6-5. 望んだ結末
チャイムが鳴った。それはあってはならない事態だった。
しかし、鳴った以上は、何かがあったのだ。その何かには対処しなければならない。
「はい……」
インターホンでチャイムに応じる。それが正統的な対処の仕方だろう。受話器を耳に当てると、電子の乾いた音が鼓膜を引っかいた。やがて聞こえてくる、懐かしい声。
「息子よ」
驚く。
「息子よ」
私は慌てて玄関へと向かった。ほとんど押し飛ばすようにしてドアを開ける。すると、その先に、立っていたのは。
薄っぺらいダウンジャケットに身を包み、ボロボロのデニムを履いた、禿頭の、中年の男性。
私の父だった。懐かしい、かつての父だった。
「父さん……」
声にならない。思わず口を覆う。何を言ったらいいか、どういう行動を取ればいいのか、分からない。全く何もかも、全てが理解できない。
でも、とにかく。
「上がってよ」
父を招く。父は静かに微笑んで私に従う。
部屋は綺麗だった。よかった。掃除をしていたのだ。もっとも掃除はロボット掃除機に任せっぱなしなので、私が特に何かをしたわけではないのだが、よかった。父を綺麗な部屋に呼ぶことができた。
「座ってよ」
父に椅子を勧める。父は黙って座る。
「今、お茶を淹れるね」
カウンターキッチンの向こう側に立つと、私は急いで家にあるお茶の中で一番いいものを選んで湯を沸かした。水が沸騰するまでの間、私は黙って父を見た。父も私を見つめた。
湯が沸く。私はお茶を淹れ、持っていく。
「息子よ」
私が茶碗を置くと、父は静かに目を伏せた。私は訊いた。
「どうしたの、父さん」
父は答えた。
「悲しいのだ」
「悲しい?」
父は頷いた。
「悲しい」
私は訊ねる。
「何が?」
「お前が復讐に囚われてしまったことが」
私は姿勢を正した。これはきっちり言っておかねばならないと思ったからだ。
「あの一族は父さんにひどいことをした」
父は黙っていた。
「父さんにだけじゃない。外国人だからという理由で色々な人にひどいことを……」
「悲しいのだ」
父は繰り返した。
「ただただ悲しい」
「どうしてだよ」
私は声を荒げる。
「間違ってるのはあいつらだろ。何で私が、何で父さんが……」
「もうよい」
唐突に声がした。低くて、重厚で、だが神聖な。
「まだ気づかぬか」
振り返る。そして、分かる。
箱だ。箱が置きっぱなしだった。狐眼の呪いに使った箱が。まずい。父を招いた部屋にあんな汚らわしいものが置いてあったら……と思ったのと同時に、気づいた。
箱の上に、狐が……。
「まだ気づかぬか」
それは迫ってくるというよりは、何だか諭すような言い方だった。母親がいたずらをした幼子に、「これはしてもよかったことかな?」と問いただすような、そんな慈愛に溢れた口調だった。
「其方はもう死んでおる」
あの方だった。コンさんが「あの方」と呼ぶ神。狐仙がそこにいた。
いつの間にか、箱に乗るような小さな狐だった存在が、立派な九尾の化け物に変身していた。長い尻尾をくゆらせながら、狐仙がつぶやいた。
「自分の死にも気づかぬとは、憐れな……」
「自分の死?」
私は繰り返す。そして笑う。
「何を……私はこうして……」
と、手を見る。しかし、その手は。
白くて細い。それが骨だと気づくのに時間はいらなかった。思わず声を上げてその場に座り込む。背後で父がため息をつくのを感じた。
「気づかぬのなら、見せてやろう」
狐仙が尻尾を揺らす。
「今一度、其方の今際の際を」
*
チャイムが鳴った。それはあってはならない事態だった。
私の部屋には特殊な術をかけていた。狐仙と結びつきのある者にしか認知されないという特殊な術が。それ故に私は玄関のドアに鍵をかけることの方が稀だったのだが、しかし今回はそれが災いした。来訪者は何の障害もなく私の部屋に入ってきた。
身構える。先程犬を殺した大振りの包丁を持って部屋の入り口を睨む。やがてドアが開いて、中に二人の人影が入ってきた。そして私の心臓は凍り付いた。
入ってきたのはコンさんと受川さんだった。
「ひどい……」
受川さんの顔面は蒼白だった。
「これはひどい……」
「立てるか」
コンさんは受川さんの腕をつかんでいた。
「無理するな。霊感のない僕でも嫌な気分になる部屋だ。しんどかったら外で待っていろ」
「そうはいかないよ、狐井」
受川さんは静かに返した。
「長年の戦いに決着がつくんだ。美咲さんの分も私は事の成り行きを見つめておかなければ」
ここにきて、私は自分の口が間抜けな鯉のように喘いでいることに気づいた。
私は何とか言葉を紡いだ。
「ど、どうしてここが……」
するとコンさんが答えた。
「カタラレリストだ」
言っている意味が分からなくて私は沈黙を守った。するとコンさんが痺れを切らしたように続けた。
「僕に騙られた者のリスト。だから『カタラレリスト』だ。詐欺師が騙した幽霊たち。その関係者に当たった。『奇妙な噂を知らないか?』『例えば、辿り着けない部屋、というような』」
すると……と、コンさんは続けた。
「協力してくれた。まずは『一人にするな』という幽霊に襲われた姉弟」
コンさんが人差し指を折る。
「『遊びに来たよ!』という親友に再会できた女性」
また指を折る。
「『リスキーゲーム』に巻き込まれた青年」
ふう、とコンさんは一息入れる。
「『つけっぱなし』の幽霊に悩まされた女性」
それから、最後に。コンさんはそっと続けた。
「『天邪写』の呪いの巻き添えになった家政婦。彼らが僕に協力してくれた。結果、三件ほど候補が挙がった。まずひとつ」
と、コンさんがポケットからスマホを取り出した。すっと画面をスライドさせて、読み上げる。
「『市外れの廃病院。開かずの間から呻き声が聞こえる』。受川くんに見てもらった。ただの地縛霊だ。呪いの術師は関係ない」
それから、と続ける。
「『行けない教室。とある小学校のある教室には、特定の時間だけ入れないことがある』。これは『一人にするな』の子供が調べてくれた。単に用務員さんが一服するために教室を締め切っていただけで、幽霊の類ではなかったそうだ」
最後に。コンさんがこちらを見つめる。
「『いない隣人』。このマンションの話だ。隣の部屋から異臭がするのだが、隣人はつい最近引っ越してしまったから誰もいない。それなのに隣のベランダから血が流れてきていたり、夜中に獣の声が聞こえたりする。まぁ、直感的にこの件が本命だなと僕は思った。『流れる血』『獣の声』という要素が狐眼の作り方と合致するし、僕が探していた条件に最も一致しそうな案件だったからだ」
僕が探していた条件、というのは……と、コンさんが続ける。
「『何故か認識できない空間』についての情報だった。この発想に思い至った理由は、先日のチャブの一件だ。相見麗良のあの言葉。『祠……? 分かりませんけど』。それだけじゃない。『髪紐がちぎれたところには何か目印がなかったか?』という僕の問いに対し相見麗良は『なかった』と答えた。だが実際にその髪紐が切れたのであろう場所に行ってみると祠があった。しかしその祠を前にしても相見麗良は首を傾げていた。彼女にはあの祠が認識できなかったんだ。おそらく、だが、あの祠には『紐が切れる』以外にも何か特殊な術が仕掛けられている。で、受川くんの出番だ。例の祠に行って調べてもらった。その結果、次のようなことが分かった」
「あの方と結びつきのある人間にしか認識されないような術がかけられていたのです。ほら」
と、受川さんが懐から木簡を取り出した。
特殊な文字を特定の順番で書いた木簡。かなり古いもののようで、私の家にあるものよりずっと古ぼけていたが、しかし間違いなくあの木簡だった。私を外敵から守るはずの木簡だった。
「この木簡があの祠には置かれていました。……これはおそらく、の話で、完全に憶測の域を出ないのですが」
この木簡を作られたのはウーさんのお父様では?
その一言が雷のように私を貫いた。ショックでまともな思考ができない状況の私に、コンさんが続けた。
「僕と受川くんにはあの祠が認識できたんだ。だって『あの方』と結びつきがある人間だから。しかし相見麗良は狐眼の呪いに遭ったとはいえ狐仙と直接的な関係は結んでいないから祠が認識できなかった。さて、ここで冷静に考えるべきだと思うんだが……」
コンさんが息を継いだ。
「チャブの首輪の呪いをかけた人間は、長い散歩道の中の特定のポイント、あの祠の周りに『紐が切れる』呪いを施していた。これは術者が祠を認識していないとできないことだ。まぁ、もちろん偶然祠の近くに呪いを張ってしまったという説は否定できないが、そもそも『常人には認識できない空間』に、例え偶然とはいえどうやって呪いを施せるのか? という問題はどうしても発生する。術者はあの祠を認識できていたと考えるのが妥当。そして、この日本という国において、狐仙という中国の神様と繋がりがある人間はほとんど限られる。例えば僕。例えば受川くん。そして例えば……」
君。
歯噛みしていた。気づけば私は奥歯を噛み砕こうとしていた。声が出た。唸り声が。獣のような。低くて汚い、黒い声が。
「人を呪わば穴二つ、という諺がありますね」
受川さんが、静かに告げた。
「狐仙との呪いの契約には特徴があります。呪っている事実と呪いの内容とが第三者にバレると呪いの内容が術者に返ってくる。つまり、あなたは、もう……」
黙れええええええええええええええ!
私は叫んでいた。私は手にした包丁を振り上げていた。
「お前らが死ねば問題はない! お前らが死ねば、私の呪いを知った第三者というのは存在しないことに……」
もう遅い。
不意に声が聞こえた。頭上から。いや、腹の底から。
途端に背骨が大きくひしゃげた。体が反り返るのを感じた。痛みは直後にやってきた。筋肉の繊維ひとつひとつを剥がされるような、内臓をかみちぎられるような、毛穴のひとつひとつに熱した油を流し込まれるような、神経の節と節を針で刺されるような……!
あああああああああああああああ!
私は絶叫した。この世の果てまで声よ届と言わんばかりに絶叫した。天と地が何度も入れ替わった。七転八倒しているのだということには後になって気が付いた。全ての反応が遅れていた。ただ目の前にある激痛という現実に、何もかもが持って行かれていた。
「私はぁっ! 私はぁっ!」
叫ぶ私にコンさんが告げた。
「復讐か? あの一族は外国人差別をする人間らしいからな。おそらくは君の家族か、友人かが、あの一族に虐げられたか。君がしたのはその復讐か」
歯を、唇を、必死に食いしばって痛みに耐える。何とか、やっとのことで、恨みを込めた目でコンさんを睨みつけると、私は続けた。
「そうだっ……復讐だぁっ……あの一族への、あの家族への、恨みを、憎しみを、怨念を、ただ晴らそうと……それだけを……」
「そうすべきじゃなかった」
コンさんは静かに続けた。
「復讐なんて、しない方がよかったんだ」
「そんなのは綺麗事だぁっ!」
私は肺が張り裂けそうなほど叫んだ。
「復讐をして何が悪い? 仕返しをして何が悪い? 復讐なんてやめろ? では被害者が一方的に損を被れと言うのかっ? そんなの間違ってるじゃないかっ! 誰だって平等に、人間らしく生きる権利があるのに、それを侵害されたら、防衛する権利が……」
「それとこれとは話が違います」
受川さんが悲しそうにつぶやいた。するとコンさんが続いた。
「君は世界をよりよくすべきだった」
ひたすらに苦しみぬく私の上で、コンさんは冷静だった。
「与えられた負の感情を発散するなとは言わない。やられたらそのやられてしまった感情をどこか別の方向に向けてもいいし、何なら加害者の側に向けても構わない。だが方法はある。仕返しはいいやり方じゃない。君の涙を涙で返したら、結局二人が泣くだけだ。泣いた分だけ誰かを笑顔に出来たら。そう考えることは、できなかったか」
まぁ、できなかったんだろうな。
コンさんは自分の言葉を否定した。
「僕だってできなかった。今もできない。できないからこうして君に仕返しをしている。でも僕が愛した女性は、それができる人だった。受けた被害をプラスに変えて誰かに送れる人だった。僕もそうなりたかった。君がこんな目に遭っている今、それはもう、叶わないのだが」
叫び続ける。叫ぶ他ない。
死ぬのか? 私は死ぬのか?
いやだああああああああああ!
*
「あああああああああああああああああ!」
私は叫びながら戻ってきた。頭を体を掻きむしる。痛い、痛い、痛い、痛い……!
「思い出したかの」
狐仙がつまらなそうに告げる。
「其方は痛みのあまり死んだのじゃ」
「なんでえええええ! なんでええええええ!」
「かわいそうじゃのう」
狐仙は淡々と続けた。
「其方が死んでも、あの部屋にかけられた術は誰かが解かねばずっとあのままじゃろう。其方の死体は誰にも認知されない空間でひたすら腐っていく一方じゃ。いや、虫にも認識されないからただただ干からびていくだけかの。何にせよ、其方の魂は報われん……」
「どうしてっ、どうしてええ……」
私は悶絶しながら訊ねる。
すると狐仙が答える。
「あの者は其方の狐眼の呪いで妻を亡くした。その借りを、返したのじゃ」
ふう、と風が吹いた気がした。
「やられたらやり返す。因果応報。自業自得」
静かに、聞こえた。あの方の声が。
「其方が望んだ結末じゃの」
遠いどこかで誰かが泣いている気がした。
それが父だと気がつくのに、時間はかからなかった。
——『望んだ結末』 了
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