第6話 疾走
質素なマントの女が城下のキーエル港付近を歩いている。 急いでいる様子だが、身のこなしは上品だ。 追手を気にしているのか、時々背後を振り返りながら、さり気なさを装いつつ、彼女は港から程近い旅籠、『鴉の巣』に入る。 此処はヴァルドゥ人の主人の店で、よくヴァルドゥ人が利用する店で、ヴァルドゥ海軍の馴染みの店だ。 彼女が被っていたフードを下ろすとその下から、綺麗にまとめあげられた黒髪が露わになった。 リリアである。慣れた素振りで旅籠の主人づてに、旗艦長こと親父を呼び出す。 代わりに宿の2階から降りてきた人物に、リリアの怒りは爆発した。
「こんな所で何やってるの。あの子がお前以外の手にかかって死んだなら、今度は私がお前を殺しに行くから」
顔を見るなり、リリアの恫喝を喰らったナギの青灰色の瞳が、驚きのあまり見開かれる。
まじまじとリリアの真剣な目と怒った顔を見て、無意識に立ち上がる。 それから目を合わせたまま一歩も引かないリリアを見返すナギの瞳が一瞬、穏やかになった。 小さく、華奢、そして可憐。下町の娘のような簡素なドレスを着ていても、リリアはまるで一つの完璧な砂糖菓子の様だ。 だが、強い。特にあの兄弟の事となると。 剣を取ったナギをリリアの声が追いかける。
「キーエル砦よ」
振り返りもせず、考える以前にナギの身体が動いていた。 後に2階から降りてきた旗艦長に、リリアは簡単に『C案』とだけ伝えると、そのまま他には何も言わずに、午後の雑踏に紛れて立ち去った。
一方、此方はゼノス。
挨拶も慌ただしく王の御前を去ると、控えの間で待っている筈のハルトを待たずにそのまま馬車でキーエル砦に向かった。 なんとか屁理屈でも良い理由をこじつけて早急に王弟殿下を回収しようと思った次第である。 ナギより一足早く砦に到着、内部が慌ただしく混乱しているのに乗じて、従兄弟殿の名前を使い、此処で面会予定があるとかなんとか言って砦の中へ入る。 イオの姿を探すと、既に砦の中庭を挟んだ回廊で兵と応戦中であった。 もう何かしら理由をつけてこの場からイオを連れて逃げる作戦は使えそうに無いと瞬時に判断し、手前の武器庫に乱入して、使えそうな武器を探す。 剣は型だけで殆ど使えそうも無い。かろうじてダーショアでの狩猟で身に覚えのあるのは弓矢だが、対戦用に使ったっ経験は全く無い。 と、そこで目に入った連射用のクロスボゥと大量の矢を手に取った。 そのまま兵を躱しながら回廊側へと回り込み、イオの周りの兵に向かって矢を連射する。 兵を斬り伏せながら、イオが目を丸くした。
「意外な所でばかりお会いするな。で、なかなか見事な腕前だな」
狩で鍛えた腕であって、戦闘経験は全く無いが、と冷静にゼノスは答えた。 ダーショアの山では増えすぎた動物を管理する為に、一年を通して狩が行われる必要があったからだ。
「こういう状況は全くもって、初めてですが」
「全部イノシシだと思え」
回廊から回り込んでくる大量の兵を避けて、塔の中に入り応戦を続ける。
出口は兵で塞がれて、上の階へとズルズルと階段を登りながら、下からどんどん攻めてくる兵と対峙する。ー他勢に、たった2人である。
「今日は、船医は一緒ではないんですね」
尋ねるゼノスには答えず、イオは心の中で自問する。 ナギは臣下でも配下でも友人ですらない。 俺を自分の手で殺す為にいる訳で、守るためにいるわけではない。 だが、居ないという、この欠乏感。 知らずに依存してた?死神に? 自分で自分に心底呆れ、心の中で自問し、苦笑する。そして、義理も無いのに危険を冒して来てくれたゼノスに申し訳なく感じる。 アキタニアの陸軍はここ10年以上、戦らしい戦はしていない。 実践経験の乏しい兵士の相手は左程難しくはないが、それにしても相手の数が多すぎる。 せめてゼノスだけでも無事に此処から出すにはどうしたものだろうか。
最終兵器、来ちゃった
成る程、イオが塔の回廊へ移動したのは、大きな剣を使う剣士に不利な状況にするためだとゼノスは察した。 狭い通路、壁や柱など障害物が多い場所は、大きな剣を振り回す戦闘には向いていない。 ゼノスが横を見ると、イオの剣が素早く翻るのが見えた。 以前船で見たのと同じ、陸軍主体のこの国では見られない剣術と身の軽さ。 ややカーブを描いた異国風の細い、でも鋭利な剣。 舞うように身を返しながら一瞬で相手の傍から喉元まで詰めるピッチ。 剣が短いハンデを微塵も感じさせない。 近距離戦ではさらに左手でダガーを使っている。 どうやったら相手の剣との距離感が掴めるのだろう、と矢を射る合間に見とれていると、ちらりと目が合った。
「伊達に大剣使いにしごかれてるんじゃ無いからな。 この前に御前試合見て予習済み」
ナギと比べるとスローモーションに見えると言わんばかりに嬉しそうに片目をつぶってみせる。 次から次へと階段を上がってくる兵士の群れを、切って、突いて、射て、刺して、蹴り倒して、殴り倒して、踏み倒して、を繰り返し、些か疲れが出てきた時である。 向かってくる兵士の武器が剣から槍が多くなり、相手をするのが難しくなって来たイオを庇うように、ゼノスが矢を連射しだす。 そうしているうちに、階下から詰め上がってきた兵士達が後ろの方から崩れていくのがみえた。 階下から兵士達の叫び声が続け様に上がり、その倒れた兵士達の体を越えて、抜き身の大剣を持ったナギが現れた。 何も言わずに視線を交わす。 彼の速い剣捌きに比べると、他の兵士たちの剣がまるで玩具のように見える。 兵士達が型通りに剣を振り回しては壁や柱にそれを取られてしまうのに対して、ナギは剣身の反身程を使い回して狭い場所でも長剣を難なく使う。 手練れと言えばそれまでだが無駄に見える動きが無く、挑んでくる兵士達を粛々と屠り、唯の死体の山へと変えてゆく。 恐怖にかられた、しかし逃げ場のない兵を一気に片付けて、ナギが追いついて来た。
「地下の武器庫と弾薬庫に大量の爆薬が用意してあった」
「画期的な暗殺方法だな、塔ごと爆破する予定か」
妙に落ち着いた声でイオが感心する。
「急げ、まだまだ下から来る。それに直ぐに火を付けるだろう」
走る3人は海に張り出した塔の最上階へ出るが、そこから先に逃げ場は無く、下へ降りる階段や足掛かりもも無かった。 崖と塔の外壁を駆け上がってきた風が冷たく顔を叩き、髪を夕暮れの紫がかった色の空に舞い上げる。
塔の最上階の縁から下を覗いたナギがゼノスを振り返った。
「泳げるか?」
そのまま返事を待たず、彼はゼノスをいきなり掴んで屋上の砲台の隙間から海に向かって投げ込んだ。 恐怖を噛み締める暇もなかった。 すぐに続いて2人が見事なフォームで遥か下の海面に向かって飛び込む。 水音と同時に、地響きを立てて爆発音が響き渡り、建物の破片が爆風と共に辺りを襲う。そして炎が大きくゆらりゆらりと上がり始めた。
水面に映る爆発の炎に透けて、赤い髪が視界いっぱいに広がる。 そちらに手を伸ばして掴もうとするが、身体が重いのか、言うことを聞かずにゆっくりと沈んでゆく。 塩っぱい水が、口を、鼻を、耳を、一杯にする。 息が出来ない。途切れる意識の中で思った。 人魚は赤い髪をしているのだと。
子供の頃に、こっそりと領地の子供達に混ざって、川遊びをしたことがある。 脚を滑らせて岩場から川の中に勢いよく落ち、後でこっ酷く怒られたっけ。 あの時はどうやって岸にたどり着いたのだろう。 赤い髪の人魚は、あの故郷の川にも居るのだろうか。 誰かが呼んでいる。 何処でだろう。 何故呼ぶのだろう。 人魚が呼んでいるのだろうか。 そこで、ゼノスの意識はグルリと反転し、こちら側に、戻った。 盛大に水を吐く。 喉が信じられない勢いで咳と水を出し、喘鳴と痛みと共に大きな呼吸を繰り返す。 呼吸とはこんなに難しいものだったろうか。 仰向けで横を向かされていた頭を上に向けると、暮れゆく空を背景にイオとナギの心配そうな顔が見え、何処かで見た人魚のことを思い出しかけた。一瞬此処は何処かと混濁した記憶を辿る。 質問するまでもなく、イオが端的に説明した。
「砦から海に飛び込んで、近くの岩場にいる」
水を吐いて呼吸が整って来ると、その後に急激な寒気が襲ってきた。 降雪前とはいえ、今は冬なのだ。 震え始めたゼノスに向かってイオが続ける。
「近くに船を待たせてある。急がせて申し訳無いが」
「私は泳げません」
ああ、何で泳ぐ練習をしなかったのだろうかと全身全霊で悔やまれる。
「大丈夫、ナギと交代で船まで引いて行くから。 水の中では上を向いて身体の力を抜いて、それが難しければ単に、暴れないでいてくれ」
余裕の笑みを浮かべると、イオは先に水の中に入り、ゼノスに手を差し伸べる。 ナギがゼノスの腕を支えて水に入れた。 イオが片手でゼノスの襟首を引いて泳ぎ始め、ゼノスは言われた通り、空を見ることと呼吸する事に集中し続けた。
近く、とイオは言ったが、ゼノスには船まではかなり遠くに感じられた。 炎に包まれた砦はどんどん遠くなり、見えなくなり、そして突然、ぽっかりと視界が開け、切り立った崖が海の上遥か高くに突き出しているその下に、見慣れたイオの艦の一つが見えた。 主人の到着を待っていたようで、するすると縄梯子が降りてくる。
「卿、ロープに掴まれるか」
ゼノスが自力で登れないのは一目瞭然だった。 ふたりが身体の震えが止まらないゼノスを縄梯子に脚をかけて座らせ、彼の腕を絡ませて身体を固定する。 次にイオがゼノスのいる上にひらりと登り、軽く口笛を鳴らすと梯子は上にいる水夫達によって手際良く引き上げられ始めた。 ゼノスに次いで、ナギも梯子につかまる。水面から甲板迄は意外に高く、吹きさらしの風が濡れた服と共に体温を奪ってゆく。 歯の根も合わないほど身体が震えているが、ゼノスには止めようもなかった。 先に上に着いたイオが、水夫にゼノスを引き上げるように指示する。 寒さと疲労感で、自力で上がれる気力も残っていなかった。 疲労感と共に妙な眠気が襲ってくる。
「熱い湯はあるか?」
「お部屋に用意済みです。早くどうぞ」
「ありがとう、諸君」
疲れた声だがイオは水夫に笑顔で謝意を伝え、ナギがゼノスを担いでイオの部屋に向かう。
「卿、濡れた服では冷える」
手の震えでボタンもスカーフも外せないゼノスを手伝い、シャツと下着だけは残したまま、2人はゼノスを湯の張られた大きな風呂桶に放り込んだ。 急に緊張が解けて身体の震えが止まり、肌の感覚が戻って来る。 大きく息をついて、少し余裕が出てきたゼノスは部屋の中を見回した。 背後で心配そうな顔をしているイオの顔色が悪い。 上着を脱ぐ様子もなく、湯に入らないのかと聞こうとした矢先に、ナギがイオを抱えて問答無用とばかりにゼノスの向かいに突っ込む。 服が海水で濡れていたこともあり、一気に湯の温度が下がるのが分かる。冷えていたのだ。
ドアの隙間から、水夫からの追加の湯を受け取ったナギが、少しずつ湯をやかんから風呂桶に足してゆく。
「次は、貴方も温まらないと」と、風呂から出ようとしたゼノスの肩をナギは押し止めた。
「これくらいは、寒いうちに入らない。俺の国では、子供が流氷浮いてる川で遊ぶ」
既にナギは服を着替えただけで、濡れた髪以外はいつも通りだ。
「流氷って」
絶句するゼノス。
「完璧に凍ったら泳げないだろう」
的外れな答えだが、当然だと言わんばかりのナギの返答にイオが声を上げて笑う。
「助けて下さり、ありがとうございました」
「新米水兵の特訓よりは楽だったかな」
笑うイオの顔から徐々に緊張が解れてくるのが感じられる。 濡れた長い髪を結ぶために腕を上げたイオの、いつもはきっちりと締められた襟元が開いていて、スカーフがどこかで落としたか無くなっている。 ジャケットとベストの前ボタンが外れていた。 その下の濡れたシャツに透けて、見慣れないコルセット、そこから出る丸みを帯びた白い胸と谷間が見えた。 コルセットと胸、である。王弟殿下の。 ゼノスの笑顔だった顔がそこで凍りついた。 しかも、視線を動かせない。動かない彼の視線と表情に気がついたイオは、その視線の先を辿って、深い溜息をついた。 顎を上げ、ああ、ばれたかーと呟き天井を仰ぐ。
ゼノスの脳内では、さまざまな思考が飛び交っていた。
あの、遺伝病説や怪我人説はこれを隠すためだったのかと思い当たる。 華奢に見えるのは、子供だからじゃなくて、女だから。 ゆったりとした服装は、身体の線を隠すため。 いや、でも、女性らしさは全然、微塵も、カケラも感じられなかった。……女性らしさとは、何なんだろう。 脳内パニックのゼノスを横に、イオは湯から上がるとさっさと衝立の向こうへ歩いてゆく。 濡れてシャツだけが張り付いた身体の線は、確かに女性のものだった。 さっさと上がれと言わんばかりにナギに差し出されたタオルを受け取り、ゼノスは借りた服を着た。 直ぐに衝立の向こうから、着替えたイオが出てくる。 とても早い。 ご婦人の着替えは、本来、とても時間が掛かるものじゃないだろうか。 つまり、時間がかからなければ、女性じゃない?ですよね? 現実を認められずに思考をグルグル回しているゼノスの頬を両手で挟んで、イオがゼノスの目を覗き込む。 そして、冒頭のこの場面へと繋がる。
「卿、他言無用だ」
悪戯っぽく笑った瞳が、オパールのように金色に瞬く。
他言無用ということは、見たままが現実なのであろうと取り敢えず仮定しておく。 その上でこのままの生活を変える予定は無いと言うことだろうと察し、色々と沸き起こる疑問を胸の内にしまい込む。 今はここにある状況と問題に集中すべきであろう。
「今からどうするおつもりですか」
「近くの港に馬を待たせてあるから、一旦城に帰る。兄上に事の次第を説明する」
「私も参ります」
「そのつもりだ。卿の証言が必要だ」
船で貰った、睡気覚ましの甘めの筈のコーヒーの味が口に残って、ゼノスには妙に苦く感じられた。 現実感があまり無い、と思ったが、現実体験を処理しきれていないのだ。 新たな現実が次から次へと重なってきている。 程なく船は港に着き、3人は騎馬で一気に王城への街道を北上した。 キーエル市街に近づくにつれて、流れてくる煙の匂いが徐々に強くなる。 再建前の古い砦での爆発と炎上、そこから見つかった夥しい数の死体で、軍と市の警邏隊が砦の周囲を囲み、その周りを野次馬の市民が取り囲んで大騒ぎだった。 市中に入ると更に煙の匂いがひどく、煤で目が痛くなってくる。 3騎はまだ混乱する市中を抜け、王城の門を通過した。
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