不信仰告白 (書く人間の本質)
「お聞かせ願おうか」
私の挑むような視線を真っ直ぐに受け止めると、オイルは醤油皿の上の吸い殻にもう一度火をつけて喫み始めた。そして、フィルタの根元まで煙を深く吸い込むと、笑いながら、小刻みに、それを吐いた。
-不信仰告白 壱(書く人間の本質)-
——
「貴様も知っての通り、貴様が書いたもの以外で僕が小説を読むなんてことはまずない。そればかりか、本さえ殆ど読まん。昔は相当読んだ方だが、今じゃそのことを酷く後悔しているくらいだ。
まぁ、これはちょっとした前置きだがな。
それと、貴様は僕をニヒリストと呼ぶが、今までに僕がニヒリズムを標榜したことなどは一度もないし、これからもないだろう。ただ、貴様が僕をニヒリストと呼ぶことを、僕は否定もしない。確かに僕の態度にはニヒリストと通ずる部分があるし、僕自身、自分の取る態度に名前を付けていない以上は、貴様が僕をニヒリストと呼ぶのも無理はないと思って割り切っている。
しかし、ここで僕が主張しておきたいのは、決して僕は『何ものも信じていないという訳ではない』ということなんだ。もっと正確に言うと、僕は『何ものも信じようとしていない訳ではない』ということなんだよ(このことを初めに言い添えておかなければ、僕は全く滑稽な男に成り果ててしまうからな)。
貴様には分かるかね、例えば、例えばだよ、神を信じない人間でもキリストは信じているかもしれない、ということなのさ。それに、これは確かに実例のあることでもある。
いいかい、僕たちの世代はね、懐疑の最も著しい時代の落し子なんだ。僕たちの世代にとっては、信念ほど愚かしいことは他にないんだ。全て主義と呼ばれるものからは遠ざけられて、信じるように教えられる裏側では、徹底的に疑うように仕向けられてきたのだからな。聖者も、為政者も、富者も貧者も、その全てが愚か者だと蔑むよう、そう仕向けられてきたのだよ。そうではなかったか?
だからね、僕は、こんな時代に生まれた人間が、自らニヒリストを自称するなんてことは、酷く愚かな、それこそ愚にも付かぬことだと考えているのさ。
ニヒリズムが犬儒的態度とある種の近親関係を持っていた時代は終わったんだ。神の時代にニヒリズムを誇示することは確かに克己を要したに違いない。しかし、現代は久しく進化論の時代だよ。そればかりか、進化論の熟れ腐った科学万能の時代さ。今やニヒリズムなんてものは、身の程知らずの冷笑家が、自身の見窄らしい知性の勲章としてチラつかせる程度の、安いエンブレムに成り下がってしまったんだ。
と、ここで漸く貴様ら書く人間の話に移るわけだが、それでは、こんな虚無の時代に生まれた人間の内、貴様らのような書く人間は、いったいどのような人間だろうか?
ところで貴様は、今日僕に読ませたものの中でカミュの言葉を引用していたな? 大意は確かこうだ『創造することは二度生きること』、ふん、大した御言葉じゃないか。
ところが僕にはね、カミュの真意はさておき、この言葉を引用した貴様が、この言葉に同意している風に見せておきながら、その実この言葉を全く信じていないということが分かってうそ寒いのさ。いや、もしかしたら貴様は信じているつもりなのかもしれない。しかし、それを信じていたとして、結局は自己欺瞞なのだよ。
どうして創造(貴様の場合は書くこと)が、生きることになるんだい? しかも二度生きるだって? 馬鹿げたことじゃないか、そんな話は。僕からしたらね、貴様らは二度どころか、一度だって生きているとは言えないのだよ。
例えば文学的苦悩だとかいうやつ、僕は終生こんなものとは縁のない健康な頭の持ち主だけれど、よしんばそれが『人生の意義』だとか、『世界の意義』だとかいう、傍目高尚なものへの意思を孕んでいたとして、(つまり、芸術の常々掲げているお題目としての『生、愛、死』ということについてだが)こんなものにいちいち拘っていること自体、大概青臭いことなのさ。いいかい、人生におけるこんな問は、遅くても十代の内にはきっぱりと決着を付けておかねばならんのだ。何故って? 兎にも角にも我々は生きることを強いられているからだよ。分かるね? もしそれでも決着をつけ難いと言うのなら、今僕が代わりに決着させてやってもいい。人生の意義、それはつまり『いい学校を出て、いい会社に勤めること』、後は『商売繁盛、子孫繁栄』、まあ、こんなものは他にもいくらでも浮かんではくるが、つまりはこういったことだけを考えていれば、後は万事上手くいくのさ。
いいかい、今僕は真理を語ったんだよ。貴様らが何万何億という字数を費やしてもなお語り得なかった真理を、だ。なぜ僕が、貴様らに生きているとすら呼べないと言ったか、理由が分かったかね?
このことは男の貞操の問題ともよく似ている。何れにしても貴様らは大人になり切れていないのさ。人生の電車に乗り遅れたんだ。謂わば君たちは、自身の童貞を誇りにしている哀れな青二才に過ぎないのだよ。自らの満たされない自尊心を芸術の名に仮託させているだけなんだ。この世に美しい芸術家という観念が成立し難いのは、つまり、美しい童貞という観念が成立し難いのと同じ構造を持っているからだ。童貞が純潔であるとは誰も思うまい。寧ろ穢れてすらいる。貴様らも同じだよ。その欲求不満的な自尊心が貴様らの芸術至上主義を穢しているのさ。
そうだ、つまりはそう言うことだ、貴様らの掲げる文学的使命、或いは文学的苦悩なんてものは、つまり、貴様らの個人的な自尊心の問題にしか過ぎないんだ。そんなものは、決して世界的な大問題になりはしない、そればかりか、一個人の人生の問題にもなりはしない(そもそも、人生に先行する文学などあり得るだろうか?)。貴様らの認める文学の意義が大仰なものであればあるほど、貴様らの自尊心も一層大きなものになる。博愛や隣人愛といった高邁な思想が、根っこを辿れば強烈な自己愛から発生しているのと同じように、な。
異議を挟む前に、貴様らの人生(人生を世界と読み替えて貰ってもいい)に対する接し方を今一度反省してみてほしい。貴様らは、自身が人生との交渉のないことを引け目にしているから、孤独をしきりに称揚し、集団に参加する人々を俗衆と呼んで嘲り、終いには自殺を賛美することにすら憚らない。孤独を一種の選民的特権と見做し、(文学的才覚なんてものは集団に対しての有意を示すなんらの根拠にもならないのに)俗衆を文学の感性に乏しい下等な人種と決めつけて、そんな彼らに属することにも能わない自分を、まさにその不能のために天才だと思い込んで自惚れている。しかも、その自惚れも、結局は集団によるお墨付きを必要とするわけだから、そんな貴様らの編み出した馴れ合いの流儀の厭らしさがどんなものであるかは想像に難くない。つまり、自尊心やそれを養う自惚れ、自殺への同感を条件とした文学的感性……他にもあるんだろうが、こういったある種の不文律を、己の自尊心を護る防衛本能として、貴様らは皆腹の内に隠し持っているのさ。
文を書く人間の不文律というものが、斯くも醜いというのは、全く上等な皮肉もあったものだ。
そして、こんなにも人生を軽蔑しておきながら、貴様らはこの世界と関係を持ちたいと切望して止まない。特異であることを誰よりも望む貴様らが、誰にも理解されないということを誇りにしながらも、それとは裏腹に、世俗の歓声という極めて普遍的な価値基準に縋っている様は、貴様らお得意の文学的表現とやらを用いるとすれば、いったいどのように弁護できる?
文学を志した当初の貴様らの心情など、僕には斟酌してやる余地もないが(無論そんな義理もないが)、とまれ、貴様らの文学が、貴様らの自尊心をしか慰めなくなったときに、文学は永遠に死に、貴様らもまた、人生から永遠に締め出されたんだ。
とは言え、なぜここまでのことをしなければならないのだろう? 簡単な話だ。このようにしてあくせく自尊心を満たし続けてやらなければ消えてしまう、心許ないオイルランプの弱弱しい光のような自我こそ、貴様らの存在の証明であり、生きる上での唯一の光だからだ(なにせ、貴様らは全うな人生からは既に放逐されているのだからな)。
しかし……僕の論理はまだ完成していないようだ。僕はまだ、虚無の時代と貴様らの性情を結びつけることができていない。
僕が今話したことは、何も現代に特有のことではないからな。
だが、切り口はいくらでもある。例えば自殺ということ……僕はね、貴様の書いたものを読むたび、常々芸術家という人種と自殺者との類縁に頭を捻ってきたんだ。
つまり、芸術をすることが、恰も自殺への意思を詐称しているかのようなこの不思議な傾向に、僕はずっと疑問を持っていた。
でもその理由が、最近ようやく分かった。
僕の眼は誤魔化せないぞ? 僕がさっき、貴様の嘘を指摘したあの時、貴様はいったい何を考えた? いったい貴様は、僕に何を看破されたと思った?
いいかい、僕はね、貴様の皮相の欲求、自己承認欲求だとか、自尊心の満足だとか、そんなちんけなものに対していちいち批判をするつもりはないんだ。今更こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、そんなことはどうでもいい……
なぁ、貴様は本当は何も信じていやしないのだろう?
何も信じていない人間が小説なんてものを書くといったいどうなるか。この不毛な大実験が、今、世界のありとあらゆるところで行われている。貴様らの夜な夜なの活動。この、蓄えられた欲求不満のあてのない自家放電。不安な夜からの逃避。人生からの、逃避。
これらのことはすべて、我々の精神の包摂する空虚から生じたものだ。貴様らのではない、我々全員の虚無からだ。
空虚から生じた信念はいったい何を志向するだろうか。人生は生きるに値するかという問、これに対して、この空虚の信念はいったいどのような答えを出す?
自殺だろうか? 自殺こそが、文学的苦悩の最上の帰結だろうか?
文学は、果たして行動を規定しうるだろうか? ただ書かれたものに過ぎぬ文学に、超え難い一線などというものが果たしてあるだろうか? そしてその一線は、果たして行動の一線、自殺の可能というところに、結びついているだろうか? もし結びついていたとして、このような論理の道筋、つまり、言葉による自殺の可能という道筋において、これらのものすべてが、あの虚無の底から、まさしく、何もないその虚無の底から、陽炎のような実体のない標となって立ち上っているのだろうか?
そんなことは決してないんだ。そんなことは、絶対にあってはならないんだ。
例えば奇跡。復活の奇跡や永遠の生命が現実にあったとして、さらにそれらの奇跡が、我々の前に否定しがたい事実として顕現したとして、果たして我々は、我々の虚無主義を喜んで捨て去ることができるだろうか? そして、そのような奇跡は絶対に存しないという諦めから、貴様らは虚妄の文学の論理によって、人生への諦めを果たそうというのか?
しかし、それもまた違うだろう。僕は貴様らに関心はしていないが、そこまで愚かだと見縊ってもいない。つまり、貴様らは本能的に、奇跡の本質について知っているはずだ。
言葉のみで一つの物語を仕立てるということ。この大工仕事のような実直な試みは、決して自尊心の肥大ばかりを貴様らに齎した訳ではないだろうからだ。つまり、ニヒリズムとは、宇宙の影のようなものであることを、貴様らは知っているはずだ。光があるから影ができるのではない、影は初めからそこにあり、初めから完成していたのだ。ニヒリズムもそうだ。本来ニヒリズムは論理によって築かれるものではない。それは知性の活動によって導かれるものでは決してない。それは一種の霊感によって洞察されるものだ。この世界には意義など存しないということ、この前提に立ってこそ、奇跡は我々の空想の中だけで、一つの物語の形をとって、我々の精神に導かれるのだ。
奇跡を顕現させること。こんなことが果たして原理的に可能だろうか? 僕は明確に、それは不可能だと答える。どんな奇跡であろうとも、それがひとたび実現してしまえば、それは死んだ言葉になる。辞書に書かれた言葉になる。復活の奇跡も、永遠の生命も、ニュートン方程式と同じ頁に収められるようになる。そうなれば、虚無も奇跡も同じことだ。等しく、無意味だ。文学だって、同じことだ。
ここまで聞けば、貴様にも僕の話の結論が読めてきたんじゃないか?
つまり、芸術的営為が恰も自殺を指向して見える所以と、貴様らの本質ということについてだが、いままで僕の話から、こういった結論が導けるはずだ。
芸術(文学)をするということは、その創作の瞬間瞬間を生の一回性に擬え、自己の現状を自己の生命の代替物として紙面に磔にすることで、自己の一回性の仮初の姿を担保しようとする行為に他ならない、ということ。つまり芸術とは、自殺という行為が示す意味の、丁度ミニチュアの構造を持っているんだ。
問題なのは、芸術を行う精神が、この様に幾度となく自殺の予行を繰り返しておきながら、正しく芸術すると言うその属性のために、その精神には常に生きることが義務付けられていると言う点にある。自殺という悲観した性質を持った芸術的活動が、その活動ゆえに生き続けるという楽観した属性を無理やりに付与されて、芸術万歳の空気の中で、芸術それ自身の存在理由である悲観には一切の権利が与えられずに、あたかも生きることを楽観していると言う表情を芸術家に強制し、結果、より悲観的な相貌を貴様らに烙印している。そして、この死に得ぬ自殺者たる芸術家の抱く悲観と楽観との思わぬ近親関係は、一方の創作し得ぬ芸術家たる自殺者の抱くパラドキシカルな悲観と楽観との表裏構造と全く同じシステムを持っていて、芸術家が悲観を、自殺者が楽観を手放せないという自身らの立場と相矛盾したかに見える性質は、全くこのために生じる誤算なんだ。
とまれこのようにして芸術家は創作によって自己の骸の複製を次々生み出すわけだが、しかしここに本物の自己の死骸を並べようと言う試みは、それ自身無意味な試みでこそあれ、この終わりなき無為の創作に対して、芸術家が唯一取り得る細やかなる反逆の手段なのであろう。そして、貴様らにとって芸術とは永遠に仮初の一回性を生み出す行為に留まり、自殺は芸術による偽りの営為から抜け出して、芸術が貴様らに対して一切担保してやらなかった生の一回性を、つまりは貴様らが追い求めてやまなかった自己の存在の確固とした証明を、初めて貴様らに保証してやるのだ。
貴様らは命の理由にすら物的な確証を要求する。貴様らは確かに理想主義者ではあるが、しかし、神秘主義者とは決して呼べず、むしろ唯物論者に近い性向を持つ。そして貴様らは恐らくは、最も死を恐れている種の人間なんだ。
芸術衝動は決して自殺衝動と同じではないが、しかし、前者の衝動にはどこか後者の衝動を詐称している向きがあり、死を思うことで生の苦痛を麻痺させる欺瞞には、芸術が恰も死を志向しているように見せている錯覚の所以がある。
貴様らは息を合わせてこう叫ぶ。『芸術! 人生!』、と。うそ寒い。
芸術家が芸術を十分に語り尽くせるとすれば、それは彼が芸術に対して批判的であるからだ。芸術に対して批判的であると言うことは、人生に対して従順であると言うことであり、何ごとにも正直で、誠実だと言うことだ。そして、芸術を愛する心とは、不粋で不遜なものだ。それに比べれば、金や権威を愛する心は立派に美しく、人間が人間であるが故に人間を愛するのだと言うことと全く同じくらい真っ当で、健全なものなんだ。
これが書く人間の本質だ。生と死、人生への欺瞞、そして、創作による自己への瞞着。これこそが、書く人間、ひいては、書くという行為の本質なのさ。
僕の話はこれで終わりだ!」
——
(つづく)次回「短い反駁」
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