遺香_03

 ある夜、両親が慌てた様子で一階へ降りていく夢を見た。

 目を覚ますと祖父がいなかった。夜中にたくさん血が出たとかで入院したと聞かされた。

 祖父の食事を運ばない朝は久しぶりだった。朝の空気はこんな匂いだっただろうかと、少し落ち着かない気分になった。

 次の土曜、両親に連れられてお見舞いに行った。

 祖父は白っぽいベッドの上で眠っていた。

 インクの匂いはしなかった。生ゴミの臭いも糞尿の臭いもなく、ただ、病院の匂いだけが充満していた。

 翌日、祖父はまだ帰ってこなかった。両親は申し合わせたようにマスクとゴム手袋で武装すると、一階の大掃除を始めた。

 宿題を進めるよう言いつけられたものの、どうしても落ち着かなくて、私はそっと一階に降りて台所を覗き込んだ。

「ねえ、急にどうしたの?」

 流しを掃除していた母は、肩越しに私を認めると、困ったように笑った。

「お祖父ちゃんがいると掃除できないから」

「なんで?」

「なんでだろうね。お祖母ちゃんとの思い出が詰まってるからかなぁ」

 母の返答は朗らかに乾いていた。それ以上の追求を望まない声だった。

 私が言葉を探しているうちに、母は排水溝を洗い終えた。ゴム手袋とブラシを濯いで、小さく疲れた息を吐く。それから、眉間に皺を寄せた。

「まだなんか臭うね」

 あ、と思った時には、もう遅かった。

 母が段ボールをかき分けて、半透明のポリバケツを探し当てる。臭いに顔をしかめながら中に目を凝らして、ぎゃあ、と小さく悲鳴を上げた。

「お父さん! ちょっと来て!」

「どうした?」

 トイレ掃除を中断して、父が台所にやってきた。同じようにプラスチックの内側に目を凝らして、いささか大袈裟にのけぞってみせる。

「こりゃひどいな。捨ててくる」

 父は呆れ顔でバケツを受け取った。そのまま玄関へと歩いていくので、私は慌てて後を追いかけた。

 長靴に足を突っ込んだところで、父はようやく私を振り返った。

「二階で勉強してなさい。生ゴミの片付けなんて、見て楽しいもんじゃないぞ」

「でも、それ、おじいちゃんが開けちゃだめって」

「わかってるよ。家の中で開けたらえらい騒ぎだ」

 ほら、と父は渋面のまま、ゴム手袋に覆われた指先で半透明のバケツを差した。

「これ、ぜんぶ卵だ」

 白昼の日差しに照らされて、内壁にびっしりと並んだ影の形が浮き上がる。爪楊枝の先ほどの灰色の影。ぞっとするほど整然とプラスチックの壁に張り付いているのは、すべて虫の卵だった。等間隔の水玉模様の向こう側、狭い空間を小さな黒い影が無数に飛び回っては壁に当たり、コツコツと小さな音が響く。普段より暖かい場所に連れ出されたせいか、音の群れはいつになく活発だった。

 ひくりと引きつった喉に、色々なものが腐った重たい臭いが入り込んで、反射的な吐き気を覚えた。

「これ以上増えたら家の中が小蝿だらけだ。いま気づけてよかった」

 父が玄関扉を開く。庭から流れ込む空気がひどく甘く感じられた。

「じいさんは見栄っ張りな人だからさ、昔は本当に掃除に厳しくて。蠅が湧くようなこと、許すような人じゃなかったんだけどな」

 父が小さくぼやきながら、家庭菜園の奥にあるコンポストへと歩いていく。晴れた昼間の空気の中、父の後を追うようにして、帯状の腐臭が漂っていた。

 父の手が、バケツの白い蓋を開ける。

 ──ざぁ。

 灰色の靄がバケツから飛び立つ。

 無数の微かな羽音は、あるいは幻聴だったかもしれない。コンポストの臭いをかき消すように、強烈な腐臭があたりに広がる。

 不意に、強く風が吹いた。清潔な空気が、瞬く間に悪臭を吹き散らす。食い荒らされた少量の生ゴミがべしゃりとコンポストの中に落ちた。

 開けたらいかんよ、と祖父は言った。

 あるいは、それは祖父の最後の見栄だったのかもしれない。身体の内側で進む病、不自由になる日々の暮らし、バケツの中で増える虫。誰よりも自分が望まない変化に蓋をして見せまいとした、病人のささやかな意地。

 ふと、微かな痒みが頬を這ったのを感じて、反射的に指で拭った。

 視線を落とすと、すりつぶされた昆虫の体が指先に黒い線を描いていた。

 祖父が亡くなったのはその翌朝のことだった。



  ***



 慌ただしい葬儀の後、念入りな清掃を経て、一階は両親の縄張りになった。

 機械類の処分に手間がかかるせいか、祖父の仕事部屋だけは長らく手付かずのままだった。両親が喧嘩をするたび、私は仕事部屋に逃げ込んで、インクの匂いを毛布がわりに身体を丸めた。

 私が就職して実家を離れると、その仕事部屋もついに解体された。電話越しに抗議してみたところで、捨てられた活字や機械が戻ってくることはない。

 両親も私も祖父の仕事を継ぐ予定などなかったのだから、むしろ自然な成り行きではあった。時間の重石で不満に蓋をして、久しぶりに帰省してみれば、かつての仕事部屋は味気ない物置に変わっていた。

 薄暗い部屋の中心で、深く息を吸ってみる。随分と薄れてしまった苦い匂いは、もはや生活の喧騒を覆い隠してはくれない。

 私だって、もうここに入り浸る必要はない。仮に今から両親が大喧嘩を始めても、呆れ返って自宅に帰る自由がある。なんなら外泊で羽を伸ばしてもいい。

 ただ、かつて祖父の誇りだった場所が、二度と戻らないことが寂しかった。

「明日香、もうすぐ晩ご飯だよ」

「いま行くよ」

 二階から呼ぶ母の声に応じながら、私はそっと、古びた金平糖の缶の蓋を開けた。

 鈍い銀色の鏡文字。祖父に贈られた私の名前。インクの気配が染みついた活字は、面影を失ってしまった部屋の中で唯一、十年前と変わらぬ姿をしている。

 微かに甘い残り香と連れ立って、いっとき、懐かしい匂いが暗がりを満たした。

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遺香 千鳥すいほ @sedumandmint

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