遺香_02
その週末、祖父が交通事故を起こした。
「もう原付に乗るのはやめてもらおう」
実態としては事故というのも大袈裟なくらいのものだったが、父の嘆きは相当のものだった。
「昔はこんなんじゃなかったのに」
祖父はただ、歩行者を避けようとしただけだ。近所のおばあさんが横断歩道のない場所を横断しようとしたから、驚いて原付ごと転んでしまっただけ。
怪我人だってひとりも出なかったのに、父がどうしてそこまで騒ぐのか不思議だった。
事故の件に限らず、父はしばしば祖父が弱っていくことを嘆いた。けれど、私の目に映る祖父はいつでもシャツと背広、お気に入りのループタイを身につけていて、父が言うほどの変化はないように見えた。確かに脚は少し不自由だけれど、来客があれば杖をついて玄関まで出迎えに行く。朝食は相変わらず自分で餅を揚げて食べていた。
それでも父が心配するからか、昼食と夕食は母が作るようになった。料理が乗ったお盆を一階へ運び、必要に応じて冷蔵庫に入れるのは私の役目だった。食器を下げて洗うのは、父の仕事になった。
一階に漂うインクの匂いに、別のものが混ざり始めたのはこの頃だっただろうか。料理を運んでいる間は味噌汁の湯気に顔を炙られているものだから、しばらく気づかずにいたのだと思う。快適ではない気配の混ざり物は、しかしインクよりずっと微かで、私の鼻では輪郭を捉えられなかった。
二階の台所が母の縄張りであるように、一階の台所は祖母の縄張りだった。今でこそ祖父が自由に出入りしているけれど、私はそれまでほとんど足を踏み入れたことがなかった。
一階の台所は日陰側にあり、いつも気温が低かったから、季節によって林檎や蜜柑、玉葱や芋の貯蔵庫になっていて、奥の冷蔵庫に向かう時は少しだけ足元に注意が必要だった。
朝、祖父の昼食を冷蔵庫に入れる時、いつも少しなまぐさい臭いがした。我慢できないほどではないが気になった。
冷蔵庫の中身の臭いではなかった。流し台を覗き込んでも、三角コーナーが新品のままタワシ置き場にされていて、洗剤の匂いがするだけだった。冷蔵庫の先には使われていない勝手口があったが、安物のつっかけの他に目立つものはない。
「どうかしたか」
私がたびたび台所で立ち止まるので、祖父は不審に思ったらしい。居間から投げかけられた声に「なんでもない」と首を振って、私は二階に戻った。
その次の週末、二階で同じ臭いを嗅いだ。
「お父さん、バケツがいっぱいだからお願い」
母の声のする方に駆け寄ると、父が珍しく台所から出てくるところだった。
「蓋が閉まらんほどいっぱいにするなよなぁ」
聞こえない程度の愚痴をこぼす父の右手には、蓋付きの青いポリバケツがぶら下がっていた。
生ゴミバケツ。母が毎日生ゴミを溜め、いっぱいになると父が庭のコンポストに中身を捨てに行く。台所の一番奥が定位置で、私は絶対に触らないように言われていた。
幽霊の正体を見た気持ちになって、私は父の後を追うように階段を下りた。祖父は寝室で休んでいるようで、居間の電気は消えていた。
勝手口の手前、林檎の空き箱に隠れるように、それは鎮座していた。
半透明のポリバケツ。最近買い換えたのか、外側はつるりとして綺麗だった。薄らと透けた生ゴミの影は握り拳ふたつ分くらいだったように思う。祖父は生ゴミの出るような料理をほとんどしないので、当然といえば当然だった。
バケツに顔を近づけると、なまぐささが強くなる。腐った林檎の匂いもした。祖父が皮を剥いて捨てたのだろう。分かってしまえばあまりにも日常的な原因だった。
興味を失って立ち上がった瞬間、コツンと小さな音が聞こえた。小さな何かが壁を叩くような音だった。視線を落とすと、そこには半透明のポリバケツがあった。
ふと、中で何かが動いた気がして、私は身をかがめた。
「開けたらいかんよ」
静かな制止に従って、私は蓋に触れた手を離した。
振り返ると、台所の入り口に祖父が立っていた。ループタイの紐の長さが左右で少し違っているのが気になって、私は一瞬立ち竦んだ。
「ごめんなさい」
「かまわんよ。いつもありがとう」
いつもの背広姿で杖にもたれて、祖父は少しだけ表情を緩めたようだった。
一拍遅れて、祖父は私が食事を運んできたのだと誤認したことに気づいた。居間の時計は午後三時を指していた。
祖父が誤解に気づく前に立ち去らなければならないと思った。慌てて出ていく私を見送って、祖父の背中がゆっくりと居間へ飲み込まれていく。
祖父が弱っていく、という父の嘆きを思い出した。私の相手をするために立ち上がる回数は、確かに減っていた。
祖父から生気が揮発するにつれて、一階の匂いは変わっていった。
両親は何も言わなかった。家の中に消臭剤を増やしながら、変化のない日常の演技を続けたがった。無言の要求に従って、私も何も言わなかった。
必要最低限の干渉を拒絶したのは、あるいは祖父の意地だったのかもしれない。私が目にする祖父は、いつだってシャツを着て、ループタイをしていた。それこそ、自力で起き上がれなくなるまで。
祖父に食事を運ぶのは変わらず私の役目だった。朝食と昼食は冷蔵庫に入れることになっていた。生ゴミバケツの側を通るたび、はっきりと腐臭がした。
バケツの外側は相変わらずつるりとして綺麗で、生ゴミもほとんど増えてはいなかったが、中でうごめく気配は少しづつ強くなっていった。
「開けたらいかんよ」
私がバケツに近づこうとすると、祖父は決まってそう言った。
蓋を開けたら、何が起こるのだろう。尋ねようと顔を上げて、私はひどく久しぶりに、真正面から祖父と向き合った。
いつものシャツ。左右非対称なループタイ。生地が余るようになった背広。どれも大きな変化ではない。けれど、たくさんの小さなズレが折り重なって、祖父の存在に無視できない虫食いを作っていた。
ふと、微かな振動が鼓膜を叩いた。壁を叩くコツコツという音。バケツの中でうごめく何かが不意に恐ろしく感じられて、私は身を竦めた。
「ごめんなさい」
それ以来、食事を運んでバケツの側を通るたび、コツコツと内壁を叩く音が聞こえるようになった。日に日に音が増えていく気がした。
耳を澄まさなければ聞こえないその音の群れが本物なのか幻聴なのか、確かめる方が怖かった。
──プラスチックの蓋の下で、何かよくないものが育っている。
非現実的な妄想は、生ゴミバケツの側を通り過ぎるたびに具体的な質感を帯びていった。蓋を開けたら最後、取り返しのつかないことが起こるのだと思った。
早足で台所から出ていくようになった私に、祖父は安心したようだった。
「いつもありがとう」
夕食は祖父の前に配膳することになっていた。祖父からは生ゴミとは違う臭いがした。初めはツンと鼻をつくだけだった違和感は、今でははっきりとした糞尿の臭いに変わっていた。
私は祖父の臭いについて何も言わなかった。表情もなるべく変えないよう努力した。くさいという言葉は人を傷つけるのだと、学校で習ったからそうした。
私が気づくよりよりずっと前から、両親は祖父の変化を知っていたと思う。一階のトイレからは祖父と同じ臭いがした。トイレ掃除は父の仕事だった。
頑なに変わらない行動をもって、私たちは一階に透明な蓋をしていた。耳を澄ませば祖父の身体の内側からもコツコツと小さな音が聞こえてくる気がして、私はなるべく祖父に話しかけるよう努めた。
「今日はねえ、本家できゅうりをもらったんだよ」
「うん」
「私が切ったんだよ。お祖父ちゃんが食べられるように薄くしといたからね」
「うん」
祖父に聞こえていたかはわからない。私の言葉に穏やかに頷く姿は、何かを諦めているようにも見えた。益体のない会話で気を紛らわせながら、仕事部屋に私を招き入れた時の祖父の中身はどこに行ってしまったのだろうと思った。
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