第3話 船旅
「イオ! アーホイ(乗艦)!」
「諸君、客人を宜しく頼む」
ゼノス達が乗艦して
「彼が旗艦長こと、『親父』だ。 船についてなら彼に訊くと良い」
素は強面の親父がニコニコと笑顔で挨拶する。 彼は背はそれ程高くは無いが、広い肩幅にがっしりとした脚、ごま塩の短髪に日に焼けた肌の持ち主で、ゼノスの知る王都の軍人のイメージからは程遠いが、彼は流暢に国語であるアキタニア語を話した。 乗組員の中では一応最低限のマナーも心得ている方なのだろう。
甲板での乗組員らのやり取りを見ながら、ゼノスの思索は広がる。 そろそろ年頃の妹をいつ頃デビュッタントとして都へ連れて行くべきか、いや適当に良さそうな相手を見繕ってから春の社交シーズンにでも改めて連れて行くべきか。 うちの領地は豊かだし、領民の暮らしも安定しているので他領からの評判も良いし、良い持参金をつけてやれるし、相手を見つける事は難しくないだろう。いや、私自身の相手も見つけなくてはいけないのかな? この微妙な時期に? 王が代替わりしてからこの2年、新王、新王弟、先王の弟公と諸侯の立ち位置もお互い腹の探り合いが続いている。 超保守派の先王の弟、陸将であるカリン公は王位に就くつもりで保守派諸侯の支持を取り付けていたらしいが、思惑通りにならなかったまま現在に至る。 その後、若い上に半異国者の新王を傀儡にしようとしているようだが、未だ成功したとの話は聞かない。
そう言った
急遽設えたゼノス達の客間は、元々イオの私室らしかった。彼自身は旗艦執務室に
艦内は
ハルトに
冬の夕暮れは早い。出港から間もなく簡単な夕餉が出される頃には薄暗い空には星が瞬き始めていた。 水面が彼方で夜の闇と溶け合う。 就寝の
その真下の旗艦執務室、その中央には円卓と椅子が置かれ、広げたままの海図が文鎮で抑えられている。 重厚な趣味の家具は部屋の端に寄せられ、その部屋に全くそぐわないイオの私物の入った葛籠が一時凌ぎ的に床に重ねてある。 部屋に染み付いた葉巻の重く甘い香りが漂う。 室内の灯りはとうに消され、薄いカーテン越しに月明かりが船の揺れに合わせて室内を浮かび上がらせる。
波の音とリズムを取るように、規則正しい寝息が聞こえる。 壁の間の柱と天井から下げられたハンモックの上の毛布から四方にはみ出した巻毛の一房を、気配を消した侵入者がゆっくりと持ち上げると、その下から眠っているイオのそばかすの散った目元がのぞいた。寝惚けたままにピクリと半目だけ開けて、侵入者の方を見る。 警戒感のカケラも無い寝起きの声は更に掠れてガサガサと響いた。
「……殺しに来たのか?」
「いや、まだだ。お前が生きているのを確認に来た」
「悪趣味だな。さっさと寝ろ、死神」
体勢も変えないまま侵入者の手を払うと、巻毛は元通りにパサリと彼の目元に落ちた。死神と呼ばれた侵入者はゆっくりと身を屈め、大きく一息ついた後再び眠りに戻りつつあるイオの耳に低く甘い声でゆっくりと噛んで聞かせるように囁いた。
「お前は、俺の、獲物だ」
屈んだ侵入者を一瞬、月の光が照らす。 死神と呼ばれたのは、船医だった。
殺気を立てることも無く、全ての感情が消えたような表情を浮かべて、彼は再び寝息をたて始めた相手の無防備な喉笛が冷たい夜の闇に浮き上がる様を暫く見つめた後、気配を消したままするりと音も無く部屋を出て行った。
就寝が早かったこともあり、翌朝は早くに目が覚めた。 ゼノスが着れるだけ着込んで朝焼けの空を見ようと甲板に出ると、マストの上から見張りの水兵が此方へ向かって手を振るのが見えた。思わず手を振り返す。 朝焼けで白々とした空と共に東の陸地が朝陽の色に染まり始める。逆の水平線側は未だに暗く、静かな星空が夜の名残を惜しむかのように広がっている。船から見る朝が初めてでもの珍しく、ゼノスはそのまま、船室の外を見て過ごし、やがて陽が登る頃には甲板で乗組員が働き始めるのが見えた。 どうやらゼノスは二度寝をする機会を逃したらしい。 乗組員たちは皆気さくで、片言ながらも客人の船酔いを心配してくれているのが分かる。 沖合をゆけば強風を捉えてもっと早く進む事も可能であろうに、この船では客人の船酔いの心配が最優先の徹底事項らしく、ゼノスがまず初めに学んだヴァルドゥ語は、『大丈夫(トゥデュベン)』だった。ハルトが起き出す頃には温かい朝食が運ばれて来た。 暫くして旗艦長がコーヒーの追加を持って来る。
「今日の予定で何かご希望は?」
「艦内の見学をしたいのですが、案内して頂けますか」
「勿論です」
親父が朝の業務が片付いたら呼びに来ると言って笑顔で
「それまで甲板を歩くのは構わないが、手すりから身を乗り出さぬように」
まるで子供への注意事項のような事を言われ、冗談だろうと彼を見ると、目が笑っている。
「お客人には
「お陰様で、今のところ、酷く気分が悪くなる程の船酔いもありません」
「多分、普段乗馬と馬車で鍛えていらっしゃるからであろう」
昨日、艦長から聞いた、船酔い用禁止事項をおさらいして見せる。
「ええと、遠くの景色を見る、本など手元に集中しない、リラックスして揺れに身体を任せる、睡眠をたっぷり取るでしたよね」
そして禁止事項には含まれていないとばかりに、ゼノスは部屋の隅の楽器に視線を移す。
「ところで、見たことのない物ですが、あれはヴァルドゥの楽器ですか」
「丸いのはヴァルドゥのだけど、もう一つのはずっと北の方のもので ーああ、後でナギ、に弾くよう頼んでみましょう。 彼以上の弾き手は此処には居ないから」
ナギと呼ばれたのは先日の船医で、この船の医務室に居るはずだと言った。 多分今日船内でも会う機会もあるだろう。 イオの口調から、彼が大陸の遠北部出身である事が窺える。 彼の薄い色素の瞳とかなり大きめの体躯は、成る程、大陸毛皮商人から聞いた北方人の特徴と一致する。 イオはヴァルドゥの物だと言った丸い方の楽器を手に取ると、その場で軽快な曲の一節を奏でて見せる。 弦が軽やかな明るい音を重ねて部屋中に響き渡った。
日も登りきり、水兵の朝の日常雑務が終える頃に旗艦長が訪れた。 艦内ツアーの始まりである。 ゼノス達が部屋の近くの甲板より先、そして下層に行くのはこれが初めてだった。 先ず一番下まで一気に降りて、戻りながら説明をしましょうと言って、旗艦長はゼノスとハルトを連れて狭い階段を降りてゆく。
倉庫、食糧庫、水夫部屋、士官部屋、艦長室、キッチン、武器庫、銃火器、並んだ大砲、そして医務室。 船長曰く、これはヴァルドゥの軍艦の中でも小型船で、機動力には優れている反面、最小限の設備しか搭載出来ない船なのだそうだ。 確かに、馬や兵を詰め込む場所は無さそうだ。 海岸線沿いに出没する小規模の海賊相手用で、何処かの国軍を相手にした戦争用ではないと言う意味であろうとゼノスは受け取る。 武器としては新しい銃があるのには驚いたが、使い勝手の悪さから未だ実用性は低く、海賊相手レベルには殆ど使用されることは無いらしい。 最後に甲板へと上がって来て、高座にある操舵室からの眺めを楽しんだ。 この船を真ん中にして、左右後方を他の4隻が行くのが見える。 そのまま視線を前に戻して甲板を見ると、水兵に紛れてイオが見えた。 指揮官然と船室に座っていること無く、他の乗組員と共によく動くところは遠目に見習士官を思わせる。 風になぶられた赤褐色の髪が、陽に透けて見える。 一見長閑だが、此処が戦場に早変わりする現実が信じられない。
「ところで、船に長くいると、人魚が泳ぐのが見られるという民話がありますよね」
ゼノスはふと昔何処かで聞いた伝説を思い出す。長期の航海が続くと、何処からともなく人魚が現れて船の周りを泳いでみせ、美しい歌声で船乗りを惑わすのだそうだ。 艦長は嬉しそうに笑って、それならもっと遠洋に行かないと、と片目をつぶって見せた。
それから数日間は慣れてきた事もあり、単調に、そして穏やかに過ぎていった。 乗組員の日常は三交代制で規則正しく行われたし、医務室の空き時間にやって来た無口な船医が祖国の楽器を弾いて見せたし、水兵から片言のヴァルドゥ語を習ったし、横に線上に続く崖と水平線の間に散らばる星の読み方も、用途によって違う綱の結び方も、古代からの船乗りの知恵も簡単なものは教えて貰ったし、日中にすれ違う商船から挨拶されたりもした。 ゼノスと共に幼い頃に剣術の師についたハルトは嬉しそうに水兵の訓練を見たりした。 勿論、陸の騎士と船上の水兵の剣は大きさも種類も違えば扱い方も随分違うのだが。しかも水兵の幾人かは、異国のものであろう見たこともない半月刀を使っている。
暇を持て余した感のあるハルトを船長が訓練に参加しないかと声をかける。 一応主人であるゼノスが行って良いよと手を振ったので、ハルトは水兵から差し出された剣を取って前に出た。 小手先調べの緩い剣戟は、ハルトが昔習った大体の型と動きを思い出した頃に段々と早くなった。 とは言え、現役兵士とレベルが違うのは歴然としているし、慣れない者が揺れる船上でバランスを取りながら剣を振るのは想像以上に難しい。 ハルトにしてみたら良い運動でも、兵士にしたら単なるお客様へのおもてなしの一環である。
和やかな空気が一変したのは、甲板にナギが姿を現した時だった。 彼は近くの水兵二人から剣を借りると、取れと言わんばかりに一つをイオの方へと差し出した。 妙な緊張感と気まずい雰囲気がその場に漂い、ふたりは無言で無表情のまま、剣を構えた。 他の水兵の時とは違って、歓声もヤジも無く、静まり返った甲板に鋭い金属音が響く。 何とも形容し難い苦い雰囲気で、周りの乗組員はふたりの周りを開けながら剣戟を見守っている。 ふたりの剣さばきは先程の訓練とは比べものにならないくらい早いうえ、イオの顔は真剣だった。 始めは身の軽さで優位に立っていたイオだが、何十分も続くにつれて、疲労とスタミナ切れが目に付くようになる。 この船医が大剣の使い手で、過去にかなりの実戦経験があることは見ていて明らかであった。 ナギはイオが倒れ込む直前で剣を止め、酸欠で震えるイオの手から剣が落ちても容赦なく引き摺り立たせる。 何度も剣を持ち直し繰り返し対峙するが、二人の差は歴然で、ナギの大剣を片手で振る体力にイオがついていける余裕は無い。
それは士官の訓練のレベルを超えていて、まるで公開処刑の様を呈していた。 大型猛獣が獲物を嬲って徐々に弱らせているかのようで、見ていて気持ちの良いものでは無かったが、止めようとする者は誰も居なかった。 とうとうイオが動けなくなると、二人は無言のまま視線を交わす。脚を甲板に投げ出し、背中をマストに預けたイオがまだ肩で息をしている反面、ナギは息も乱さずにそれを見下ろしている。 ナギが剣を船長に渡して何も言わずにそして手も貸さずにその場を去るのをイオは視線だけで追った。何だか見てはいけないものを見てしまった後味の悪さが残る。ゼノスは何か言う言葉を探した。
「相変わらず容赦も加減も無え奴だな」
操舵長は誰ともなしに吐き捨てるように言った。
「今日のは随分マシな方。いつもはゲロ吐いてぶっ倒れるまでやるから」と、艦長。
「いや、前回はゲロ吐いてぶっ倒れたイオ司令官を甲板から海に投げ落としてましたし」と、水夫長。
信じられないと言う顔をするゼノスに、艦長は付け足した。
「この艦であそこまでやるのは、あの二人だけ。 実際、司令官のイオ自身が彼を側に置いて勝手にさせてるから、気にしないように」
ふらふらだがようやく歩けるまで回復したイオが横腹を抑えながら此方にやって来る。 何処かにぶつけたのか、右目の周りが腫れだして青痣が浮かんでいる。
「あそこまで打ち合えるって、おふたりは仲が良いんですよね」
と、言葉を探しあぐねた挙句、適当なことを言ったゼノスに、イオは驚いた様に目を見張った後、ひどく嬉しそうな顔をした。
後日談
「……以上ですが、何か船に関する質問はございますかな」
「ところでつかぬことを伺いますが、ゲロ吐いてぶっ倒れて、船から放り出されたその後彼は、どうなったんですか?」
真顔のゼノスが旗艦長に尋ねる。気になっていたのだ。こほんと咳払いをして、チラリと周りの者を見廻した後、旗艦長はやや小声でモゴモゴと言いにくそうに答えた。
「信号手が後続の艦に『落とし物を回収せよ』って信号を送って」
水夫長が続ける。
「で、拾い上げれれてたっけ」
「ええ!?」
予定通り5日目の午前中に船は王都にほど近い、キーエル港へ到着した。 王城の城下町として栄えた街で、通りには石畳が敷かれ、港から坂を上がる広い目抜き通りには両側に洒落た店がずらりと並ぶ。 港から正面の丘に小高く王城を臨み、王城周辺の大通りの両側には美しく手入れされた公園が広がり、午後になると市民の憩いの場となっている。 時に何処かの令嬢が馬車を降り、流行りのパラソルをさし侍女や友人やコンパニオンと散歩しているのも見掛けられた。 綺麗で安全なエリアである。
商業地区のある栄えた一角から郊外の南の丘に面して、地方の貴族が季節的に利用する別宅や成功した商人などの
「初航海は如何であったかな」
「次回は暖かい季節にお願い致します」
「卿は船旅に肯定的であると受け取っておこう。機会があれば、またいずれ。では」
この数日で
その
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