『愛してないの?』

愛してないの? 

 ウーは苦しんで死んでいった。

 どうにかできるならどうにかしてやりたかった。床で転がり回って苦しむ彼を見ているのはとても辛かった。多分、感じやすい受川くんはもっと辛かっただろう。


 僕たちは叫び続けるウーをただ見ているしかなかった。部屋はあの方に関係のある人間以外には認知されない。だからウーがどれだけ叫んでもここには誰も来ない。そして僕たちにはあの方の契約事項に触れることはできない。だからウーに返ってきた呪いを打ち砕く方法は何もない。どうしようもなかった。見ていることしかできなかった。


 多分、人生で見たものの中で二番目くらいにきつい光景だったと思う。人が痛みに苦しみ、苦しみに苦しんで、苦しみぬいた挙句に喉を引き攣らせ、死んでいく様を見るというのは。


 時間にしてどれくらいだっただろう。とても長い間だった気がする。無力感に苛まれ続けた僕たちがやっと解放されたのは、窓の外の太陽が沈んで、辺りが暗くなってきた頃だった。もう叫べなくなったウーを見て、僕たちはため息をついた。それから、彼を見殺しにしたせめてもの罪滅ぼしのために、何かできないか模索し始めた。


「狐井。あの方に繋がれるよ」

 家の中をうろついていた受川くんが、リビングルームの片隅に置かれた棚を開いてそうつぶやいた。中には一抱えくらいの狐の石像がしまわれていた。受川くんの言うことには、どうやらそこが窓口になるらしかった。


 今更、特にできることなんてないように思えたが、しかし何かが僕たちを突き動かして、あの方との通信へと結びついた。受川くんが石像に触れると、辺りが唐突に、真っ赤になった。あの方の色だ。


「呼んだか」

 雅だった。あの方はいつでも優雅だ。妖艶な女性のように。煽情的で、美しい。

 あの方は九本の尻尾を扇のように広げていた。綺麗な毛並みの中に沈んでしまいそうな瞳が小さく煌めく。

「其方はついに決着をつけたな」

 あの方が僕を見つめる。深い色。だけど細い針のように差し込んでくる目線。

 尻尾をくゆらせながらあの方が続ける。

「復讐を遂げ、心もいくらか穏やかなのではないか」

「……いえ」

 僕は素直な気持ちを告げた。

「美咲のことを考えると、もっといい解決法があったのではないかと、やるせないです」


「まだあの女が忘れられぬか」

 あの方が嘲笑した。

「入れ込んでおるのう」

 僕は懐から写真を取り出した。美咲の写真。二人の写真。ウーをやっつけた今、歪んだ彼女の写真は元通りになっているかと思ったが……しかし依然、彼女の像はひしゃげたままだった。多分、何か伝えたいんだ。本能的にそう思った。

「あの」

 僕はあの方に願った。

「反魂香の効果を打ち消すよう、頼んでいたと思うのですが」

 あの方は小さく鼻を鳴らした。

「頼まれたのう」

「その願いを、取り下げることは可能でしょうか」

 あの方は、今度は声に出して笑った。

「ふん。余としては仕事が一つ減るだけじゃから構わんが、其方はそれでいいのか?」

 また女の影につき纏われるぞ。しかしあの方の言葉を待たずに僕は返した。

「いいんです。もう」

 ちらりと受川くんを見てから、僕は続きを口にした。

「もうやめることにしたんです」

「何を?」そう問うてくるあの方に、僕は答えた。

「自分に嘘をつくのを」

 あの方が再び、ふふんと鼻を鳴らした。


「会うがよい」

 九つ並んだ尻尾の内のひとつをゆらりと、地に伏せる。

「最愛の妻じゃ」

 次にあの方が尻尾を持ち上げた時、そこにいたのは美咲だった。巫女装束に身を包んだ、綺麗な美咲だった。

「白治くん」

 彼女が僕の名を呼んで笑った。ああ、僕は、それだけで。

 それだけでとても幸福な気持ちになれた。今まで必死に避けていた反魂香の力だったが、しかしいざ封印を解いて接してみると、やはりこれ以上に甘美な経験はなかった。もう会うことが叶わない存在と会うことができる。目に網膜に視神経に、彼女を映すことができる。幸せだった。こんなに胸が熱くなったのはいつぶりだろう。


「狭間の空間だから、お話ができるね」

 そうか。ここは現実じゃないから。

 現ならざる空間だから、美咲と話もできるのか。

 受川くんの家系は一世代につき一回しかできない秘術だから。

 ウーは僕にこの石像のことを隠していたから。

 あの方の影響が強い空間で、美咲と会うのは初めてのような気がした。いつもは僕の頭の中か、僕の念が作り出した歪な空間でしか会わないから、会話なんてとてもじゃないが叶わなかった。

 こういう会合の形があるなら、最初からこう願えばよかったのか。

 自分の愚かさが嫌になったが、今はそんな自己嫌悪に浸っている場合じゃなかった。

 だって美咲が、いるのだから。


「美咲、ごめん」

 僕は謝った。

「仕返しをしてしまった。人を一人不幸にした。不幸なまま死なせてしまった」

 美咲は黙っていた。黙って僕を見つめていた。

 やがて彼女の視線に耐えきれなくなった僕は、再び口を開いた。

「僕は、駄目だな」

 しかし自戒の言葉が出た頃になってようやく、美咲が小さな声を発した。

「駄目じゃないよ」

「でも」僕は言葉を返す。

「例え憎い相手とはいえ、僕は人を不幸にしたんだ。人を幸せにするために命を捧げた君とは、どうやったって釣り合わない」

「そんなことない」

 美咲の声は静かだった。

「不幸にすること、あっていい。また幸せにしてあげられるなら」

「もう幸せにはできないんだ」

 僕はウーのことを思った。もがき、苦しみ、死んでいった友人。

「死んでしまった。逝ってしまったんだ」

「じゃあ、白治くんはもう私のことを幸せに出来ないっていうこと?」

 そう訊かれて息を呑む。そして自分がすべきことに気づいた後、僕はおかしくて、つい笑ってしまった。

「そうか。そうだな」

 美咲が笑う。

「そうだよ」


「仲睦まじいのう」

 あの方の声が聞こえる。

「反魂香のことなど忘れて永遠に添い遂げたらどうじゃ」

「そうしたいのですが……」

 僕は美咲の手を取る。

「僕と美咲は、もう世界が違ってしまっているので」

「それでも其方は女を現に呼んだのであろう。反魂香の効果を打ち消してもなお、心の奥底で妻を望み、その力がまた妻をこの世に縛りつけた。余はもう反魂香をどうにかするつもりはないが、其方の心が呼ぶならまたその女を苦しめるぞ」

「ええ。でもそれももう、終わりにします」

 美咲。僕は彼女の名前を呼ぶ。


「また会おう」

 彼女は微笑む。

「うん」

「僕は必ず、君の元へ行くから。どれだけ時間がかかっても、必ず」

「うん」

「まぁ、どれだけ時間がかかっても、っていうのは正確じゃないか。人間には寿命があるし、逆に言うとその分だけの時間はどうしても決まってしまうけど」

「うん」美咲がおかしそうに笑う。僕は何で笑うんだよ、と小さく問う。


「ううん。白治くんはいつでも、誠実だなぁって」

「詐欺師だぞ」

「もう足を洗ったでしょ」

「人を騙す」

「そう。騙す。騙していい方向に導く」

 それに、と彼女は続けた。

「嘘つきなら、私に『愛してる』って言ったのも、嘘になるの?」


 愛してないの? 

 彼女が訊いてくるから、僕は答えた。

「愛してるよ。心から」

 だから、と続けた。

「僕が死んだら、必ず君の元へ行く。待っててくれ。未来で」


 それから僕は、ハッキリとあの方を見つめた。鋭いまなざしが僕を捉えた。


「質問があります」

「何じゃ」

「あなたと関係を結んだ者にしか認知されない術……これを解く方法はありますか」


 するとあの方は唐突に、カッと目を見開いた。まるでこちらを飲み込むような鬼気を見せたかと思うと、しかし次の瞬間、声を上げて笑い始めた。あーっはっは、という風に。


「先程あの者に脅しをかけたところじゃ。『未来永劫、其方の魂は報われない』とな」

「その呪いを解きたいと思います」

 僕は再び真っ直ぐあの方を見つめた。

「術の解き方を」


「木簡の文字列を乱せばよい。適当な字を末尾に足すなり何なりすればよかろう」

 訳もなさそうにあの方が告げた。

 そうか、それで、たったそれだけで終わるのか。

 気持ちが落ち着くのと同時に、胸の中に少し余裕ができた。余裕は視野を広げてくれた。

 そうだ、と僕は思い付きを口にした。

「失われたウーの魂を代償に、何かできますか?」

「奴の魂を代償に?」

「はい。呪い返しとは言え、命をひとつ捧げています。命ひとつ分の願いは、聞き入れてもらえないでしょうか」

「苦しゅうないがの」

 あの方はやはりつまらなさそうだった。僕はそんなあの方に向かって願った。

「今しがた、狐眼の呪いに使われそうになっていた動物がいたと思います。犬か、狐か。どちらか、あるいは両方、まだ息があるなら、生かしてもらえないでしょうか」

 ふん、とあの方が微笑んだ。

「……狐の方がまだかろうじて生きておる。其方は熱心じゃのう。また余の同胞を救ってくれるか」

「徳を積んでおいて損はありませんから」

 あの方が目を細くして僕を見つめた。

「よかろう……それ以上用がなければ帰るが」


「白治くん」

 美咲が、別れを惜しむような顔をした。

「やっぱり、あなたが夫でよかった。こんなに誇らしいことはないよ」

 僕は笑った。

「その感想、僕の方が先に抱いていたからな」

 くすり、と美咲が破顔した。

「そうだったね。ごめん」

「謝るなよ」

「ごめん」

「いいって」


 それじゃあ。僕は彼女の手を離した。

「また会おうね、美咲」

「うん。また」

 視界が急に滲んできた。赤い空間がぼんやりと霞んでいく。そして次に気が付いた時には、僕と受川くんは、ウーの部屋にいた。


 少しの間余韻に浸ってから、僕たちは動き出した。

 友人のためにやることがあった。

「あったよ。この木簡だね」

 しばらくウーの部屋を捜索して、例の木簡を見つけた。あの祠にあったのと同じ、崩されて原形が分からない漢字が綴られた、細い木の板。

「付け加える文字は何がいいだろう?」

 僕が受川くんに訊ねると、彼は小さく答えた。

「『阿』なんかがいいだろう。『ああ』とか『ええ』とか、気がない返事を表すような言葉だ。術を砕くのにちょうどいい言葉のように思う」

「ペンでいいか」

 僕は内ポケットからペンを取り出した。受川くんがそれを受け取る。


「阿」と木簡に記す。途端に何かが、晴れた気がした。淀んでいた空気が流れだしたというか、止まっていた時が動き出したというか。

 術が解けたのだろう。これでウーも報われる。ウーの魂も救われる。実際のところ、彼は地獄に行くのかもしれないが、しかしどちらともつかぬ場所で永遠に縛りつけられるのよりは、よかったのではないだろうか。自己満足みたいな納得だったが、しかし気持ちは晴れた。やれることはやった。そういう実感があった。


「警察を呼ぼう。諸々の説明は狐井に任せればいいかい?」

「何とかしてみよう。口先は僕の武器だしな」

 ニヤリと笑うと、受川くんが部屋の端にあった大きめの箱を示してきた。

 まず目についたのは犬の死骸だった。かわいそうに、後頭部を抉られている。

 しかしその向こうに、命があった。くんくんと鼻を鳴らして、こちらの様子を窺っている。


「この箱の説明をつけるのは大変だろうに」

 笑う受川くんの隣で僕はつぶやいた。

「腕の見せ所さ」


 警察への連絡は僕がした。

 ウーの死亡は、それから二時間後に確認された。



 とある町の小学校。

 その裏手にあるちょっとした山の中に。

 小さな神社がある。お稲荷さんを祀る神社なのに鳥居は赤くもなく、ひとつしかない。でも妙な神聖さはあるその神社に、僕がいる。まぁ、正確には受川くんの神社で、僕がいるのはおまけみたいなものなのだが。


「助けてください」

 女子高生だろうか。セーラー服姿の女の子が、荒い息をそのままにそう求めてきた。彼女は口早に状況を説明した。

「お母さんが毎週日曜の夜中に出かけるんです。隣の空き地に行ってるみたいなんですけど、じっとブロック塀を見つめて……」

 ああ、と僕は片手をひらひらさせて、女子高生の話を遮る。それから告げる。


「いくら出せる?」

「……は?」

「だからいくら出せる?」

 もっともこれは、相手の本気度を探る質問。


 お金なんてとらないさ。よほどやばい奴じゃない限りね。

 だって徳を積めば、いつか会えるかもしれない。

 死んだ後に、美咲にね。


 だから今日も、僕は嘘をつく。金額のことは「手始めの」嘘だ。


「こ、これくらいなら……」

 彼女が金額を示してくる。僕は笑う。そうか。彼女は本気だ。


「僕のことはコンって呼べ」


 さて。

 仕事の時間だ。 


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カタラレリスト ~詐欺師が騙した幽霊たち~ 飯田太朗 @taroIda

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