浅葱色の今牛若

 平生、お付き合いしている方の中には、お互いの作品を読んでいる人もいればそうでない人もいる。
 異業種間交流のようにジャンルの違う人たちと雑談をかわし、創作話に「そうそう」と頷き合って、それぞれの創作にまた戻る。
 お名前は分かっていても、どんな小説を書いているのか不明のままの方も大勢いるのだ。

「作品は一本も読んでいませんが仲良くしてもらっています」

『月の夜 雨の朝 新選組藤堂平助恋物語』の作者さんはその内の一人だった。


 作者さんの方は折に触れて拙作をよく読んで下さっていたのだが、不義理なことに、わたしの方は違った。まとめて読みたい小説として、読むのがずっと後回しになっていた。
 そして冬になりカクヨムコンが始まって、今のうちにと気合も入って、ようやくその順番が回ってきた。
 数か月前に試し読みまではしていたから、この作品の水準の高さは知っていた。


 幕末は詳しい人はとことん詳しい。そうでない者にとっては、佐幕、倒幕、尊王攘夷の区別すらもついてないだろう。
 しかし歴史に興味がない人でも知っている歴史上の有名人が一極集中でぎっしりと煌めいている。そういう時代だ。
 日本刀を握りしめ、彼らは混沌の夜を白く耀いて生きる。
 そしてそのほとんどが、若くして死ぬ。


 百五十年ほど前、あの京都の町の真ん中で、包丁の長いやつを実際にふり回して人と人が殺し合っていた。今なら大学生くらいの年齢の若者が続々と上京し、幼少の頃から鍛え上げてきた剣の腕で、必殺の気合もろとも人を斬っていた。現代のお兄ちゃんたちに「やってみて」と刃物を配ってみても、とても出来ないことだろう。
 治外法権の租界のように京の町にはあちこちに藩邸があり、不貞浪士たちも国の藩邸に逃げ込めば命は助かる。
「逃げろ」
 いわば命がけの鬼ごっこを若者たちはやっていた、あの京都の狭い町中で。
 そこにひと際ダサく、これ見よがしに浅葱色の羽織をひらめかせ、殺意の眼を前方に据えて浪士を追いかけてゆく者たちがいる。
 新撰組だ。



 局長近藤勇、副長土方歳三。幕末の京都の治安を担っていた武装隊の名を知らない人はいないだろう。
 チンドン屋のようなあの隊服は今となってはアイコンだが、当時は都中で大不評だった。
「赤穂浪士を意識したのなら黒でよかったよな」
「だよな」
 隊員も気まずかったことだろう。なにこれネギ色やん。


 壬生に屯所を据えた身なりぼろぼろの田舎者の浪士たち。京の人々はこれを「壬生浪(みぼろ、みぶろ)」と蔑んでいたのだが、それがいつの間にか新撰組という名に変わり、後には「壬生狼(みぶろ)」壬生の狼と呼ばれる格好のいいことになっていく。
 若き狼たちはネギの色の羽織をはおって、京都中に放たれる。
 倒幕をたくらむ不逞の輩が京都御所の天皇さまを担ぎ上げんとして性懲りもなく都に潜んでいるのを、ばっさばっさと斬っていくのだ。
 藤堂平助は、その新撰組にいる。
 そこで歴史に疎い読者は想う。藤堂平助って誰。


 誰でもない。藤堂平助は歴史的にはほぼ無名だ。新撰組の幹部だったというだけの若者だ。


 新撰組を題材にした漫画や小説は沢山ある。特に好まれるのは、なんといっても土方歳三と、沖田総司だろう。
 とくに夭折の沖田総司に関しては女子の妄想がほとばしるだけ迸って大変なことになるのが常だ。

 なにしろ沖田、血を吐く。戦闘中に。
 祇園祭りのただ中に起こった池田屋事件は新撰組の名を一気に知らしめたが、これが最初にして最期の晴れ舞台で、その後の新撰組は時代のうねりに摺りつぶされるようにして四散し潰えていくのはご存じのとおりだ。
 その池田屋での大乱闘の最中に沖田総司は喀血する。返り血も浴びぬ若者が、自らの血に染まるのだ。
 天才の名をほしいままにした剣豪にして、近藤と土方の片腕、沖田総司。その性格は明朗快活。そして短命。
 やがて迎えるその死は爽やかな新緑のそよぐ頃、病にやせ衰えた身体で剣を手に庭にまろび出て、そこで孤独にこと切れるという具合。
 創作かな? と想うほどの人物だが、これが事実なのだ。
 その沖田総司の蔭にかくれるようにして、もう一人、沖田とほぼ変わらぬ年で死んだ美貌の剣士がいることを、この作品は教えてくれる。
 剣士の名は藤堂平助。
 藤堂高虎を想わせる力強い苗字と、平凡な平助という名をもっているこの若者は、時代の夜明けを見ることなく油小路の死闘でかつての仲間に斬られて二十三歳で絶命する。


 その藤堂平助。彼は京の人々から「今牛若」と呼ばれている。
 なぜそんな綽名になったのかといえば、南座に乱入してきた男たちが美しい芸者にいたずらしようとするのを制止するために、
 ひらり
 二階から階下の芸者の前に「舞い降りた」からだ。
 創作かな? と想うのだが事実だ。

「今牛若」とは、いうまでもなく京の五条の橋の上でひらりひらりと弁慶の薙刀をかわした牛若丸が元ネタだ。幼名牛若丸のちの源義経。
 日本の歴史にはヤマトタケルのように日本人好みの悲劇的な男が幾人かいるが、源義経はその代表だろう。
 あまりにも人気が高いので二次創作が大量につくられて、鞍馬の山奥で天狗に剣技を教えられた牛若丸は夜の橋の上でひらりと夜の空に舞うことになっている。
 牛若丸はただの童ではない。
 美しい。
 つまり藤堂平助に「今牛若」という綽名がついてる時点で彼は若く、美しく、そして桜の影のように悲運が薄くしのびよる。


 涼し気な眼もとの、言葉遣いの丁寧な、太刀筋といえばその今牛若、剛の者。
 新撰組を率い、闘いの魁(さきがけ)となって藤堂平助は駈けてゆく。
 魁とは特攻隊長のような役割だ。


 同期の沖田総司が初夏の風のような爽やかさと、にこっと笑う邪気のなさ、そしてのびのびと極めた天才の剣技を持つ者であるのなら、藤堂平助は、真面目に真っ直ぐに、愚直一筋の努力を重ねて剣の達人にまで昇りつめた青年だ。
 性格のとおりその恋も、想いこんだら生真面目に一筋だ。

 南座で暴漢から助けた美しい芸者、君尾のことを「猫」と愛称をつけて藤堂は愛する。
 君尾は一力にいる。赤穂浪士の大石内蔵助が遊んだことで有名な祇園「一力亭」のことだろう。
 一見さんお断わりの代名詞のような格式高い祇園の一力にいる美貌の君尾の許に通うことになる藤堂平助だが、しかし君尾を抱く彼の脳裏には、打ち消しても打ち消しても、やさしい雨の音が降り続いている。
 雨の音はしずかに藤堂を抱いている。
 一力とは比べものにならない、はるか格下の島原の遊郭。そこに身を沈めている女に藤堂はどうしようもなく惹かれてしまったのだ。
 若い遊女と浪士。
 彼らは雨の日に出逢う。
 この物語はそこから幕が上がる。


 歴史小説には興味がないという方も、どうか三話まで読んでみて欲しい。動乱の中で出逢う若い男女。彼らは初々しく、そして一気に身体が熱くなるような恋の落ち方をする。
 作者はおそらく関西在住だ。はんなりとした中に待ち針を仕込むような独特の京ことばのニュアンスを自在に使いこなしておられるからだ。
 歴史ものを書くにあたっては資料を大量にあたらなければならないが、その上で「資料を調べました」と分かるような説明くさい箇所が一つもないことに瞠目して欲しい。
 幕末と新撰組の史実を土台に、遊郭の女、壬生の剣士、そして運命の油小路の男との関係が絡み合って深まっていく。その展開が実に自然で見事なのだ。
 この作者さんの力量がいかに高いかは、一度でも歴史物や男女の情交を書こうとしたことのある人ならばよく分かるだろう。

 藤堂平助に焦点をあてた小説は多くない。世に出て欲しい作品だ。

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