生きているのだろう、と語りかけたけれど

田舎の町に住む高校生の雪緒は、真冬に古民家を借りにきた女性画家と出会う。女性画家はただただ裸婦絵を描いていたのだ。雪緒はその絵を見て「きれい」と呟いた。それが、二人の始まりだった。

私はこの作品を読んで、強烈な「生」を覚えました。私たちのイメージでは、「生きる」ということは情熱であったり、努力であったり、あるいは失敗や挫折であることが多いです。一方、この作品において、爆発的なエネルギーがじかに描写されることはありません。だけど私は、雪緒と女性画家の二人の間に、たしかに「生」を覚えたのです。

生きるということは、大きく広いことではないのだと私は思っています。もちろん全てがそうというわけではなく、多くの場合には、という前提がつきますが。
あなたはどんな仕事をしていますか。あなたには何人の友達がいますか。どんな趣味がありますか。家ではいつも、どんなことをしていますか。……と、挙げていけば、人間という存在は意外とシンプルなものなのです。時間というものは意外と短いものなのです。ほら、年賀状に「今年こそ会いましょう!」と書いてあっても、なかなか会うことはありませんよね。それと同じで、私たちは希望や予想よりもかなり狭い範囲のなかで限られた時間を生きているのです。毎日、仕事や勉強をして、ご飯を食べて、ちょっと友達に連絡をする。テレビやネットを見る。せいぜいそのくらいなのです。

であれば、生きるということは、自分が関わったほんのわずかなことをたいせつにすることだと言い換えられるかもしれません。雪緒にとっての女性画家はまさにそうなのではないかと思うわけです。ただ一つの出会いと、けして長くない時間。それらを雪緒は自らの胸に刻みつけ、過去の自分と見つめ合うようになるのです。
私はこの作品に描かれていることこそが生なのではないか、と感じました。
生身の人間と生身の感情を覚えることができたからです。それは作者の異次元の筆力が醸し出してくれた時間でした。山中の古民家。しんしんと降り積もっていく雪。けして歴史に名を残すわけでもない、ただの人間である二人。でも二人はたしかにそこにいて、人間としての「生」を煌めかせていたのではないでしょうか。

この作品を読んだ時間があなたの「生」に変わることを。
願って。もう一度、見る。凛冽なる。白。

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