第4話 王城にて

ジオ兄上とリリア

 新王ジオは彼の父の方針を受け継いで専ら穏健派で知られる。 とは言っても、代替わりから2年、先王の宰相と共にまだ手探り状態でそれまであったものをとりあえず継承しているに過ぎない。 何か新しいことを始めるにしても、周りの者との合意を得なければ始まらないし、合意を得るためには、良い関係が不可欠である。 小さい頃は病弱だったという面影は、やや残る線の細さからも見て取れるが、黒々とした大きく力強い瞳と顎の線が彼の内面的な強さを物語り、実際、この2年で宮廷内での存在感を確立させつつある。 そして弟とは違い、年齢に不釣り合いな程の落ち着きがあった。 南部人にしては高めの身長は同じだが、この兄弟は内面も外面も全く似ているところは無い。 彼は本日は午後から各騎士団の御前試合を観戦する予定で、出来れば今日にでも帰ってくる筈の弟と一緒に見たいと思っていた。 御前試合は様式が決まっているうえ、勝敗も身分や経歴によって前もって決まっていることが多いので、一人で見続けるには単調で辛いと言うのが本音かもしれない。

 近衛騎士団団長である叔父や騎士団に所属する従兄弟も観覧席にいる予定だが、内部者の自画自賛な解説を真横からの実況中継で延々と聞き続けるのも辛いものがある。 彼は弟が到着したとの伝令を受け、久しぶりに彼の顔を見るために用事を高速で片付けて、執務室から出てきた。帰って来たと言うことは、王城内の彼の自室だろうかと歩き始める。


 その王弟の居住棟では、用が無い限り都に寄り付かないイオのために、王の女官長を務めるレディ・リリア・ディララが配下の女官達にイオの荷解きを指示をしている。 リリアの母であるマルデイラ伯夫人が皇太后の王妃時代の女官長をしていた事もあり、若い年齢にも関わらず重責のある立場を任され、此処とヴァルドゥを繋ぐ係りとなっている。 正式にはマルデイラ伯爵令嬢、王と王弟の幼馴染であり、何でも打ち明けられる力強い協力者でもある。彼女の勝気な鳶色の瞳が来訪者に向けて大きく見開かれる。 

「イオ!」

「リリ、久しぶり」

 小さい時からの互いの愛称で挨拶代わりに肩を抱き合うと、リリアはイオの目元をつついた。 腫れは引いているが、青痣が……痛々しい、と言うより凄みを醸し出している。

「ちょっと、これって。誰がやったの?!」

 イオが沈黙で応えると、彼女はイオの背後に視線を流した。

「貴方よね、死神。此処から今すぐに出てお行きなさい」

 小柄だが果敢な令嬢は、信じられないといった顔をして、扇でピシピシとナギの腹を叩く。それを気にする様子もなくナギは部屋を横切り、窓から外、つまり彼の緊急通路の確認しに行った。

「どっちにしろ、追い出しても直ぐ勝手に戻って来るんだから、無駄」と、イオ。

「貴方は良いの?」

「寧ろ他の暗殺者は此奴が始末してくれるから、安心だろ?」

「貴方達のお互いの気に入り方がひどく気に入らないのだけど、私は当事者じゃ無いから、仕方が無いわね。死神の船医なんて笑えない冗談よ」

「ピッタリだろう、此奴は生かすのも殺すのも得意だから」

 と、面白がる様な口調で、イオ。

 彼女は閉じたままの扇で口元を隠し、上目遣いに心配そうな溜息をついた。 言うだけ無駄よね、と言わんばかりに大きな瞳をゆっくりと瞬かせると、そのたっぷりとした黒い睫毛が目元に陰をつける。 そして数歩離れて彼の方を見上げた時には、いつもの冷静さを取り戻していた。

「貴方方の服も以前と同じサイズのままで出来上がって来ているから、新年謁見用と夜会用だけは試着して下さいませ」

 そして、突き放した冷たい声音で背後にいるであろうナギに、

「そこの後ろのお前もね」

 その後、試着と聞いて嫌そうな顔をするイオに向かって社交的な笑顔で向き直る。

「あら、夜会で一曲は私と踊って下さるでしょう?」

「貴女の社交界での評判に関わるが、御令嬢」

 イオが胸に手を当て、悪戯っぽく仰々しいお辞儀をして見せる。

「名誉な事でございます。王弟殿下と踊れる程の強心臓の令嬢はこの宮廷には居りませんもの」

 強気の発言に反して、彼女の瞳が一瞬、悲しげに揺れて、肩越しにイオの後方を見る。 イオが振り返ると、たった今、部屋に着いたジオが開いたままのドアから室内に入って来る姿があった。 リリアは、ジオとは踊れない。 多分、二人が踊ることは永遠に無いだろう。立場上、ジオはこの国の、有力な中庸派の家の娘を選ぶのが最善だからだ。 何か言いたいイオだったが、リリアの心中を思って言葉を飲み込む。

「ジオ兄上!」

 駆け出したそのままの勢いで、イオは両腕を広げた兄に子供の様に飛び付いた。

「病気の話は聞かないけど、体調は?」

「こっちの乾燥した気候が合ってるのか、全然病気知らずなんだよ」

 兄も弟の顔に複雑な、何か言いたそうな顔をする。 やはり視線の行き着く先はナギだった。 視線で抗議する兄王に向かって、ナギも無言のまま視線だけで挨拶する。 本当に、目だけで、だ。

「ところでダーショア侯と一緒に来たって?いつの間に仲良くなったんだ?」

「北からの帰りに補給に立ち寄った。あそこの林檎酒は絶品だね」

「そう言えば、先代ダーショア侯は叔父上の友人な筈だよ」

「うわ、苦手な人種かも」

 片付けの指示を続けるリリアを後に、二人は宮中の人間関係について話しながら、御前試合の会場である中庭へと向かう。


 騎馬試合も騎士団員の模範剣技も横目に、ジオは久しぶりに会った弟の横顔を見た。 幼い頃に一緒にヴァルドゥで船に乗った記憶が蘇る。 弟は、格式と様式にまみれた面倒臭い宮廷から距離を置けるのは兄の采配のお陰だと言うが、自分が虚弱だった為に彼には随分と辛いところを肩代わりして貰っている。 内政が落ち着くまでだとは思ってはいるが。 弟の瞳は熱心に中庭の試合を見ていた。 基本は軍人だからか、意外と楽しんでいる様子である。弟の反対側に目をやると、先王弟である叔父と目が合った。 何か言いたげな目で見て来る。 後で話でもあるのだろうか。最近は何も表だった動きは無いものの、叔父上の交友関係は侮れない。 彼が権力をとったらヴァルドゥは自治権取り上げられるのが目に見えているから、今暫くは弟と共に綱渡りの生活を続けるほかない。 彼ら兄弟は運命共同体、お互いなしではこの国で生き抜けない。 ジオ独りだとさっさと暗殺されていた筈で、それは母国ヴァルドゥの滅亡を意味した。 ふと、先の王妃の息子である第一王子の謎の死がジオの脳裏を過ぎる。


オランジェリー

 年末の宮廷は慌ただしい。 王城の外庭の片隅に、皇太后が王妃時代にここに住んでいた時に作らせたガラス張りの温室がある。 故郷ヴァルドゥ周辺の植物を集めた、見事なコレクションだが南国を見下す文化圏だけあって、ここには普段、世話人以外が来ることはない。 外は冬なのに、此処には甘い花と湿った土の香りが漂うが、皇太后の故郷のオレンジの花の季節にはまだ早かった。 中央には傾斜を利用した階段状の噴水が流れていて、何処からか入り込んだのか、住み着いた鳥の鳴声が時々聞こえる。 ガラス張りの天井の向こうに、灰色の冷たい冬の空が広がっている。 自室に居てはひっきりなしに『用もないのに』来る訪問者の相手をしなくてはいけないので、此処は、面倒な時や一人になりたい時のイオの城内での隠れ場所だ。 どこかに以前置き忘れた本がまだあるかも知れないな、などと考えて、イオは懐かしいお気に入りの大木の下に腰を下ろし、手元にある本を開いた。 数ページ読んだ所で、近づく足音に顔を上げる。ゼノスの姿に、眼を丸くした。

「卿、意外な所でお会いするな」

「お一人ですか?城内で?」

「城内で一人になりたいから此処にいるんだよ」

「それは失礼しました」

 詫びる言葉と裏腹に、ゼノスはイオの近くに座った。話があるのかと手にあった本を閉じる。 柔らかい物腰で一見大人しそうに見えるが、こいつ結構、押しが強いな、と思う反面、嫌な感じは全くさせない。

「会議に向かう所なのですが」

「私もだよ」

 サボりたかったのに、何故か、同意した途端サボれなくなってしまった気がする。 会議というのは年末年始に伺候に訪れた主立った領主が一堂に揃って、法政面、経済面、財政面、軍事面等で国全体としての中の領主間のバランスを取る為に開かれる議会の様なもので、ジオがここ2年間舵取りをしている荒波であった。 会議まで、まだ半時ほどある。 沈黙の後、ああ、と思いついた様に口を開いたのはイオの方だった。

「北方の守りについては兄上と早急に協議した方が良い。 山の北側は海賊山賊天国だからな。 海沿いの交易より、北方の毛皮商と交易ルートか、南方経由で東に抜けるルート開拓をした方が安全だろう」

「殿下のからのお口添えを頂けますか?」

「会議後なら良いが。……あまり私と一緒にいる所を見られない方が良い」

「殿下は何方の派閥にも属していないと存じますが」

 こいつ意外に食い付くな、と驚きながら、ゼノスの、彼の故郷の海を彷彿とさせる深い青色の瞳を見返す。特に警戒する様子もない。

「…というよりは、兄上派」

 と、訂正する。

「では、王の為にもお味方を増やされるべきかと」

 さらりとゼノスは本題に入った。 陸ではイオの分が悪いのは明らかであった。 宮廷の権謀術にかけては俺はコドモだ、と認めても怒りや悲しさは湧いてこなかった。 いずれにせよ避け続けていられる世界でもない。

「過度の興味は破滅の元。殿下が派閥争いに興味ないうえ、先王弟が殿下を取り込もうとしている故に他からも距離を置いているのは存じております。…内乱は避けたいですし。でもあまりお一人でいらっしゃるのも、不要な敵を作るだけかと」

 若い年齢と穏やかな外見に似合わず、ゼノスはなかなかのやり手なのだ。 先代から続いて、超保守派とも絶妙な距離感の親交がある。

「同感だな」

 もっと宮廷での存在感を。 もっとジオを助ける為に。 そしてヴァルドゥの未来の為に。


 会議室に入った途端、主だったジオ兄王の閣僚と領主たちを無表情のまま一瞥し、兄王の隣に腰をかけると、向かい側に叔父、その隣にあまり関係の宜しくない従兄弟のナルドが見える。 同時に入室したゼノスことダーショア侯がナルドの隣の席に座る。 なかなか上出来なセッティングだ。 壮観。 請われるままざっと海岸線の守備状況を説明すると、話題は北部沿岸部での海賊行為とそれによる税金の減少と流れていった。 国庫には予定より税金が入ってこないのは守備力の弱さのせいで、海軍の王弟が予算の無駄使いをしている分を補填すべきだと叔父ことカリン公が詰めてくる。 この国には海軍らしい海軍がない。 ここは陸と山の国なのだ。 対海賊用に、各沿岸領主毎に艦隊が立ち寄れる港と砦が必要だと提案する。 必要な守備範囲を数隻ではカバーしきれ無いし、ここにあるのは私の私用艦のみなので、ではヴァルドゥにある私の主だった艦隊をこちらに動かしましょうか、と半ば喧嘩腰の提案をしてみる。 部屋の面々ににざっと不安と緊張感がが走るのが分かる。 あーあー、視界の片隅でゼノスが何か言いたそうな目でこっち見てる。無視を決め込んで沈黙すると、ジオが取りなした。

「不安を煽ってどうする。南部自治領からの艦隊が本国海沿い囲むと国内の不安感が増すだけだろう。南部が空っぽになるのも困る。とりあえず北部から大きな港を作る案はどう思う?」


 一方で、会議中であったが、ゼノスは先刻の温室内での会話を頭の中で反芻していた。 宮廷での交友関係を改善するというような殊勝なことを、まがりなりにも婉曲的に言った王弟は、向かい側の席で椅子の背にダラシなくもたれ、脚を組み、胸ポケットから取り出した葉巻の香りを楽しみながら指で玩んでいる。 如何にも退屈で聞いていませんといった感じがありありで、態度も行儀もすこぶる悪い。 短時間で終わる業務連絡みたいな会議とはいえ、彼の態度の悪さはワザとやっているのだろうかとゼノスは疑問に思う。

 会議というのは始まりだけで、議題が終わると年始の宴会になった。 有力領主の関心事の一つはジオの未来のお妃候補についてで、国内外から年頃の令嬢情報を集めているらしいかった。 新年の挨拶で伺行中の方々も、娘同伴が多いのはそういう理由らしい。 早くも後継問題かと思う反面、まあ、兄上の後継について話が進むのはいいことだよね、とりあえずみんな認めてくれて、ジオの統治下での将来を考える方向だから、と納得する。 誰ともなしに、春の社交シーズンを都で盛大にやるという話が持ち上がった。 ほのぼのと笑顔で同意しているイオに、普段から顔を合わせる毎に喧嘩腰になる従兄弟が、お前のようなコドモにはまだ早い話だが、と言ってきた。 どうやら嫌味らしい。

「そうですね、そう言ったお話なら従兄弟殿の方が先でしょう? いや、直ぐにでも結婚式と伺いましたが?」

 噂で、従兄弟が火遊びした相手の令嬢の親と揉めているのを知っているので、笑顔で返す。

 一瞬怒りで真っ赤になった従兄弟に向かって余裕の笑みで、トドメをさす。

「違いましたか? 失礼、船の上が長いと世間に疎くなりまして」

 苦虫を噛み潰したような顔で無言のカリン公とその息子を後に、イオは部屋を出た。 味方を作りたかったのに。 また喧嘩腰になってしまったと少し後悔しながら。


 部屋を出たイオとは別に、カリン公はジオに近づいた。 もう少し王と親しくなっておかねばなるまい。 今ひとつ頼りない息子はいい齢にも関わらず、感情のコントロールも出来ていない。 何とかコネで騎士団のポストにつけたけど、元来、息子は軍人に向いているタイプでは無いし、剣も最低限しか使えない。 あの煩い甥っ子を王の周りからどかす術はないか、と考える。あの、口の減らないガキ。 苛立ちを感じる反面、でも若い時の自分に似ている部分もあって、さすが私の甥だけあるとも思う。 赤毛の巻毛が彼の兄、先王を彷彿とさせる。 提督が顔面青痣で新年の謁見に来るとか、自分も昔やったものだ。自分の若かりし頃を懐かしく思い出して微笑ましくなる。 それは、追憶のヤンチャ時代。 ジオがにこやかに叔父に対応する。

「叔父上、従兄弟どの、先程は弟が失礼を申し上げた。」

 カリン公も和やかに返す。

「先程の話といえば、妻の親戚に南部育ちの令嬢がいるので、今度女官に推薦させて頂きたい。南部育ちでバルドゥに滞在経験あり、陛下とも話も合うことでしょう。」

 女官は貴族の令嬢にとって、王宮での行儀見習いの他に、王を含む高位の男性の目に留まる選ばれた名家の令嬢にしか機会が与えられない垂涎のポジションである。見え見えの手口でお后候補を売り込んでくる。

「そういう話は、女官長が承るので、そちらに」

 興味無しと言わんばかりにバッサリと、ジオは事務的に素っ気なく答えた。


 謹賀新年の夜会

「ちゃんと用意した物を着てるでしょうね? 変に着崩さないで」

 到着したリリアの声がイオの私室に響く。 いつも人払いされていて誰も使用人の居ない王弟の私室に先に遣わされた彼女の私用侍女が、イオの夜会のための着替えの手伝いをしているはずなのだ。 入室したリリアが見たものは、既にさっさと自分で着替えを終えてリラックス体勢で本を読んでいるイオと、侍女が着替えを手伝っているナギの姿であった。 手伝われ慣れた様子から、こちらの方が余程貴族に見え、こういう行動の端々から、この男が実は良い階級の出自であることが垣間見れる。 この王城で、彼の所作も作法も息をする程自然に周囲に馴染んでいるのだ。 一体どこから来てどういう理由で彼はイオの死神になったのだろうとリリアは時々、怖くなる。 そしてそれに取り憑かせておくイオに時々、苛立ちと共に悲しみに似た切なさを感じる。

 夜会は既に始まっていた。 イオが遅れたのは、ゼノスに捕まって忠告という名の説教を喰らっていたからである。

「会議での殿下の態度。 僭越ですが、兄陛下は貴方の口を縫い付けるべきです。 貴方の従兄弟殿は陸軍に強い影響力を持っておられるというのに」

 ゼノスの忠告痛み入る。 返す言葉もない。つくづく、良いやつである。

 そして王である兄は一体誰と夜会開始の一曲を踊ったのだろうかと考える。 小声で話す2人にリリアが歩み寄り、流れる様に優雅なお辞儀をした。 彼女の動きに沿って、白いオレンジの花の香りがふわりと漂う。 この日のために誂えたドレスはクリーム色、シルクタフタの光沢にライトが当たって淡い金色に見える。 ドレス生地に刺繍された繊細な花柄を際立たせる為であろう、ドレスのラインはシンプルに抑えられており、逆に王都の一流職人の技量を窺わせた。 結い上げた艶のある黒髪に真珠の髪飾りをつけ、多めに取った後れ毛をきれいに一つに巻いてうなじからデコルテへと流している。 シルクの手袋が鈍く光を反射し、彼女の清楚な美しさを絶妙なバランスで表している。 文句なしに、美しい。 マルデイラ伯夫妻は欠席しているので、幼馴染のよしみでジオとイオがリリアの保護者役を買ってでる。

「リリ、此方はダーショア侯。卿、此方はマルデイラ伯令嬢」

 紹介ついでに、そして小言の主の厄介払いとばかりに、リリアの手をゼノスに渡す。

「先にまず彼女と一曲踊ってやってくれないか?」

 ゼノスは彼女の手を取り、お辞儀をした。広間の中央部へ出た二人が何か話しながら踊り始めるのを眺めて、ふと、イオはこれは叔父上カリン公には面白くない組み合わせだぞ、と気が付いた。 そのまま視線を動かせば、広間の正面で、ジオが踊る二人を目で追っているのが目に入る。 普段は完璧にコントロールされている冷静沈着な筈の、兄の表情、兄の視線、の筈が。 ゆったりとした曲の調べに乗って、優雅に踊るリリアの華奢な肩のラインが可憐だ。 流行りのステップでゼノスが彼女の細いウエストに手をやり、その肩越しに視線を合わせたまま、彼女の手を取りターンさせる。

 絵になる2人は周囲の羨望を独占したまま踊り終えた。 曲が終わるのを待ってリリアに一礼しているゼノスからイオはリリアの手を取り、再び彼女を広間の中央へと連れ出した。兄王に見せびらかす様に何度もリリアを大きくターンさせ、いつもは余裕ある兄の珍しい嫉妬の眼差しを愉しんだ。 彼女が兄の気持ちに気付いている様子は無いようだ。

「ゼノスの事、どう思う?」

 彼女のゼノスに対する評価は如何だろうか。

「貴方にしては貴重な、良いお友達ね。大切にしないと」

 華のある笑顔でリリアが返す。

「此処には友達は居ないからね」

「あら、それならカリン公夫人のシエナ様のサロンに招待されているのだけど、招待をお受けしてみたら? 新しいお友達ができるように」

 意外な方向に会話が展開してたが、リリアはさも当然とばかりに一緒にいきましょうね、と念を押した。 美しく社交的な彼女は踊り終わるのを待たず、直ぐ次のダンスを申し込まれている。 彼女には宮廷社交会を泳ぎ切る技量がある。 叔父たちの一派とも交流があるらしい。 見習うべき事だと思う。こちらときたら、喧嘩ごしだし、ガキだし、人を寄せ付けないし、王弟といっても、取り巻きが死神だけでは。 やはり、ゼノスは正しいようだ。


戦争叙事詩バラッドを歌うローナン

 イオとリリアはナギを連れて、王都にあるカリン公の私邸へと向かっていた。 叔父上ことカリン公の妻、シエナは音楽や美術に造詣が深く、毎年新年に歌劇歌手を招いてサロンで小さなコンサートを催すのがここ数年の恒例行事になっている。 彼女のサロンの常連であるリリアに誘われて、イオは珍しく招待を受けることにしたのだ。 リリアのの豊かな対人スキルに乗せてもらった感がある。

 今年は昨今の有名人気歌劇歌手、ローナンが招かれていた。 人間の性別すらも超えた神の声と評判のローナンは、マネージャーである姉のサビーネの辣腕もあって諸国の大劇場はもとより宮廷でも引っ張りだこで、最近は東の国、エスティニアの王の賓客として彼の国の宮廷で暮らしているらしい。 東のゆったりと長いドレープの入った衣装を着たローナンは、まるでどこかの神話から抜け出てきたかのようだ。

 シエナの応接間には既に伴奏用のチェンバロとヴァイオリンとハープが用意されている。 歌の前に簡単にサロンで招待客に紹介されたローナンは、目の前にいる伝説の英雄に喜びを爆発させた。

「如何にも猛々しい方かと思っていれば、この様なお可愛らしい方だとは!」

 イオの手を取り、恭しく口づけする。

「ルドラ海戦の英雄、 エスティニアでも有名なヴァルドゥの風神、ラスイスラス海の守り、罪な方だ、こんな名曲の源でいらっしゃる」

 ローナンは伴奏者に指示した後、戦争叙事詩バラッド、ルドラの悲恋を歌い始めた。 数年前にヴァルドゥ沖のルドラ海峡で、イオの率いる艦隊が遠北トゥガリアから攻めてきた艦隊を迎撃し、ヴァルドゥに限らずこの近辺の国々を救ったと言われる戦いにまつわる歌である。


 北国の恋人は 神も嫉妬する 仲睦まじさ 

 瞳に映るのは 貴女だけ 約束を

 ミルクの肌 血の如き紅き唇 口づけを

 ある日戦が 男は恋人に 別れを告げ

 貴女の元へ すぐ戻ると 船に乗り

 風に乗り 波間に揺られ いく星夜

 哀れ 男は知らず 彼が運命

 哀れ 女は浜で 待ち続け


 ヴァイオリンの悲しげな旋律が繰り返される。 ハープの音は波か女の涙か。 観客の背後で部屋の片隅に控えていたナギが突然部屋を出て行くのが見えた。 一瞬、感情を隠した視線に殺気を感じ、凍りついたイオにリリアが気づいた。

「ナギったら途中でどこに行ってしまったの?」

 答えは知らない。曲の途中であったがイオはおもむろに拍手をして立ち上がり、楽曲を中止させた。

「途中で大変申し訳無いが、新年にしては物悲し過ぎるし、御婦人方には退屈された顔が多く見受けられる。何か他の、甘いロマンセか明るい歌劇をお願いしたい」

 貴族の気まぐれには慣れたもので、サビーネは奏者に合図を送り、歌手は流行りの歌劇からのコミカルな歌曲を歌い始める。 聴衆の楽しそうな笑い声が部屋の外に漏れる。 演奏者の陰でサビーネがサロンの客の一挙一同を静かに見ていた。 シエナ夫人に近づき、世間話から始まり、言葉巧みに王族のサロンで歌えるように紹介して貰えないかと交渉を始める。 それきり、ナギは暫く姿を見せなかった。

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