第6話 芝原チカ「わかりたい。そう思ってた」
恋って何?
信頼感、憧れ、同じ想い、寂しい、一緒に居たい、仲良しに嫉妬する、体に触れたくなる、沸騰する感情……。そうしたくなる気持ち、全部。
……恋って何だろう。
湯船でお湯に浸かりながら、そんなことをずっと想う。
メグミをハグしてしまったその日から百合マンガや百合小説を読みまくって、恋というものを勉強していた。そこには幸せがあった。女同士でも、キスしたり、抱きしめたり、そういうことをしたり。何があっても乗り越える。ハッピーエンドでもそうでなくても、それは未来へと続き、必ず何かの幸せをつかむような。
わかるわけないじゃん……。
恋はつらいもの。私にとっての恋は触ることができず苦しむもの。恋なんかしなきゃいいのに。こんな私に未来はない。そう思って今まで生きてきた。
それでも……。
メグミのそばに居たい。この生活を続けて行きたい。ずっといつまでも……。
ぶくぶくと私はお湯に沈んでいく。
どうしてそう思うのだろう。
同じ安心感、同じ失恋体験、同じ価値観。
違う仕事、違う友達、違う恋人。
お互いの関係性に名前を付けなくてもいいって好きな作家は言ってたけど、そろそろ名前を付けてあげたい。それはどんな名前? どういう名前? 探していく。深く潜り込む。その先は危ないと思ってるのに。深海魚が照らすような奥底まで。漂う。光を探しながら。暗闇の海底をグロテスクでかわいい魚たちと一緒に。
暗い海底から光がきらめく水面を見上げて思う。
今の気持ちを伝えたら……。伝えてしまったら……。
メグミは許してくれるかな。
そうだったらいいな。
ざばーんとお湯から勢いよく出た。もう体も心もぽかぽかと温まったような気がしてた。
もこもことしたパジャマを着て、濡れた髪をタオルで巻きながら居間へと歩く。その片隅で、メグミが椅子に座り、狭い机に置かれた液タブへしゅるりとペンを走らせていた。奥にあるパソコンの画面には、あられもない状態で男子2人が絡み合っているイラストが何点か表示されていた。乱れた線画のままだけど、それでもだいぶ生々しい。
明日ハルカが家に来る。描いているBLマンガにリアリティを持たせるための取材。そのための準備とメグミは言っていた。
「お風呂あがったよ」
「あー。あとで入るー」
心のない返事をされる。振られた相手へ、一心不乱に絵を描いているメグミがそこにいる。
なんだ、メグミはまだハルカのこと好きなんだ。
バカみたいだな、私……。
椅子に座り背を丸めて絵を描くメグミに手を伸ばす。
また実家に戻るフリをすればいいのか。
また泣いて気を引けばいいのか。
押し倒して無理矢理体を奪えばいいのか。
私を見てほしい。ハルカじゃなくて私だけを……。
……気持ち悪い。
そんなことを思う自分に吐き気がする。
伸ばした手を下ろしていく。
台所へ向かうと、冷蔵庫からいくつか品物を取り出した。
……私ができるのはこのぐらいだから。このぐらいでちょうどいいから。
炊飯器からボールにご飯をよそうと、私はおにぎりを作り始めた。
友永さんが教えてくれたメグミの好きなとろろ昆布。じゃこと叩いた梅干しをご飯に混ぜて握ったおにぎりへ、それをふわりとまとわせる。
取り分けておいたもう半分のご飯には、しゃけとゴマと刻んだ生姜を混ぜていく。何度か夜食に作ってあげてメグミが喜んでいた。
相手がして欲しいことをしてあげる。そう友永さんは教えてくれた。
おにぎりが4つ乗ったお皿にふんわりとラップをかける。それをテーブルにことりと置く。
「メグミ、先寝るね」
「あーい、おやすみー」
返事はしても私には振り向かない。
自分の部屋に入り、扉を閉める。部屋の灯りをつけず暗いままベットに転がると、そこに置いてあったスマホを手に取る。一日中考えていた返事をようやくいま返す気になった。
感情をごまかしながら、それを開く。ミヤコから謝罪と距離を置きたいという文面がスマホの画面に映し出されていた。最後は「さよなら王子」という一行があった。
私はスマホをのろのろといじる。何度も文章を入力しては消していく。結局「ありがとう姫」とだけ文字を入れてミヤコに送った。
泣かなかった。
何か大きな感情は感じていたけれど、それは私の心を揺らすほどのものではなかった。
私は大人になったんだな……。
いま思う寂しさは隣にメグミがいないことだけ。
あの日本当は起きてた友永さんとずっと話し込んでたメグミ。それでも離すことなく握り続けていたその手を、私は胸に押し当て抱きしめた。
朝遅く起きるとメグミは変わらず絵を描いていた。さすがに徹夜というわけではなさそうだったが、睡眠時間が短かったのは、頭のぼさぼさ具合からなんとなくわかった。
テーブルをふと見るとお皿は空になっていた。私は仕方ないようにふと微笑む。
日本茶をこたつですすりながら、ハルカが来るのをなんとなく待っていた。ぼーっとスマホでマンガを読んでいたら、フィオナさんがメッセージをくれた。「実録ちちくりあいレポートはよ。読者は飽きてるぞ」というその文を見て、私はぷふと笑い、気がまぎれた。
ハルカは結局昼過ぎに家へやってきた。チャイムが鳴った後、メグミの代わりに私が玄関の扉を開ける。
「いらっしゃい。ハルカ」
「あれ、メグミは?」
「まだなんか描いてる」
「そっか」
ハルカが目を細めて笑う。猫が獲物を見つけ、殺すまで遊ぼうと思いついたときの目。ハルカは黒いベレー帽に黒い厚手のケープを羽織っていて、どう見ても黒猫のそれに思える。そんな生き物が口を開ける。
「どう、寂しい? 王子様?」
こいつ……。
ミヤコと私のやり取りを知ってる……。
「ミヤコを慰めて、芝原さんのこと、ちゃんと忘れさせてあげたよ。褒めて欲しいな」
「ミヤコに何をした?」
「さあ。なんて言って欲しいの?」
「ミヤコを苦しめたあげくさらってたのに、何を言ってる」
「まあ、そういうことになっちゃうね。アキトと私の関係なのに、ミヤコが私たちのそばにいられるのは、私の温情だから。でも、私たちはそれで幸せ」
「お前……」
こいつの、この化け物の首をいま絞めてしまえば……。それでみんな解決する……。
「どうした?」
メグミが顔を出す。私は明るく言う。
「なんでもないよ」
そう。本当になんでもないこと。
椅子を持ち出して、メグミとハルカが横に並んでパソコンの画面を見つめている。昨日からメグミが描いてた男同士が絡み合っている絵がいくつも映っている。そのひとつをハルカが指さす。
「こんなふうに腰を浮かすのは、ちょっと疲れるんだよね。長くはできないかな」
「そうなんだ」
「枕を腰の下に敷いてみたりもしたんだけど、あんまりぴったりこなくて。恥ずかしさもあるし」
「仕方ないんじゃない? 後ろのほうだし」
「うーん、そういうことって前からだけじゃないから」
「顔を見ながらのほうがいいんじゃないの?」
「そうだけどね。寝ながら後ろからのほうがお互い楽かな」
「地味だな」
「本当に気持ちいいことって、案外地味だよ」
「そうかもしれないが……。絵にしづらい」
「じゃあ、後ろから抱きつかれながら体ひねってキスし合うのはどう? 一生懸命気持ちよくなろうとしようというのが感じられて、私はキュンキュンしちゃうけど」
「どんな絵面になるんだ? なかなか描くの面倒だな……」
「メグミと私で実演してみる? もったいないかもよ?」
ハルカが目を細めてメグミに笑いかける。メグミはひとつため息をつく。
「いや、いいよ。なあ、最近より一層生々しいな」
「えへへ。ないしょ」
「幸せそうだな」
「おかげさまで。そっちは?」
「まあまあいいよ」
「それはそれは。妬けちゃうな」
「餅でも焼くか。まだ正月のが残ってるぞ」
「まだ、私のこと好き?」
「私は自分の気持ちに気がついたその瞬間から諦めたよ」
「そっか。諦められたら、いいね」
ふたりが見つめ合う。ふいにハルカが横のこたつに座ってた私へ振り向く。
「あ、怖い人がにらんでる」
「私は……、別に……」
「なんで、ふたりは一緒に暮らしているの?」
「それは……」
メグミが口を挟む。
「私が言い出たんだよ。友達だから。それだけだよ」
「そう……」
ハルカがメグミの頬を手のひらで包むようにそっと触る。
「本当にそう思ってるの?」
少し前までは怒ってた。こんな風景、毛が逆立って当然だった。
でも……。
かわいそうだな。そう思ってしまった。
ふたりとも自傷しているようにしか見えない。互いに自分へ包丁を刺して見せ合うような会話に聞こえていた。
メグミがつらいのはわかる。ふられてもまだ気持ちが残る相手から、こんな話を聞かされるのは作品のためとはいえ、つらいだろう。ハルカだってそれがわかってるのに……。からかっているように話しているけど、それはたぶんまだハルカだって……。
ねえ、本当にそう思ってるの?
私はハルカの言葉を心の中でそのまま返す。
首を横に振る。それから、ふたりに話しかける。
「ねえ、ご飯にしようか。私、作るよ」
「どうしようかな。芝原さんのご飯、私に毒でも盛りそう」
「だめだよハルカ。一緒に食べよう」
「……じゃ、そうしようかな」
ハルカは、どこか寂しげに笑ってた。
台所の前に立つ。包丁とまな板を前にして、私は魔王討伐を目前にした勇者の気分でいた。
「みんな、私に力を……。哀れな魔王に安らぎを与えられる力を……」
小声でそうつぶやき、よしとうなづく。顔を上げ、それから料理を始めた。
メグミが教えてくれた適当ホワイトソースをバターで焼いたサーモンの上にかける。
フィオナさんと一緒に飲んだフィンランドのホットワイン「グロッギ」を、クリスマスにメグミが美味しいと言ってくれた赤ワインで作る。
ミヤコに教えてもらった豆腐屋さんで買ってきた油揚げ。友永さん直伝の甘辛い味付けで、チーズとベーコンと茹でたほうれん草を中に詰めて炊いて洋風にしてみた。
サラダはいつもメグミがおいしいと言ってくれるニンジンすりおろしドレッシング。友永さんも喜んでたもの。
みんなの料理。私たちの料理。食べてくれる人へ喜んでもらえるように、その想いをつないだ料理……。
そして最後に。それを手に取り微笑む。これがメグミの良く言う約束された勝利の剣って奴かな……。
テーブルに並んだ料理たち。真新しいテーブルクロスは真っ青な海の色。華やかな料理をよそわれた白いお皿が、きれいな魚のようにその上を泳いでいる。メグミがハルカのために絵を描いていたように、私もこの日のためにこっそり準備していた。
いただきますとみんなで言ったあと、メグミがパクパクいつものように食べだす。ハルカもつられて手を伸ばしていく。ひと口食べる。顔が明るくなっていく。
「おいしいね。ホワイトソースの上はディル刻んでかけてるの?」
「よくわかるね。フィンランドではそんな感じって、聞いたんだ。メグミも私も好きでさ」
「そうなんだ。たまにミヤコもやってる」
メグミがフォークを振り回しながら私に言う。
「この料理、なんか我が家オールスターな感じだね」
「ちょっとがんばってみました」
「ありがとう、チカ。おいしいよ」
やっと私のほうに向いたな……。
少し安心する。
ハルカが小さな皿にフォークをつけて、それを口に入れる。
「わさび漬け好きなの覚えていてくれたんだ。でも、芝原さんに言ってたっけ?」
「メグミから聞いてたから。クリームチーズ混ぜて洋風にしたよ。添えているスティック野菜をつけて食べて」
「どれどれ。ん……。あれ、おいしいな、これ……。大根あうね……。いやニンジンも……」
よっしゃあ!
心の中でガッツポーズする。
「みんなメグミが好きなものなのに、私のためにも用意するなんて。なんか余裕だね」
「そんなのないよ。たぶん一生ないから」
「そっか……」
「余裕ないから、がんばるしかないんだ。そのわさび漬けのクリームチーズ和えも、何回も自分で作って試してたし」
「ふーん……。うん、おいしいよ」
メグミが私を見る。楽しそうににんまりと微笑んでいる。
ハルカが私たちを見てる。メグミだけじゃなくて、ふたりを。そっとささやくように言う。
「恋ってなんだろうね。私は少しうらやましいな」
メグミが少し驚いたように言う。
「え、いや。そっちは恋まみれだろ。3人で仲良さそうじゃないか」
「私は自分から恋したことがないんだ」
「そうなのか?」
「求められたら相手が気に入るものを返すだけ。こんな体だし、愛してくれるだけでうれしいよ」
「……寂しいな、それ」
私がふと漏らした言葉に、ハルカが振り返る。
「恋ってさ、寂しさなんだと思う。私たちは3人でいないと寂しくて仕方がないから一緒にいる。それだけだよ」
「そんなものかな」
「そんなものだよ、メグミ。例えばさ、遠距離恋愛してたら片方が浮気してたってよくあるよね」
「よくあるのかよ」
「私は両方しょうがなかったと思うんだ。浮気したほうは普通に寂しかったのだと思う。いつ会えるかわからない。体は温かさを求めている。冬の底のような寂しさにふと灯りが見えたら、悪いことだと思っていてもそれにすがりついてしまう」
「浮気されたほうはつらいな」
「そうかな……。浮気しなかったほうはその寂しさに何かで耐えていたんだ。いつか会える。これが終わったら会える。もっときっとよくなる。そんな自分をだますところからようやく解放されたんだ。寂しさを自分だけのものにできたんだ。事情はそれぞれにあるんだろうけど、私は両方の寂しさを想う気持ちを愛でたいかな……」
「そんなに寂しかったら全部ぶん投げて一緒に居ればいいだろ」
メグミの言葉にハルカは下を向く。温かいホットワインに口を付け、その甘い香りを吐き出すように言葉を口にする。
「芝原さんのご飯、おいしいよ。でもね、私には居心地が悪くなる。想いがたくさん詰まってるから。愛されてるんだね、メグミ。よかったね。とてもよかった」
何も言い返さない私たちに、ハルカは棘のある言葉を浴びせる。
「ふたりは寂しい? どういう気持ちなの?」
「……」
「ふたりはお互いに手が届かないんでしょ?」
「……」
「ふたりでいても、ずっと気持ちは昔に縛られているんでしょ?」
「……」
「ねえ」
「……」
「ふたりで失恋の傷を舐め合って暮らすのって、そんなにいいの?」
ハルカは目を細めて私たちを見つめてる。
メグミがフォークを置く。
「なあ、ハルカ。いまの私の気持ちがわかるか?」
「さあ、どうかな?」
「酒を頭からぶっかけてやりたい気持ちと、そのまま抱きしめて押し倒したくなる感情が同時に沸いているんだ」
「それはそれは。かわいいなメグミは。いつも矛盾してる」
「うちらのことは壊さないでくれよ」
「それはわかってるけど。いじわるぐらいさせてほしいな。だって君たちお似合いだし」
「ハルカ……」
メグミが目をつぶる。
「好きだった人にそう言われるのは、思ったよりつらいんだぞ」
「お似合いって言われることが?」
「わかれよ」
「わかるよ。でも、わかりたくはないな。まだ」
「まだってなんだよ」
「さあ」
「なあ、ハルカ。お前、寂しいのか?」
「どうだろうね。たぶん、私の寂しさは誰かどうやっても絶対に埋まらないものだから」
「なんだよそれ」
「そろそろ帰るよ。アキトが心配するし。ごちそうさま、おいしかったよ、芝原さん」
自慢だった翼も立派な角も、みんなもがれてしまった魔王のように、ハルカは目を細めて笑ってた。
玄関先でハルカがブーツに足を入れ、トントンとしている。
「じゃ、行きますか」
「寒いから気をつけて帰れよ」
「うん。メグミ、そっちは温かそうだね」
「そうかい」
「芝原さん、ちゃんとそっちも忘れさせてあげてね」
え? なに?
そう思ったとき。
ハルカがメグミの肩をつかみ、瞬く間に顔を重ねる。
メグミは顔を真っ赤にして、あわてて私に振り向いた。
「チカ!頬だから!ノーカンだから!」
「わかってるよ。あわてすぎ」
「あはは。また来るよ。メグミ、芝原さん。きっとまたね」
ハルカがうれしそうに笑う。すっかり暗くなった外の世界へ、溶け込むように去っていく。
ハルカがキスされたとき、メグミが最初に見たのは私。それでじゅうぶん。
いつ来てもいいよ、もう。
私は戦えるから。
居間のコタツでメグミがうなだれていた。洗い物が終わり、こたつに入ってぼんやりとしているメグミを後ろから見てる。猫背をさらに丸めているメグミに声をかける。
「がんばったね」
「そうか」
「かなり落ちてるよ」
「そうなのかな」
「止めなよ、もう」
「そうはいかないよ。止めたらもう一生会えなくなるから」
メグミのすぐ後ろに立つ。そのまま膝を下す。肩からゆっくり手を前に回す。メグミを抱きしめる。ハルカがミヤコにそうしたように。
私はメグミの耳元でそっとやさしくささやく。
「かわいそうな奴」
「チカだって……」
「旅行行こうよ。失恋旅行」
「なんだよそれ。誰とのだよ」
「さあ、誰のかな……」
恋って何?
わかりたい。そう思ってた。
メグミの温かい背中を抱きしめながら、もうわからなくていいやと思った。
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次話は旅行回! どういうわけか、真冬の津軽海峡へやってきたふたり。吹雪で荒れる海を前にして絶叫します。絶望的な寒さのなか、ふたりは寄り添うようにして…。
お楽しみに!
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