船出1The First Voyage
@Myzca
第1話 ゼノス
「卿、他言無用だ」
視線は、怖いもの見たさ、と言うより、見てはいけないもの、から逸らせないままだ。
コルセットからはみ出しそうな、たっぷりとした胸とその谷間が開いた
風が甲板に冷たい海水を叩きつける。嵐の波間を縫うように帆をたたんだ船が進んでゆく。風にかき消され途切れ途切れにうめくような音を立てて船が水圧で軋み、まだ朝の光も届かない暗闇の中にちらちらと明かりが揺れる。国境の北端の砦が氷で閉ざされる前に、今年最後の海軍艦隊が引き上げてゆくのだ。艦隊といっても小型艦5隻のみ、それでもその最新の型と装備を見れば、誰の、そして何処の船かは一目瞭然、嵐の中、この海域では誰も ー海賊もー 手出しはしないであろう。
年末も近づきつつある今日この頃、公私共に多忙な予定が詰まりつつある中、ダーショア卿こと、ゼノス・サウルリウス侯はのんびりと窓の外の落葉をと冬眠を前に忙しく木の実を運ぶリスを見ながら朝のコーヒーを楽しんでいた。一応、なけなしのやる気を見せるために場所は執務室である。鼻筋の通った、典型的なアキタニア北方系の顔立ちは、窓から差す晩秋の朝陽に鋭角的な陰をつける。一見繊細そうに見える顔立ちではあるが、穏やかな思慮深さを感じさせる。 センスの良い服の着こなしとそつのない落ち着いた立居振る舞いが貴公子然とした容姿に華を添えていた。
その横に立った従僕というよりも秘書と言った方が近い、ゼノスの乳兄弟のハルトが今日の予定を確認がてら読み上げた。 午前中に溜まった手紙の返事を済ませ、午後にはあまり緊急ではないが商工会の会長との面談が入っている。
「そういえば、今日あたり殿下の艦がカレスへ入港されるでしょうか」
カレス港はダーショア領最大の港で、ゼノスの館のあるノーシュロゥからも近い。 殿下というのは、海軍を任されている王弟のことである。 あまり面識は無いが、まだ子供の筈だから名誉職みたいなものだ。
「そうだね、到着されたら早馬が来るはずだから」
「こんな北方にも海賊が出るようになったなんて。 まぁ、ダーショアは豊かだから分からなくもないが」
ハルトが憤慨したように答える。 この国、アキタニアの海沿いの北限に広がるダーショア侯の領地は特にその名産品である甘い
ゼノスの父親である先代ダーショア卿はゼノスがまだ子供の時から徐々に仕事を教え始めたので、彼が社交界に出られる年齢になる頃には代替わりに必要なトレーニングは殆ど終えていた。 引退した両親は領内の別宅で悠々自適の生活を
現ダーショア侯ことゼノスは額に落ちた柔らかい色の髪をかきあげると、溜まった手紙に目をやった。 秋の領地の見回りや各村の収穫記録も確認したし、会計士や商工ギルドの監査記録も上げさせた。 収穫祭を終えて領内の年内行事はほぼ終わりだが、年始の挨拶に王都に行かなくてはならない。 王都に別宅があるから荷物はほぼ無いとはいえ、雪が降る前に出立しないと山で隔たった領地から出られなくなるか、出るのが非常に難しくなる。 今年はとりあえず、最低でも年始の謁見と、夜会と、有力領主からなる御前会議に出席する予定であった。 執事を呼ぶと、彼は王都へ運ぶ荷物の用意をするよう指示し始めた。
ゼノスが荷物のリストの確認をしていた時である。 家令がドアをノックし、執事越しに慌ただしく伝令を伝えてきた。
「王弟殿下の船が嵐の中北の要塞からの帰りに補給でカレスに到着されたので、薬と食料と水をご所望でございます」
「ああ、予定通りにご到着か」
小さな封書を手渡される。
如何致しましょうと返事を待つ家令を前に、ゼノスは机に広げた手紙の束を手に取ると、後でやろうと諦めてまた引き出しに押し込んだ。 予定変更は手慣れたものだ。 そのまま補給物資の確認をしながら、執事に外出用の馬の準備をさせ、歩きながら上着に袖を通し、玄関へと向かう。 午後の来客用にと部屋に用意してあった上着は上質で、訪問着としても通用するものだ。 親しい間柄では無いが、近場に王弟殿下が寄られたのにそのままお目に掛からずと言うのも失礼であろうと外出する意思を固める。
ご挨拶だけしてすぐ戻るからと最低限の供、つまりハルトを連れて出発した。 ハルトはゼノスより3ヶ月歳上なだけだが、物おじしない話し方とがっしりとした体格でゼノスより数歳上に見られることが多かった。 乳兄弟ということとゼノスに男兄弟がいない所為もあって、気の置けない間柄である。 彼は近くで貴族の生活を見て育ったので上昇志向が強く、ある意味、ゼノスよりずっと貴族的思考回路を持つ男だった。 ふたりの馬はやや早駆けでカレス港へと続く街道を進む。 話し始めたのはやはりハルトだった。
「王弟殿下にお目にかかるのは初めてです。噂では色々聞きますが」
「私も
ハルトは面白そうにゼノスの方を見た。目が笑っている。
「噂ではかなり変わった方だとか」
ゼノスは進行方向を向いたまま、ハルトの言う「変わった方」の定義について思い廻らした。ゼノスの返答を待たずにハルトは続ける。
「南の風習がそのままで、海から上がらず、かなりの変人だとか」
広大なこの国の中央を文化の中心と見る者からすれば、南部の一都市国家など、国ではなくて市の
南の文化とは、そんなに中央と比べて遅れている物なのだろうか。ゼノスはふと、大陸毛皮商人が時々持ち込む、北の辺境民族の作る工芸品を思い出した。 北のど田舎の少数民族と侮れない、中央の人間には到底真似出来ない品質の品々。 あれを劣っているなどとは評して良いものだろうか。 現に此方では高級嗜好品であるコーヒーや茶も、南部自治州経由で異国からもたらされるものだ。 それらが南部から輸入される前のこの国で飲まれていたものといえば、アルコールか水だけであった筈だ。
独自な文化の南の地と噂になる、彼らの故郷、南部の元海洋都市国家、現自治領ヴァルドゥ。正式にはヴァルドゥロッサ、『
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