本作のカンバスに描き出したかったものかもしれない。

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