最終話 春川メグミ「サンタにもたまにはプレゼントがいるんだよ」


 あれから15年が過ぎた。

 私たちはまだ手をつないでいた。




 きれいに片付けられたキッチンで、私はクリームシチューがふつふつとしている鍋をかき混ぜている。

 目線を上げると見えるもの。ふたりで買ったカーテン。ふたりで探したテーブルクロス、ふたりで壊してしまって買い直したお皿。チカと始めて過ごした家は、少しずつチカの物が増えていくのがうれしかったけれど、いまの家は「ふたりのもの」になっていた。

 キッチンのカウンターに置いた、チカにもらったシロクマのぬいぐるみ。その少し色づいてしまった手に握手する。そうやっていれば、あの日の想いをいつでも心に満たすことができた。寂しいけれど、そうするしかいまはない。


 「にゃっ」


 足元を毛玉がすりすりとした。


 「どうしたニャッ太。お前のお母さんはいつも遅いな」


 声をかけられた灰色の猫は、私を見上げると自信ありげな顔をして、廊下へと行ってしまった。

 そろそろかな……。


 鍵が開く音がする。

 出迎えに行ったニャッ太がうれしそうな短声をあげる。

 廊下をパタパタと歩く音。

 部屋の扉が開く。


 「ただいま」


 ニャッ太を抱えたスーツ姿のチカが微笑む。


 「おかえり」


 私もようやくほっとしてゆっくり微笑んだ。


 「いい匂いする」

 「今日はホワイトシチューだよ。いつもので悪いけれど」

 「やった。それ大好きなやつ」

 「知ってる」


 チカがニャッ太を床に降ろして、キッチンにやってきた。私の横に並んで湯気を立ててる鍋をのぞき込む。


 「幸せがここにあるな」

 「ほかは適当だぞ」

 「ううん、いいよ」


 そのまま私の横に並ぶチカ。私の手の動きを見つめている。何か話を聞いて欲しいんだろうな。もうわかるよ。そんなことぐらい。


 「チカ。仕事、どう?」

 「たいへんでさー。銀行のあいつら頭おかしくない? 石でも詰まってるんだよ」

 「ははは。6店舗目だっけ」

 「いい場所なんだけどね。融資がなかなか降りなくて。うちが全額出してもいいんだけどさ。まだ、そこまで軌道に乗ってるわけじゃないし……」

 「社長様はたいへんだな」

 「社長様はね、みんな頭の中は資金繰りと事業計画でいっぱいなんだよ」

 「その片隅には私も入れておいてくれてるのかな」


 卑怯だな。私。

 そうされるのがわかってるのに、そう言っちゃうなんて。

 チカが後ろからゆっくりと腕を回し、私のことを抱きしめる。収まりがいい感じは、昔から変わらない。いつもと同じように、これからもそうであるように、抱きしめられて心が落ち着いていく。

 耳元で謝るようにチカが私へたずねる。


 「寂しい?」

 「あ、りとる」


 チカが少しせつなげに息を吐く。私の頬に自分の頬を寄せる。その温かみが「嘘ついてる」と私に問いかける。


 「メグミ。私、心配してるよ。そっちの仕事は?」

 「それがさー。ネームのリテイクが4回目になってさ。早坂のくせにぜんぜん容赦しない。『もっとよくしましょう。春川先生ならできます』って笑顔で言いやがる」

 「あはは。早坂さんが、まさかメグミの担当編集になるとはね」

 「編集部に乗り込んで『お前らのような無能に、春川先生をつぶさせるわけにはいかない』と啖呵切ってさ。そのまま転職してるし」

 「メグミが抱え込みすぎて倒れちゃったときだね」

 「まあ、助かったよ。いまでも助けられている。段取り整えてくれて、私に余計なことを回さないでいてくれて。段取り大好きな早坂には、編集は天職だったんだろうな」

 「ちゃんとお礼しないとね」

 「早坂に? もったいなくない?」

 「ぷふ。あはは。それ、ちょっとかわいそうだよ」


 チカが私をぎゅっとする。笑ってくれる。私はそれが一番好きだ。昔も今も。それなら私はどうなってもいい。そう思っていたらチカに怒られた。「メグミが死んだら私は絶対もう笑えないんだよ」と叫んだチカを見て、ようやく私は考えを変えられた。死にかけたその日。まだ、ほんの3年前のこと。

 からんでいる私たちに、ニャッ太がそのふさふさの毛を私たちにすりつける。足元を何度も行ったり来たりしてる。

 心の底でたゆたっているものを、私はふと漏らした。


 「いろいろあるな」

 「いろいろでちゃうよ。もう長いことこうしてるんだから」

 「いろいろと言えばさ。ハルカんとこ、揉めてるの聞いた?」

 「うん、ミヤコから話しが来てる」

 「ハルカらしいと言えばそうだけど。なんか思うところがあったんだろうな」

 「リハルくん、もう小学生になったのに」

 「いま言うかと思うけどね。『さて、どっちの子供だろうね?』なんて」

 「いや、ほんとにどっち? みたいな」

 「チカ、ワイドショー見てるおばさんくさい」

 「ええ……」

 「ひとんちのことだから、ほっときゃいいんだろうけどさ」

 「そうもいかないよ。アキトさんは寝込むし、ミヤコは真っ青になってるし。リハルくんはハルカのほうに懐いちゃってて。普通に心配はするよ」

 「男の娘のお母さんか……。ハルカは、また妙な属性を付けたな」

 「いろいろあるんだよ。いろいろ」


 シチューはふつふつとした音を立てている。

 チカに最初食べさせたとき、すごいとほめてくれたシチュー。

 これを作るたびに、あのときのチカを思い出す。

 あれからたくさんのことが、私たちにも、いろんな人たちにもあった。

 きっとチカもそうなんだろう。私と同じことを言い出した。


 「いろいろあったね」

 「いろいろありすぎたよ」

 「ずたぼろだね、私たち」

 「それでも手は放してないよ」

 「一回離したけれどね」

 「それでも、『あ、やば』って感じで手を握り直したじゃないか」

 「お互い3日で根をあげたし」

 「チカなんかさ。やっぱり一緒にいたいって大泣きしてたくせに」

 「そんなこともあったかな」

 「あ、ずるいぞ」

 「あのときね。やっぱり離れられないんだと強く思ったよ」


 チカが私の手を探るようにそっと握りしめる。私はそれを握り返す。一度は離してしまったその手を。あのときは握れなかった手を。私はもう離れるのを嫌がるように指先をからめた。

 遠くを見つめているチカが言う。


 「笑い話になるのかな。これ」

 「なるよ。私たちなら」

 「メグミはちゃんと話せるようにならないと」

 「そうだけどさ」

 「私に遠慮してない?」

 「してない」

 「言いなよ」

 「さっき言ったじゃないか。あ、りとるって」

 「本当に?」


 チカが頬を寄せる。私を待っていた。あきらめたように言う。


 「寂しい」


 チカが体を離す。なんで、って振り向いたら、頬にチカの手が触れる。


 「よしよし。よく言えました」


 そのまま唇を引き寄せられる。「あ、されちゃうんだ」と思いながら、そのままチカに身を任す。ほどなくしてチカの温かみを体の中で感じる。舌のこすれる感じが少しくすぐったい。体に快感が駆け巡る。

 何度もそうしているのに、なんでこんなに……。大好きなんだろ……。


 ピンポーン。


 その音に私たちは心底がっかりする。チカがぶーぶー不満の声を上げる。


 「ねえ、このパターン、なんか覚えがあるんだけど」

 「じゃ、体を離してよ」

 「いいわよ。私はもう大人だから。それぐらいできるんですから」

 「じゃ、そうして」

 「えー」


 チカがいやいや離れる。私はインターフォンのモニターまで「はいはい」と言いながら駆け寄った。カメラ越しには、ベージュのダッフルコートにブレザーを着た女子高生が立っていた。リュックやらバッグやら、やたら大荷物を抱えている。私はインターフォンに問いかける。


 「あれ、ジウ。どうした? もう結構な時間だぞ」

 『家出してきた』

 「は?」

 『とりあえず開けてもらっていい? 寒いし』

 「わかった」


 マンションのオートロックを開けてあげる。ほどなくして玄関のチャイムが鳴り、扉を開けてやってくる女子高生。ローファーの靴を脱ぎながら、荷物をどさりと廊下の端に置いた。

 にゃおんと鳴いて出迎えに来たニャッ太を、ジウが屈んで抱きしめた。


 「ニャッ太ー。お前はいつでもふさふさでごきげんだなー」


 ニャッ太はなすがままにされていた。私は無邪気なジウに声をかける。


 「制服に毛が付くよ」

 「あとでコロコロかけるし」

 「姉ちゃんには?」

 「お母さんにはあとで言うから」


 ジウは私を見ずにニャッ太をこねくりまわしている。


 「まあ、あがんなよ」

 「うん、お邪魔します」


 ニャッ太を抱えたジウが、扉を開けたままのリビングに入る。


 「いらっしゃい、ジウちゃん」

 「うん」


 ジウがニャッ太と一緒に、ぺこりと頭をさげた。

 私はなんとなくチカのそばへ行く。いつもと変わらない仕草で、チカは私の腰に手をやり、軽く引き寄せる。


 「メグミちゃんたち仲いいな」

 「そうかい? 結構ケンカとかもしてるよ」

 「だってメグミちゃんにキスマークついてる」

 「え、どこ?」

 「あはは。嘘」

 「こら、ジウ」


 ジウは、私とチカの関係が当たり前のように接してくれている。ジウの子供の頃から、隠すことなくそれを伝えてきた。いろいろ思うことはあるだろうに。


 「うちよりいいよ。ぜんぜんいいから」


 ジウが顔をうつむけて少し寂しそうにした。

 私は聞いていいのか迷っていたけれど、心配のほうが勝ってしまった。


 「なんかあったのか?」

 「お父さんとお母さん、本格的にバトりだしてさ。勉強にならないから逃げてきた」

 「そっか……」

 「メグミちゃん、お願いがあるんだけど」

 「なんだい?」

 「何日か泊まっていっていい? ここからだと学校近いし」

 「いいけど……」


 私はチカのほうを振り向く。うんうんと大げさにうなづく。それから頼もしげに言う。


 「いいよ。ジウちゃん、あとでお母さんには連絡入れておくから」

 「チカちゃん、ありがとう」


 ぎゅっとニャッ太を抱きしめ、ジウが嬉しそうな顔になる。

 少し迷惑そうな猫と笑う女子高生の取り合わせは卑怯だな、デザイン的に優れてる、とか職業病的に考える。あとでラフ描いて、ネットの海に流しておこう。

 チカが「あ」という感じでお腹をさする。そういえばうちらはご飯がまだだった。チカがジウにたずねる。


 「とりあえずごはん食べよ。おなかいっぱい?」

 「ううん。腹ペコ」

 「よし。手伝ってくれる?」

 「うん、やる」


 チカはジウの名付け親だけど、私は何の親なんだろうな。私はまだ15歳のその子を、何かの親であるように見守っていた。






 テーブルにはスープ皿。ご飯はいつもと違い、別添えにした。サラダは3人に分けて、トマトと刻んだオリーブを混ぜたものとか、フィオナから山のように贈られてくるニシンの酢漬けを開けたものとか、適当にそれらしく並べてみた。お皿はふたりで買ったマリメッコの華やかな柄がついたものなので、適当な盛り付けでもわりと目を引く。おいしそうに見える。

 いただきますをして、さっそくジウがシチューを人さじすくって口に含む。ぱあっと明るい顔になった。


 「おいしい。よだれでちゃう。これ、メグミちゃんが作ったの?」

 「あれ、食べさせたことなかったっけ?」

 「うーん、記憶にないかも」

 「そっか。ふふふ。おばちゃんには、まだたくさんの秘密レシピがあるぞ」

 「え、なにそれ。いっぱい食べたい」

 「まあ、いつかな」

 「じゃ、今度リクエストしていい?」

 「いいよ」

 「やった」


 チカが何気ない感じを装って、ジウに聞く。


 「ふだん何食べてるの?」

 「出前が多いかな……。お母さん忙しいし、お父さん夜遅いし。バラバラに食べてる」

 「寂しくない?」

 「ううん。あまり」


 チカが私に振り向く。言わなくてもわかるよ、そんなこと。


 「最近できたエスニックのとこ、おいしかったよ。メグミちゃん気に入りそう」

 「おお、そうなんだ」

 「何より配達の人がイケメンなのがいい感じ」

 「あはは」


 ジウはいい子に育ってる。よく人の心の機微を見ているところがある。私が倒れたときは、ジウがいちばん怒っていた。そのぶん人の心無い気持ちをぶつけられて、ジウ自身が傷つくときがあった。それが両親であっても。

 こうしてつらくなると、ジウはたまにうちへ逃げてくる。私たちはそれをいつでも快く迎え入れていた。その寂しさは、私たちを見ているようだったから。






 食卓の片づけをしていたら、ジウが私たちと一緒に寝たいと言い出した。「この甘え坊さんめ」と言いながら、ちょっと困った。私たちはダブルベッドで一緒に寝ている。さすがに3人は狭かろうと思ってたら、チカが昔みたくリビングに布団を敷き詰めようと提案してきた。それは懐かしいなと思い、あちこちから毛布や布団を集めてきた。ジウがちょっと楽しそうに布団を並べていく。そこにニャッ太が当然のように敷きかけの布団に乗ってきて妨害してきた。ジウが「どいてー」って困ってる。

 みんなで川の字で寝転んだ。部屋の明かりを暗くすると、ジウが私の手を握ってきた。


 「結構つらい感じ?」

 「まあ……。私から聞いたって言わないで欲しいけど」

 「いいよ。約束する」

 「離婚するってお母さん言ってた」

 「そっか……」

 「しばらく大阪に引きこもりたいって」

 「友永さんとこに行くのは、相当やばいな」

 「友永さん?」

 「会ったことないものな。会わせないようにしてたというか」

 「誰それ?」


 私がどう説明したらいいんだろうと思っていたら、チカが助け舟を出してくれた。


 「お母さんの親友で仕事仲間だよ」

 「ふーん」


 ジウが天井を見上げている。


 「私、捨てられたってことかな……」


 私はあわてて言う。


 「そんなことはないぞ。姉ちゃん、疲れただけだと思う」

 「私だって疲れたよ……。もう、メグミちゃんとこの子供になりたい」


 私は考え込む。大人の事情や姉ちゃんのことが頭の中をぐるぐる回る。そうしてあげたいけれど……。

 ジウの向こう側から、チカの声がした。


 「いいよ、メグミ。そうしちゃいなよ」

 「……ありがとう、チカ」

 「いえいえ、どういたしまして」


 チカと一緒になれてよかった。本当に、この人と一緒にいられて……。

 ジウが不思議そうに声をあげる。


 「ん、なに?」

 「ジウとしばらく暮らすってこと」

 「やった。ちょっと嬉しい。あ。ちょっとじゃないな、これ」

 「そうかい」

 「だってチカちゃんとメグミちゃんのご飯おいしいし」

 「何を言う。これからジウにもご飯作ってもらうぞ」

 「ええ……」

 「ちゃんと教えるから。おいしいごはんを作れるのは、人生の必須スキルだぞ」

 「どれぐらい?」

 「弓溜め段階解放ぐらい」

 「それは取らないとだめだな……」

 「ほら。いっしょにおいしいもの作って、いっしょに食べよう」

 「うん」

 「ねえ、チカ。なんか娘ができちゃった」

 「いいじゃない。メグミ、てきとーにだよてきとーに」

 「ふたり適当すぎない?」

 「ジウ、お前が言うか」

 「え、あ、ちょっと。くすぐりはNGなんで。あ、だめだって。メグミちゃん容赦ない!」

 「あはは」


 くすぐられて荒い息をしているジウに、起き上がったチカはいたずらを持ちかけるように言う。


 「ねえ、ジウちゃん。明日ずる休みしない?」

 「でた。チカちゃんの固有スキル『悪い大人』」

 「そうだよ。私は悪い大人だぞー。がおー」

 「あはは。あ、私、服買いたい」

 「いいよ、どこがいい?」

 「うーん、どっかのアウトレットかな。いろいろ見たいんだよね。私、どんなキャラになればいいか、わかんないし」

 「行こう行こう。似合うの探そうよ」

 「あれ。もしかして私、かわいそうに思われてる?」

 「そうだよ、お前はかわいそうな奴だ。むぎゅっとされてしまえ」

 「あはは。メグミちゃん、苦しいって。あはは。バカ、涙出ちゃったじゃないか。あれ、やだ、止まんないし」


 ジウが何度も涙を拭う。手で必死に拭うけれど、あふれてくる想いは止まらない。


 こいつも寂しかったんだろうな……。


 慰めるようにジウの頭をなでてやる。

 チカも反対側から手を差し出し、一緒に頭をなで始めた。

 それでも治まりそうにないので、ふたりでジウを抱きしめた。


 「メグミ、またサンタやってるし」

 「チカ、サンタにもたまにはプレゼントがいるんだよ」


 12月のその日、私たちにプレゼントがやってきた。プレゼントには私たちのとは違うけど、青いリボンがかけられていた。そのリボンを私たちがつなぐ。リボンが私たちをつないでくれる。


 やっと泣き止んだジウが「ちょっと苦しい」と私たちに訴える。私たちは「ごめん」って言いながら少しずつその手を緩める。そうしたら「緩めすぎ」といってジウが私たちの腕をつかんでぎゅっと抱きしめた。ジウがうれしそうに言う。


 「あったかいな……。うん、あったかい……」




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ご愛読ありがとうございました!

次回作にご期待ください!


推奨BGM: ねごと「Ribbon」

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