第8話 エピローグ

柔らかな春のラスイスラス海が目の前に広がっていても、船で出てゆくことができない。

旗艦がヴァルドゥに着いてから既に2ヶ月経つ。 艦を揺り籠がわりに、乗組員を家族若しくはそれ以上の存在として育った彼に、在陸謹慎3ヶ月はかなりの試練であった。 特に海賊などの見回りに出て行く艦長達を日々陸から見送り続けるのは、辛い。 そのヴァルドゥの丘の上にある城と屋敷の中庭では、船に乗れないイオが、毎日クタクタになるまで自主訓練を受けていた。 勿論、ナギによるシゴキである。

「足下、ふらついてるぞ」

「俺は船酔いはしないが地上に居ると酔うんだ」

余裕でイオの足元を剣で払うナギに、悔し紛れに言い逃れする。 ヴァルドゥに帰ってから、よくゼノスがあの時、温室で言ったことが思い出される。 毎日ヘトヘトになるまで身体を動かしている最中、自問自答が止まらなくなってきている。 と言うより、止まらない自問自答を紛らわす為に、ぶっ倒れるまで動いている、と言う方が正しい。

 お味方は欲しくはない? あの国での味方の定義は? そもそも、彼処は俺が在るべき場所ではないと思う。 ではどこが在るべき場所で? それとも居たい場所で? 故郷のヴァルドゥでもないような気がする。 海? ここ数年、ずっと彷徨い続けて、在るべき場所を探すことに疲れているような気がする。 未だ見たことは無い何処か故郷を思わせる場所に帰りたい気分になる、これって逃げかな。 そうかも。 いつも逃げることを考えて生きてきたのかもしれない。 母の方針で、小さい時からほぼ船の上で育ったのも、いつでも逃げられるようにする為だし。 もし叔父上が王位を継いで、ヴァルドゥに攻めてきた時のため。 男として育てられたのも、何かあった時のジオの代わり。 男のふりももうすぐ難しくなるだろうし、かと言って女としての生き方をやり直すのは、絶対無理がある。 俺って俺からも逃げるのかな。 俺は本当に、弱い。心も、体も、弱い。

 倒れて、地面から身体を剥がそうともがいたが、腕の筋肉も限界で身体を支えきれずにまた地面に倒れ込みそうになる。 頭を打つと思った直前にふわりと身体が高く浮いた。 ナギが肩に担ぎ上げたのだ。 天地が反転し、緑一面に育つヒナゲシの若芽が目に飛び込んでくる。 まだ花をつけるには随分と早い。 ふと、その赤い花が一面に広がる頃はまだここに居るんだろうかと考えた。 ナギが歩き始め、担がれた身体と視界が揺れる。 まるで船みたいだ。

「吐くなよ」

ナギの軽口には応えなかった。 あの時、砦に現れたナギを見た瞬間、助けに来てくれた安堵感が先にきて、逆に彼にその場で殺されるかもしれない可能性なんて思いつきもしなかった。 自分の死神に依存心持ってたなんて、認めたくも無いけれど。

 ここ数年流した事のなかった涙が出て来た。 悔しいような、寂しいような、悲しいような、嬉しいような、絶望と希望を中途半端に混ぜた気持ちの、涙。 何故かは分からない。

中庭の四阿の作り出す日陰に降ろされ、ナギに見られたくなくて彼は腕で顔を隠した。

「少し休め」

水を取って来ると言って立ち去ろうとしたナギの腕を掴むと、何か言いたい事があるのかと察した彼はベンチの端に腰を下ろした。 沈黙が暫くの間続いたが寡黙なナギに勝てる分けもなく、今、言わなければいけないと思った言葉を紡いでいく。

「ナギ、待たせてすまない。でもそろそろ終わらせないと。お前にどこか帰る場所があるうちに。俺はこれ以上あんまり強くもならないし」

ナギは聞かれた事には答えずに、イオの巻毛をかき回した。

「陸に長く上がらざるを得なくて、お前は気弱になってるんだよ」

イオの目は四阿の窓の外の空を見たまま、ナギの大きな手がするりとイオの首を撫で、そこで止まる。 軽く抑えられた指の下で、イオの首の付け根が温かく脈打つのを感じる。 細い首だ。 力を入れれば直ぐにも折れるだろう。 イオは構わず話し続ける。

「お前の兄弟には悪いが、戦を始めたのも攻めてきたのもお前の国で、ヴァルドゥが守りに回って殺した兵の数を数え出したらキリがない。 一隻の軍艦に何人乗っているか知っているか?」

ナギは無言のままだ。

「トゥガリアの艦隊が来ると知らせがあって、あの日、東のルドラ海峡で待ち伏せした。 あそこら辺はヴァルドゥの船乗りには庭みたいなものだから。 廃棄前の古い艦を囮にして、海流の荒い岩礁群の中で立ち往生させて。 ゴミみたいな船を、あいつらが必死に左舷から砲撃してる間に、小型船を大量に寄せて船首と船尾側から集中砲火してやった。 そして他の大型船からカタパルトでかけた油に火を放って、半日もかからないうちに、トゥガリアの大型艦は全隻沈めた。 白兵戦をするまでもなく、残りの小型艦は潰しかけのまま退却するのを放っておいたけれど、国に帰り着く前にどっかの海賊に食われただろう。 お前の兄弟はその中の何処かだ」

そのままナギの手はゆっくりイオの頬を撫で上げ、指の背が額をなぞりベッドに広がった髪を撫で下ろす。

「その後、ヴァルドゥの風神の名は、俺の国では悪魔の代名詞だったが」

「期待外れですまないな」

「そう言う評判は、遠くへ行くほど尾鰭が付いて行くものだ」

ナギは微かに笑い、続ける。

「トゥガリアでの噂では、お前はカリン公並みのデカいジジイで歴戦の猛将だ。 初めに出会った時にお前を殺す気は何処かに失せてしまったのかもしれない」

ナギの指がイオの額をポンと軽く叩く。

自分の涙の味がして、まだ泣いていた事に気がついた。 嬉しいのか悲しいのか全ての感情が入り混じったかの様な、不思議な感情が湧いてくる。 そして、あまり意味もなく自分に課して来たものからの解放感で、妙に気分が軽くなった。 いや、まだ全然解放されてはいないけれど、どうにもならないことはどうしようもない。 四阿の天井を見上げながら外で横になっていると余計に重力を感じる気がする。 此の地に引かれる、力。 調子が良くなってきたのか、表情が和らいできたイオを見て、ナギはゼノスの別れ際の意味不明な言葉を思い出す。 ふと笑みがもれた。

「お前、良い友達持ってるな」

きょとんとした顔をしたイオだが、すぐに意味を察し、

「ゼノスの事? お前もな」

彼は俺の友達ではないとナギは思ったが口には出さなかった。 否定したくなかったのかもしれない。 口を閉ざしたナギに向かって、唐突にイオが言った。

「ここに居るつもりなら、俺がアキタニアに居場所を作るように、お前もヴァルドゥに居場所を作るんだ」

ゼノスはこんなにも正しい。俺たちは本当に似た者同士だ。


 春一番に王都から帰ってきた艦が、思わぬ来客を運んできた。 ゼノスである。 海路交易に参加できる余地はあるのか、打診したいとの申し出に、ジオがヴァルドゥにいる筈の専門家への紹介状を出したのだ。 船から見る海岸線が延々と続く切り立った山並みから急に開け、視界いっぱいに、山を背負った巨大な都市が広がった。 地元で産出する薔薇色の掛かった大理石をふんだんに使った街並は遠目に海に浮かんだ巨大な薔薇の花束のようだ。 三方を海に囲まれた、僅かな平野と丘陵いっぱいに建物が所狭しと詰まっている。 春が一番よと言ったリリアの言葉通り、あちこちに植えられた街路樹のアーモンドの花が白雪のように街並みを飾っている。 誰だ、ヴァルドゥを田舎と呼んでいた奴らは?

春まだ冷たい潮風が、ここにいる筈の友人を思い出させる。 友人? 友人扱いしてもらえるだろうか? とりあえず妙な友情と信頼はあると思いたい。 会ってなんて言おう? 気持ちの整理が付かない。 言葉による定義は出づれ追いついてくるだろうとゼノスはいつも通り、楽観的に考える。 ある晴れた、初夏を思わせるような乾いた風が吹く春の日に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

船出1The First Voyage @Myzca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ