野辺の出来事
@sakamono
第1話
住宅の密集した狭い路地を南に抜けると田園風景が広がる。稲穂にさざ波を立てるように絶え間なく吹く風に、実りを迎えた穀物と水の匂いが混じっていた。刈り入れを前に田の水は抜かれていたけれど、豊かな
広々とした田園の中に建つ高速道路が、西の山並みに向かってのびる。山の端にかかる雲は黒く、わずかにのぞく空が少しだけ焼けていた。
「見て」
ふと足を止め、サヤ姉が言った。
高速道路の橋脚の足元辺り。風に揺れる稲穂に見え隠れして、ぼんやり光るものが見えた。光はとても淡くまたたくので僕は見間違いかと目を凝らす。
そうしているうちに淡い光は二つ三つと数を増し、列をなしてまたたいた。今にも消え入りそうなはかない光に、僕は葬列という言葉を思い浮かべる。
「狐火。ひさしぶりに見た」
サヤ姉が、その光のように淡く微笑んだ。
東の空に十三夜の月が昇り始めていた。
あの日以来、狐火を見ない。
サヤ姉は母の齢の離れた妹で僕の叔母にあたる。物心ついた時にはサヤ姉と呼んでいた。きっと母に言われたのだろう。
サヤ姉が東京の西の郊外に家を買ったのは十年前のことになる。その辺りで一番の繁華なターミナル駅から、川崎行の電車に乗り換えて数分のところだ。
家を買った当初はうれしかったのだろう、度々「遊びにおいでよ」と連絡をもらった。遊ぶといっても水と緑の多い周辺を散策し、夜にサヤ姉の手料理で酒を飲む、という程度のことだ。それはちょっとした一泊旅行のようで僕はとても楽しみにしていたのだ。もしかすると、当時社会人三年目にして会社員生活に行き詰まっていた僕を、気遣ってくれたのかもしれない。その後、僕が何とか気持ちを立て直すにつれて、その交流は間遠になっていったから。
母はいつまでも独り身の妹を心配していたけれど、家を買うに至っては半ば感心して「大したものね」とつぶやいた。母とサヤ姉は仲がよかった。
よくうちに泊りがけで遊びに来た。東京の西の県境に近い山あいの町から、電車で二時間かけてやって来た。そして、うちからほど近い新宿のデパートへ母と買い物に行くのだった。小学生の頃の僕は単純に出かけることが嬉しくて、いつも二人について回った。荷物持ちの男手として重宝されるのは、もう少し後のことになる。
その夜は、デパートの食品売場で買って来た惣菜と日本酒で、母とサヤ姉は遅くまで飲むのだった。
僕にとってサヤ姉は、親類の中で一番近しい人になる。
結局、生涯独り身だった。
サヤ姉の忌明けから一ヵ月が経つ。
家を出るのが遅くなり、改札を抜けた時には夕暮れが迫っていた。様子を見に来ただけで急ぐ用事があるわけでもない。ひさしぶりにサヤ姉の家に泊まってしまおうと考えていた。
サヤ姉の葬儀とそれに伴う諸々の手続きで「ゆっくり悲しんでいるひまもない」とこぼしていた母に、疲れた顔で「サヤの家を見てきて」と合鍵を渡されたのが三日前だった。
道幅の狭いわりに交通量の多い国道から右に路地へ入ると、道に沿って小さな川が流れる。住宅地を流れる川は小さく浅く、数歩で渡れる川幅で、僕は最初疎水かと思った。
「これは川。矢川」サヤ姉に訂正された。「うちの前の雑木林が水源」
流れが速いのは、ふんだんに湧く水が細い水路に流れ込むことが理由らしい。
川向うに並ぶ家は、どの家もこちらに背を向けていて、裏庭から川へ下りる小さな階段があった。けれど、その場所で何か洗い物をする人の姿を、見たことはない。
この道を歩くのは何年ぶりになるだろう。昔、サヤ姉と一緒に歩いた道。散策の帰り、日が暮れて少し肌寒くなるような時、手をつないで歩いた。僕が子供の頃と変わらない感覚だったのだと思う。サヤ姉の手はとても冷たかった。
一度、不思議な音を聞いたことがあった。今のような夕暮れ時だった。サヤ姉に言われて注意深く耳をかたむけてみると、じゃらじゃらと砂利を踏むような音が小さく聞こえる。その音はサヤ姉の家が近づくにつれ、次第にはっきり聞こえてくる。
「小豆洗いかな?」
僕の腕にしがみつくようにサヤ姉が体を寄せてきた。僕はサヤ姉の顔を間近に見た。真顔で冗談を言うような人だから本気かどうか分からなかった。
建ち並ぶ家の、連なる屋根の向こうに黒々とした雑木林が見え始め、サヤ姉の家まであとわずかというところで不思議な音はぴたりと止んだ。立ち止まって耳をすませる。静かな住宅地に川の流れる水音だけがしていた。ここから川はゆるやかなカーブを描いて道から離れ、雑木林の奥へ消えてゆく。
僕とサヤ姉は顔を見合わせた。
サヤ姉がいたずらっぽく笑う。
この町に境界を引くように川は流れていた。
夜中に不意に目が覚めた。辺りが妙に明るかった。見慣れない天井に半身を起こした時、サヤ姉の家に泊まったことを僕は思い出した。二階の四畳半の座敷。泊りがけで遊びに来た時は、いつもこの部屋で眠った。
西に向いた窓の外がぼんやりと明るい。路地を挟んで向かいにある、雑木林の樹冠が白く光っている。見上げると丸い月が煌々と町を照らしていた。
僕はふと思いついて壁にかけてあるカレンダーをめくった。カレンダーは七月のままになっている。九月二十一日のところに十五夜の文字が見える。そうすると今夜は十三夜。僕はもう一度窓の外を見た。
その時、目の前を右から左に何かが動いた。
その何かは雑木林の葉叢の陰で急に動きを止めた。僕の気配に立ち止まったように見える。月の光が作る、葉叢の濃い闇の中で二つの黒い影が身じろぎする。二つの影はのそりと首をめぐらせて振り向くような仕草を見せた。金色の二対の目がじっとこちらを見る。思わず僕は窓を開けようと鍵に手をかけた。その刹那、二つの影ははじかれたように月の光の下に躍り出た。
ケモノだ。
灰色の毛をした、細長い体をもった二匹のケモノが綱渡りのように、電線の上を走るのだった。直後、二匹は素早く身をひるがえし、電線近くまで伸びた太い枝に飛び移った。そのまま枝伝いに葉の茂る雑木林の奥へ逃げ込み、すぐに闇にまぎれた。
僕は何かよくないものでも見た気になって布団に潜り込み、大きく息を吸い込んだ。
黒胡椒の匂いがした。
サヤ姉の匂いだった。
翌朝、窓から見える空は秋晴れだった。起きだして窓を開けると、家の前を箒で掃いている若い女性と目が合った。女性は道に散らばる落ち葉を掃き集めていた。
「あの、失礼ですが……私、隣の者なのですが」
と、こちらを見上げる。当然の問いかけだった。
「すみません。甥です」
ああ、と納得したようにその女性は「この度は」と言った。
僕はとりあえず顔だけ洗うと、着替えて外に出た。
女性は掃除を終えていた。大きなざるを抱えて階段を、川へ下りるところだった。僕に気がつくと立ち止まって少し頭を下げた。
「たぶん、お会いしたことありますよ、昔。私、小学生でしたけど」
そう言われて僕は記憶の底をさらった。サヤ姉の隣に住んでいた小さな女の子と、家の前で何度か顔を合わせた覚えがある。サヤ姉と立ち話をする間、玄関先に突っ立って、その様子をしばらく眺めていた。どことなくふくれっ面の、口数の少ない、おとなしい女の子で、サヤ姉ばかりが一方的にしゃべっていた印象がある。名前は確か……。
「アヤです」女性が言った。「サヤさんには子供の頃からお世話になったんです。私ずっと、母と二人暮らしで」
アヤは階段を下りて川べりにしゃがみ込み、持っていたざるを水につけた。ざるの中には木の実のようなものが入っている。アヤは米をとぐような手つきで中のものを洗い始めた。
「サヤさんが亡くなる少し前、うちで飼っていたうさぎが襲われたことがあって」
アヤは洗う手を休めずに話を続けた。
「うさぎ小屋の金網が喰い破られていて、中にうさぎはいませんでした。そのうさぎをサヤさんが見つけて抱えてきてくれたんです。もう肉塊でしたけど」
ざるの中はきっと固い木の実なのだろう。じゃらじゃらと大きな音がたつ。
「うさぎ小屋は少し高いところにあったから油断してました。木登りが得意なケモノもいるんですよね。電線を綱渡りしちゃうくらいの」
「そのケモノは何て?」僕は聞いた。
「最近、この辺りに増えていて。ハクビシンっていうんです」
アヤはさらに力を込めて木の実を洗う。じゃらじゃらと鳴る音は砂利を踏むように聞こえる。その音が辺りに響く。アヤにとって手慣れた作業なのだろう、職人の手仕事のように軽快に音を鳴らす。
「そこの林で拾ったオニグルミです」アヤが言った。
オニグルミが実を落とす今の時期、子供の頃から毎年拾ってきては、こうして果皮を洗い落として殻を割り、炒って食べているそうだ。
「サヤさんも好きだったから。お酒のつまみにしてました」
「毎年一緒にクルミ拾いを?」
「子供の頃からずっと毎年。サヤさんに教えてもらったんです、採り方や食べ方。山育ちでしょう」
アヤはじゃらじゃらと砂利を踏むような音をたて続けた。
この音……。
その時僕は、つい笑いだしてしまったのだ。サヤ姉のいたずらっぽく笑った顔を思い出す。まったく。
アヤが不思議そうに僕の顔を見た。
「これ、サヤさんの仏前に供えてもらえますか」
込み上げる笑いをかみ殺して僕は「ありがとう」と言った。
サヤ姉が知っているのだから、母も食べ方を知っているだろう。
僕はサヤ姉が十年暮らした家を見上げた。ここまで来る途中、荒れ果てた空き家を何軒か見た。この家もいずれ処分しないといけないのだな。
オニグルミを洗い終わったアヤが立ち上がり、伸びをして空を見上げた。空の高いところに刷毛で掃いたような雲がなびいている。
「お彼岸になりますね」アヤが言った。
雑木林の梢を何かが揺らして、掃除したばかりの路地にまた落ち葉が降った。
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