船出1The First Voyage

@Myzca

第1話 ゼノス

死ぬほど寝たかった眠気が一瞬で醒めた。

「卿、他言無用だ」

 視線は、怖いもの見たさ、と言うより、見てはいけないもの、から逸らせないままだ。

 コルセットからはみ出しそうな、たっぷりとした胸とその谷間が開いた襟元えりもとから覗いている。しかも、王弟殿下の、である。 機密に当たるのだろうか、いっそ見なかった事にしたいところだ。 今日は精神的にも肉体的にもひどく非日常的な事がそれこそ山のように、次から次へと起こり、頭がついていっていない感じがあったが、眩暈めまいがする。 何とか貴族として育った矜持きょうじで何もなかった様に、表情に出さずに振る舞ってはいるが、状況が状況なだけにどう反応して良いか分からなかったから無表情をつらぬいたと言った方が正しかった。脳内大混乱中のゼノスの為に、話を数週間前に戻そう。 そう、昔むかし、大地を騎士団の馬が駆け、石造りの城の周りに城下町が広がり、そして船は帆を張って大海原を進んでいた頃の、あるところに。


 風が甲板に冷たい海水を叩きつける。嵐の波間を縫うように帆をたたんだ船が進んでゆく。風にかき消され途切れ途切れにうめくような音を立てて船が水圧で軋み、まだ朝の光も届かない暗闇の中にちらちらと明かりが揺れる。国境の北端の砦が氷で閉ざされる前に、今年最後の海軍艦隊が引き上げてゆくのだ。艦隊といっても小型艦5隻のみ、それでもその最新の型と装備を見れば、誰の、そして何処の船かは一目瞭然、嵐の中、この海域では誰も ー海賊もー 手出しはしないであろう。

 年末も近づきつつある今日この頃、公私共に多忙な予定が詰まりつつある中、ダーショア卿こと、ゼノス・サウルリウス侯はのんびりと窓の外の落葉をと冬眠を前に忙しく木の実を運ぶリスを見ながら朝のコーヒーを楽しんでいた。一応、なけなしのやる気を見せるために場所は執務室である。鼻筋の通った、典型的なアキタニア北方系の顔立ちは、窓から差す晩秋の朝陽に鋭角的な陰をつける。一見繊細そうに見える顔立ちではあるが、穏やかな思慮深さを感じさせる。 センスの良い服の着こなしとそつのない落ち着いた立居振る舞いが貴公子然とした容姿に華を添えていた。 

 その横に立った従僕というよりも秘書と言った方が近い、ゼノスの乳兄弟のハルトが今日の予定を確認がてら読み上げた。 午前中に溜まった手紙の返事を済ませ、午後にはあまり緊急ではないが商工会の会長との面談が入っている。 

「そういえば、今日あたり殿下の艦がカレスへ入港されるでしょうか」

 カレス港はダーショア領最大の港で、ゼノスの館のあるノーシュロゥからも近い。 殿下というのは、海軍を任されている王弟のことである。 あまり面識は無いが、まだ子供の筈だから名誉職みたいなものだ。

「そうだね、到着されたら早馬が来るはずだから」

「こんな北方にも海賊が出るようになったなんて。 まぁ、ダーショアは豊かだから分からなくもないが」

 ハルトが憤慨したように答える。 この国、アキタニアの海沿いの北限に広がるダーショア侯の領地は特にその名産品である甘い林檎りんごとその加工品、そして質の良い木材で有名で、国内はもとより山深い森を超えてくる大陸交易商人の間でも多くの需要があるため、領主に適度なビジネススキルさえあれば領内はうるおいを維持できた。此処から北は深い山脈、その先に集落レベルの村々が点在し、毛皮商人が雪の無い短い夏の間に行き来するくらいである。さらにその先には凍てついた大地に暮らす人々の国、トゥガリアがあると聞くが、交流は無かった。

 ゼノスの父親である先代ダーショア卿はゼノスがまだ子供の時から徐々に仕事を教え始めたので、彼が社交界に出られる年齢になる頃には代替わりに必要なトレーニングは殆ど終えていた。 引退した両親は領内の別宅で悠々自適の生活を謳歌おうかしているし、彼は新たに毛織物などの交易にも手を広げようとしている最中であった。 のんびりしているようで、コツコツ型の親子である。  

 現ダーショア侯ことゼノスは額に落ちた柔らかい色の髪をかきあげると、溜まった手紙に目をやった。 秋の領地の見回りや各村の収穫記録も確認したし、会計士や商工ギルドの監査記録も上げさせた。 収穫祭を終えて領内の年内行事はほぼ終わりだが、年始の挨拶に王都に行かなくてはならない。 王都に別宅があるから荷物はほぼ無いとはいえ、雪が降る前に出立しないと山で隔たった領地から出られなくなるか、出るのが非常に難しくなる。 今年はとりあえず、最低でも年始の謁見と、夜会と、有力領主からなる御前会議に出席する予定であった。 執事を呼ぶと、彼は王都へ運ぶ荷物の用意をするよう指示し始めた。


  ゼノスが荷物のリストの確認をしていた時である。 家令がドアをノックし、執事越しに慌ただしく伝令を伝えてきた。

「王弟殿下の船が嵐の中北の要塞からの帰りに補給でカレスに到着されたので、薬と食料と水をご所望でございます」

「ああ、予定通りにご到着か」

 小さな封書を手渡される。 臙脂えんじ封蝋ふうろうに押された羽の意匠の押印は、風の神に由来する王弟の名前を表していた。 カレスは此処、屋敷のあるノーシュロゥから最も近い港湾都市であり、ダーショア領最大の貿易港を擁する。 薬とは?怪我人や病人がいるのかもしれない。

 如何致しましょうと返事を待つ家令を前に、ゼノスは机に広げた手紙の束を手に取ると、後でやろうと諦めてまた引き出しに押し込んだ。 予定変更は手慣れたものだ。 そのまま補給物資の確認をしながら、執事に外出用の馬の準備をさせ、歩きながら上着に袖を通し、玄関へと向かう。 午後の来客用にと部屋に用意してあった上着は上質で、訪問着としても通用するものだ。 親しい間柄では無いが、近場に王弟殿下が寄られたのにそのままお目に掛からずと言うのも失礼であろうと外出する意思を固める。

 ご挨拶だけしてすぐ戻るからと最低限の供、つまりハルトを連れて出発した。 ハルトはゼノスより3ヶ月歳上なだけだが、物おじしない話し方とがっしりとした体格でゼノスより数歳上に見られることが多かった。 乳兄弟ということとゼノスに男兄弟がいない所為もあって、気の置けない間柄である。 彼は近くで貴族の生活を見て育ったので上昇志向が強く、ある意味、ゼノスよりずっと貴族的思考回路を持つ男だった。 ふたりの馬はやや早駆けでカレス港へと続く街道を進む。 話し始めたのはやはりハルトだった。

「王弟殿下にお目にかかるのは初めてです。噂では色々聞きますが」

「私もほとんどお目に掛かる機会は無いよ。 用がない限り海に出ていらっしゃるし、陛下以外親しくしていらっしゃる方が居るのか不明だし。どのような噂か知らないが」

 ハルトは面白そうにゼノスの方を見た。目が笑っている。

「噂ではかなり変わった方だとか」

 ゼノスは進行方向を向いたまま、ハルトの言う「変わった方」の定義について思い廻らした。ゼノスの返答を待たずにハルトは続ける。

「南の風習がそのままで、海から上がらず、かなりの変人だとか」

 広大なこの国の中央を文化の中心と見る者からすれば、南部の一都市国家など、国ではなくて市の範疇はんちゅう、多民族とて蛮族ばんぞくの文化だと言わんばかりの口調で、短い言葉の端々に嘲笑ちょうしょうが感じられる。

 南の文化とは、そんなに中央と比べて遅れている物なのだろうか。ゼノスはふと、大陸毛皮商人が時々持ち込む、北の辺境民族の作る工芸品を思い出した。 北のど田舎の少数民族と侮れない、中央の人間には到底真似出来ない品質の品々。 あれを劣っているなどとは評して良いものだろうか。 現に此方では高級嗜好品であるコーヒーや茶も、南部自治州経由で異国からもたらされるものだ。 それらが南部から輸入される前のこの国で飲まれていたものといえば、アルコールか水だけであった筈だ。

 独自な文化の南の地と噂になる、彼らの故郷、南部の元海洋都市国家、現自治領ヴァルドゥ。正式にはヴァルドゥロッサ、『薔薇ばら色の都』という名の貿易と商業で栄えた巨大都市である。北側を山に守られ、海岸線の強化と多国籍船舶への関税で一年を通して国庫潤う多文化都市だと聞く。 しかし、王族一家とその周囲の者達くらいしか出身者を知らない。隣で噂話を続けるハルトに肯定とも否定とも取れない相槌を入れながら、ゼノス達の馬はカレス市内を進んで行く。 見慣れた漁港を過ぎると、沖合に5艘の小型軍艦が帆を閉じて停泊しているのが見えた。 接岸した数隻のボートに残った水兵が、彼らの主人の行き先を示す。その先に在るのは港で一番大きな酒場兼食堂兼旅籠はたご。 ハルトが馬を預けている間に、ゼノスは上着の埃を払ってドアを開けた。 眼が室内の仄暗さに慣れるまで暫くかかる。旅籠の食堂はヴァルドゥ語を話す水夫で混み合っていた。 旅籠の主人が案内に出てくる迄に、ゼノスは記憶の中の王弟を人混みの中から探そうと辺りを見廻す。 彼の父、先王譲りの見事な赤毛。 南部人特有の細い体格だがひょろりと背が高い、時々幼く見える姿。 ヴァルドゥのややゆったりとしたデザインの服が余計に幼さを際立たせているのかもしれない。 その姿を探しながら店内を見回していると、間もなく主人が現れ、ゼノスを奥へと招き入れた。

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