遺香
千鳥すいほ
遺香_01
私が物心ついた頃、祖母は既に亡く、祖父は既に身体を悪くしていた。
当時から少しずつ生活に支障が出ていたようだが、祖父は頑として自分の縄張りを離れようとしなかったし、他人が踏み込むことも許さなかった。若い頃の怪我の後遺症で、気軽には階段を行き来できなかったせいもあるかもしれない。結果として最後まで、一階は祖父のもので、二階は私の両親のものだった。
私も基本的には両親とともに二階で生活したが、必要に迫られずともしばしば一階を訪れた。頻発する夫婦喧嘩や夏場の暑さに耐えかねたとき、階下のしんとした空気は好ましかった。
一階はいつも薄暗く、不思議と静かな匂いがした。鼻の奥が微かに苦くなるような、しかし不思議と心地よい匂いだった。
祖父が起きている間は居間に明かりが灯っていて、顔を出せばお菓子をもらえた。栗しぐれとか塩羊羹とかそういうやつだ。隣接する台所の棚の中、菓子盆に盛られたまま収納されたお菓子は、祖父の趣味ではなく祖母が残したものだった。正確には、祖母が残したものを祖父が律儀に買い足していたのだろう。母が買い足していたのなら、私のお気に入りのラムネ菓子が一度くらいは登場していたと思う。とはいえ、祖父がくれる栗しぐれや塩羊羹も他に食べる機会がなく、特別な感じがして好きだった。
父いわく、祖母が亡くなってから、祖父は自分で朝食を作るようになったらしい。餅を油で揚げて、砂糖をまぶしたのがお気に入りだった。そんな食べ方が許されるのかと、初めて見た時は仰天した。同じものを食べたくなって母にねだってみたこともあるが、案の定、露骨に嫌な顔をされて終わった。
祖父は誰に憚るでもなく毎日餅を揚げた。つまり、祖父は我が家で一番偉かった。
祖父はたぶん、私のことをそれなりに気に入っていたと思う。口数は多くなかったし、頭を撫でたり抱きしめたりもしなかったが、私が一階をうろついても滅多なことでは怒らなかった。両親の手の及ばない空間は、子供にとっては楽しい探検の場だった。
「おじいちゃん、ここって何の部屋?」
「おれの仕事部屋だ」
祖父はかつて印刷業を営んでいた。祖母を亡くしてからも細々と知人の年賀状を刷ったりしていたそうだが、私が幼い頃にやめてしまった。父が子供の頃は地元の集まりで使う小冊子の製本を手伝わされたと聞いたが、私にはピンと来なかった。
「中を見てみるか?」
私が興味を示したのに気を良くしてか、祖父は座椅子から立ち上がった。杖をついた足でゆっくりと私を追い越して、居間と仕事部屋を隔てる襖を開ける。
途端に流れ出した空気はずっしりと重く、むせ返るようなインクの匂いを孕んでいた。深く息を吸い込むと、鼻の奥がじんと苦くなった。
仕事部屋の明かりを点けて、祖父は私を手招いた。
「おれが村で最初に活版印刷を始めたんだ」
仕事部屋には外へ直結する大きな窓があり、壁にはびっしりと木製の棚が据え付けられていた。棚の中には見たことのない小さな部品が整然と並んでいた。
皺の寄った手が迷いなく棚を探り、部品を三つ取り出す。細長い金属製の活字。鈍い銀色の金属には、長年の使用によって黒いインクが染みついているように思えた。判子のような形の先端、同じ大きさに揃えられた小さな正方形に、どこか古めかしい輪郭の鏡文字がひとつずつ張り付いている。
みっつの活字を一列に並べて、祖父は尋ねた。
「なんて書いてあるかわかるか?」
まだ習っていない漢字もあったけれど、わからないはずがなかった。私の名前だった。意気揚々と読み上げると、祖父は満足げに笑って、私の手に活字を握らせた。
「おれはもう使わん。お前にやる」
仕事部屋を後にしても、私の身体には薄らとインクの匂いが纏わりついていた。一階の気配を引き連れながら、私は忍足で階段を登った。なんとなく、両親にはこの活字のことを秘密にしておきたかった。
子供の頃、私は宝箱を持っていた。母が買ってくれた、ピンク色の可愛らしい小物入れ。お祭で買ったおもちゃのネックレスとか、友達がくれたキラキラ光るキーホルダーをしまう場所だ。
宝箱に剥き出しの活字をいれようとして、思い直して丸い缶を取り出した。レトロで可愛らしい桜模様があしらわれた、拳大の缶。
かつて金平糖が入っていた容器は、祖父に買ってもらったものだった。
私が小学校に上がる前、今よりもう少し祖父が元気だったころ、一度だけ家族全員で京都に行ったことがあった。ひとつだけ好きなものを選んでいいと言われて、店先で何十分も悩んで決めた。私の長考に両親が呆れ返る中、祖父だけが笑って見守ってくれたのを覚えている。
丸い缶に活字を納めると、キンと硬い音がした。インクの匂いもしまっておけたら素敵だと思った。
金平糖の甘い残り香に、微かに苦いインクの匂いが混ざった。
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