短い反駁


 オイルが話し終えるまでの間、私はその言葉に耳を傾けながら、じっと黙っていた。

 淡々とした口調で始まった彼の言葉は、徐々に静かな熱を帯びてきて、最後には今にも叫びだしそうな、ほとんど怒りを抑えるような語気に変わっていた。


「僕の話はこれで終わりだ!」


 そう言い切ると、彼は手に持ったままでいた吸殻を再び醤油皿に擦り付けた。

 のぼせたような沈黙が訪れた。


 彼の今しがた示した大きな否定の力にさえ、私の心は最早慄きを感じなかった。何故というに、彼が今語った言葉のすべては、すでに私の心に何度も反芻され、また反芻される度に、肯定され、或いは否定されてきたことであったからだ。

 彼は老獪にも私の反駁を封じようとある布石を打っていた。それは、『ニヒリズムが論理で導かれるものではない』というあの言葉。しかし、あの言葉は同時に、彼の示した私に対する降参のしるしでもあった。彼は、私に対して、つまりは、書く人間に対して、竟にはその否定の論理を完成することができなかったのである。その時点で、恐らく彼は我々に対して、敗北を認めていたのだ。

 いつの時代も、否定の力は肯定の力を上回るものである。しかし、彼は気が付いていただろうか? 我々書く人間が、どれだけその否定の力を愛し、また、その否定の力によって創作の意欲を養ってきたか、ということを。果たして、彼の長々語った否定の言葉の数々は、我々の意思を砕くに足りただろうか? それは無理な話だろう。それこそ、否定の言葉の何万何億と費やしたところで、その言葉は、我々の持つある種の”真理”には永遠に届き得ないのである。

 つまり、彼の認めた敗北は、彼の論理が完成しなかったが故の敗北ではなくて、言うなれば、我々書く人間に対して論理的な否定を企てたその企図そのものに内在する、原理的不可能性の露呈したがための敗北であった。斯様な意味において、私は彼に、この上反駁をする必要など本来ならばないはずなのである。

 恐らく彼はこのことに気が付いていた。己の弄した論理の瑕疵に、いや、論理そのものの瑕疵に彼は気が付いていたのである。その上で、彼は私に挑んだのだ。これは、謂わば彼なりの信仰の告白でもあった。彼は、己の中に知れず建てた神殿に額ずきながら、私に、告白をしたのである。神殿、そうだ、彼が初めに言ったあの不可解な前置き、『神を信じずにキリストを信ずる』という前置きは、正しく、彼の論理の不完全性を示すその証左であり、また彼の堅持したかったある種の思想の聖域であったのである。

 彼の怜悧さを以てすれば、無理にでも論理を完成することはできたかもしれない。しかし、彼はそれをしなかった。それが恐ろしかったからだ。彼には、全てを信じずに生きるということが、どうしてもできなかった。彼は常に、何かを信じたいと願っていた。ただ、彼の知性が、それを許さなかったのである。


「いくつか確認させてくれないか」


 最初に沈黙を破ったのは私の方だった。


「なんだ?」

「お前はさっき、ニヒリズムは論理で導かれるものではないと言ったな? あれは本当か?」

「……そうだ、本当だ」

「お前はこうとも言ったな? 俺が何も信じていないと。本当に、そう思うのかい?」

「そうだ、貴様は何も信じていない」

「確かに、その通りかもしれない。俺は何も信じていないのかもしれない。しかし、君と同じく、俺だって『何ものも信じようとしていないわけではない』んだよ。それこそ俺は、『神を信じずにキリストを信ずる』のと同じやり方で、この世界の価値の一切を信じていなかったとしても、人間だけは、信じているかもしれないんだ。これについてはどう思う?」

「欺瞞だ。大欺瞞だ。そんなものは、まるで退廃的な博愛主義者の言い種だ。反吐が出る」


 彼は先ほどの長広舌で一気に精力を使い果たしてしまったと見えて、心なしかぐったりとしながら私との問答に応じていた。


「欺瞞で結構だ。そして、お前の言う通り、俺は何も信じていないニヒリストだ。論理的な帰結でそうなった訳ではない。お前の言う通り、時代が俺をニヒリストにしたのさ。認めようじゃないか。しかし、論理で俺を言い負かすことの無意味さには、お前だって気が付いていたはずだ。それだのに、お前はそれを試みた。これは欺瞞だろうか?」


 オイルは何も答えない。


「俺は、これを欺瞞だとは思わないよ。俺には分かる。お前の弄した論理が芸術家の真相に肉薄しながら、しかし決してその真相の内部には到達しえぬのを見たとき、俺の心中に去来したものはお前への反感ではなく、むしろ共鳴だった。俺も初めは、お前と同じ側から出発したんだよ。でも、俺はその道は諦めたんだ」


 私には、オイルが今私の言葉を必要としているのが分かった。彼の切実なまなざしが、ただ一点、醤油皿の上の吸殻を見つめている。この彼の様子を見たとき、彼の抱える思想的な苦悩が、この燃え尽きた吸殻の物悲しい灰の白さと照応して、私にはありありと想像された。それは確かに、私が以前辿った道でもあった。とは言え、私は彼より先んじてその苦悩の克服に成功したというのではなかった。私はその思想的障壁と対峙したとき、早々に降参をしてしまい、壁の裏側から、同じくその境に到達しようとしたに過ぎないのだから。しかるに、彼は今この壁と、私が早々に降参を決めたこの壁と、真正面から、対峙している……

 私は言葉を続けた。


「お前は俺に、告白をしてくれたね? 信仰の告白をさ。だから、俺もお前に自身の信仰の告白をしなければならない。それが義理というものだ。いいかい、今から話すのは、俺の信仰の告白だ。そして、これはまた、先ほどのお前の話に対する、短い反駁でもある」


 オイルは吸殻から視線を外し、正面から私の目を見た。私は彼の視線から目を逸らさずに、言った。


「俺はいつだって、あらゆる論理へ対する感情の優位を証明したいと希ってきた。そのために、俺は文学を選んだ。書くことは、俺にとって、闘いなんだ」


 私の告白を聞くと、オイルはいつもの冷笑的な態度とは反対に、珍しく自嘲的な笑みを口許に浮かべた。


「闘いということは、勝ち負けがあるんだろう? 負けたら、貴様はどうなる?」

「もし俺が負けたとしても、そのときは単に、俺が芸術家ではなくて、ただの自殺者に過ぎなかった、ということが証明されるだけのことさ。ただ、それだけのことさ」

「そうか、そうか。それなら、貴様には是非とも敗北してもらって、僕の論理を完成させる為の最後の礎になってもらわなければなぁ。後は貴様の仕事だよ。すべて貴様に、任せたよ」

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恥晒しのエチュード 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto

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