穢れたタナゴコロ


 待ち合わせの場所に着くと、オイルは先月の事故でひしゃげたガードレールに腰を掛けて私を待っていた。彼の足元には、花やら菓子やら酒やらが供えてあった。

「二人死んだんだってな」

 彼は私の到着を認めるなり楽しげにそう言った。

 彼は続けた。

「未成年の飲酒運転だって話だが、当の運転手はかすり傷で済んだらしいぜ」

「随分機嫌がいいじゃないか」

「はは。金曜の夜に機嫌の悪い労働者なんておらんさ」

「さては飲んでいるな?」

「馬鹿野郎。僕のルーチンは貴様も把握済みだろうが? 金曜は飲まん。飲むのは土曜の朝からだよ」

 そう言う彼の呼気は明らかに酒気を帯びていた。


 大学を卒業してから二年弱、私たちは二人とも地方の企業に就職したが、たまたま勤務地が近かったこともあり、こんな腐れ縁で、月に一度ほどの頻度で落ち合う間柄だった。

「今日も読ませるために僕を呼んだんだろう?」

 オイルは例のごとく機械油で汚れた手でひょいと私に催促をした。

「こんなところで読むのかよ」

「はは。構わんだろう? 仏の供養にもなるだろうしな」

「どういう意味だ?」

「貴様の書くものはいつも尻切れトンボだからなぁ。終わりがないってことは縁起がいいことじゃないか。物語に終わりがないのなら、作者は永遠に生き続けるのだよ。事故死ってのは全く良くできた隠喩だぜ」

「つまらん。お前のルーチンのことなど知らんが、今日もいつものように飲み屋でいいだろ? 近くに安い屋があるのを見つけたんだ。そこへ行こうか」


 地方都市の主要駅前のささやかな華やぎからは少し外れた場末の飲み屋通りの薄暗い路上を、滔滔と灯った店店が躁鬱めいた様子で疎に照らしていた。私たちは並んで歩きながら、覚えたての仕事への愚痴を互いに言い合って、そんな新鮮な憂さ晴らしの為に自身の老いをふと悟り、私は心中で密やかに慄いた。私には、自分を青年と呼べなくなる日が来ることが恐ろしかったし、これは純粋に、文学的な苦悩でもあった。しかもこれは、世俗を半端に思い知らされた私にとっては、なけなしの純粋さであるとも信じていた。

 そんな道すがら、外国人の違法娼婦が三度ばかり私たちをカモにしようと寄ってきたが、慣れた私は彼女らの商魂を無下にすることに、今更言われのない自責を覚えることなどない。オイルに関しても言うまでもなくそうで、三度目の相手になどは唾を吐いてまで追い払っていた。

「近頃また湧いてきやがった。夏も終わったっていうのによ。まったくコバエみたいなやつらだ。しかし、あんな奴らでも感染症自粛のムードには従っていたところを見ると、ご立派にも命は惜しいんだな。それともこの国の空気が障ったのかな?」

「そんな言い方はやめろよ。彼女たちだって望んでやっているわけでもないだろうし、それに、娼婦というのは寧ろ高貴ですらあるよ。人類の原初の職業は売春だって言うじゃないか」

 私はふと、自分の書いた『人類劫初の芸術家』について思い出して、なんだか決まり悪く感じた。

「貴様のそういう気障ったらしい趣味がいちいち鼻につくんだ。貴様みたいな奴ほど、素面じゃなけりゃそれこそ素が出て、あんな汚ねぇ売女でも喜んで買っちまうんだろうよ」

 私はオイルのこんな言い様に抗弁の意思さえも失せて、何も言い返さずにしておいた。彼は彼でこれまた楽しげに、そんな私を肘で小突いてきた。

「図星を突かれて御立腹か?」

「呆れているだけさ。毎度のことだがね」

「それでも付き合いを続けてるんだ。嫌いじゃねぇんだろ?」

「何を言いやがる、気持ち悪りぃ」


 そうこうしているうちに、私たちは目当ての飲み屋に到着した。

 店に入ると、前歯の殆ど抜けた婆さんが愛想良く席に案内してくれた。他に客は居ない。店内は少しくドブ川の臭いがした。

「いい店だな、気に入ったよ」

 言いながら、お通しの塩辛の上空にまとわりついているコバエを片手で捕らえようとして、オイルは何度も手を空振りさせていた。私は醤油差しと並んで備えてあった殺虫剤を彼の手元に吹きかけてやった。

「これがここでのやり方だよ」

「なんでそんなものが置いてあるんだ」

 流石のオイルも目を丸くしていた。


 水垢まみれのジョッキが来ると私たちは乾杯をしてから一気に飲み干した。

「おい、ばあさん!」

 オイルが二杯目の注文を終えた後の、それを待つ束の間の沈黙がいつもの合図だった。

 普段鞄を持ち歩かない私だから、ジャケットの内ポケットに入れられた原稿用紙はいつもしわくちゃになってしまう。オイルはそれを受け取ると、勿体ぶった手つきで原稿の折り目を平らに延ばしてから、漸く最初の一行目に目を掛けた。


 それから数分間、運ばれてきた新しい酒に手も付けず、オイルは黙々とそれを読んでいた。私は彼が読んでいる内に急いで二杯目も飲み干した。すぐにでも酔いたかった。が、私は人一倍酒が強い。


 オイルはついに読み終えると、体を横に向けて卓に左膝を突き、その手で持った原稿用紙で顔を扇ぎ出した。(暑くもないのに)と、私が観察していると、彼は横目でじっと私を見た。そのときの薄ら笑いが私の心を冷たくさせた。

「はは、ワタクシ君。つまり、君は恥をさらすために、わざわざこんなものを僕に読ませたというのかい?」

 いつもは貴様と呼んでくるオイルが、このときばかりは「君」なんて言う二人称代名詞を用いたことに、私の自尊心は傷つけられた。私は彼の手から原稿用紙を奪い返すと、それを内ポケットに押し込んだ。


「しかし、解せないな」

 オイルは二杯目も一気に飲み干すと、すぐに三杯目を注文した。

「なぜ貴様は毎度性懲りも無く僕に読ませたがるのか。僕なんかに恥の営業をかけたって、一銭の見返りも望めないことは明らかじゃないか。そんな勘定じゃ損をするばかりだぜ?」

「それには俺も同感だ。確かに俺のやっていることは言行不一致だよ。お前に読ませたところで一銭にもならない上に、後で後悔することになるのは決まっているのにな」

「何か有益な意見でも期待しているのかい?」

「お前のようなニヒリストからの意見なんぞあてにしないさ。しかし、そうだな、まぁ、これは供養みたいなものだよ」

「事故死したあの二人へのかい?」

「馬鹿言え。そんな話題はもうとっくに忘れていたところだ」

 オイルは私の言葉を聞きながら、胸ポケットから煙草を取り出して、卓に肘を突いたままそれを喫みはじめた。彼は私にも勧めてきたが、断った。

 私は続けた。

「供養ってのは原稿のことだよ。俺が書いたものを読むのなんて、お前とハニワくらいだからな。俺なんかに書かれてしまったせめてもの慰みに、お前らに読ませてから葬ってやるのさ」

 私は悪友らに、インターネットで自作の投稿を始めたことを告げてはいなかった。

「どうして僕たちだけなんだ」

「それ以上を望まないからだよ。お前らに読ませるのだって、決して望んでやっているわけじゃないが……」

 オイルの視線が一瞬鋭くなった。

「嘘をついているな?」

 オイルはまだ半分以上も残っている煙草を醤油皿に擦りけると、正面に向き直って私を見た。

「なに、嘘? どこが」

 私はどうにか冷静を装った。

「貴様の言うこと全てがさ。見え透いているぜ」

 追加の酒が運ばれてきた。まだ頼んでいない私の分まであったが、私は何も言わずにそれを呷った。

「ものを書く人間がどういう質の人間か、つまり、貴様らの本質がどんなものであるか、貴様を見ていなくても大概は想像がつく」

 飲み干すと、私もまた、挑むように彼を見返した。


「お聞かせ願おうか」



(つづく)

次回「不信仰告白 壱(書く人間の本質)」

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