終章: 春来る

終章: 春来る



 日差しが徐々に明るくなり、晴れの日が続いた。凍っていた滝が融け、水の流れるかろやかな音が〈マオールブルク〉城をつつんだ。

 ティアナの花園ではユキワリソウ(プリムラ)が紅色の可憐な花をさかせ、クロッカスが紫の花弁をのばし、スイセンは陽光をあつめて金色に輝いた。白樺の月(一月)が過ぎ、ナナカマドの月(二月)が近づくと、家畜小屋のなかで動物たちの出産がはじまった。


 城内はにわかに忙しくなった。毎日毎日、羊が、豚が、馬と犬たちが、次々に子どもを産む。厩舎係の男たちだけでなく、下男と侍女たちも、ティアナとクレアも世話にかりだされた。陣痛にくるしむ牝羊の腹をさすり、乾いたきもちのよいわらを用意する。産まれた赤ちゃん羊と仔豚たちの体をき、乳をしぼって与える。クレアは馬と大型の猟犬には近づけなかったが、ベエベエ騒がしい赤ちゃん羊たちの可愛さに魅了されていた。


 そして、イ・ムボルグ(早春の祭り、浄化祭)の日がやってきた。


 死のけがれをはらい、新しい生命の誕生を祝福するこの日は、地母ネイ神の娘であるかまどの女神を称える日だ。家長の男性が緑の灯心草シェージャを刈りに行き、家族全員でそれを編んで右回りの『太陽の飾り』――三つ巴や菱形などをこしらえる。完成したものを炉の上に飾り、夜は篝火を焚いて春の到来を祝う。

 〈マオールブルク〉には家長の男性はいないので、例年ウォードかライアンが灯心草を刈っていた。今年も、祭りのためにグレイヴ伯爵がクルトを連れて来てくれた。


 干し林檎と蜂蜜を入れて温めた葡萄酒が配られ、かぶとニンジンと肉団子の葡萄酒ワイン煮込み、甘酸っぱいベリーソースを添えた腸詰め肉の燻製、大蒜にんにくとオリーブオイルでソテーしたカワカマス、プラム(西洋スモモ)と胡桃を練りこんだ鶏肉のパイなど、女主人の心づくしの料理が長卓テーブルにならんだ。食後、城の人々は広間で『太陽の飾り』をつくり、クレアは歌を披露した。みな、無事に春を迎えられたことを心から喜んでいた。

 翌朝はふもとの村から人々がやってきた。まだ雪の残る丘を、編んだ灯心草を掲げ、歌いながらのぼってくる。彼らはティアナ女大公に挨拶をすると、城の前の広場に集まり、去年の『太陽の飾り』を燃やして今年の健康を祈った。

 食料の乏しくなるこの時期は、領民に新しいパンを配り、子ども達の健康を確かめる日でもある。ささやかな祝祭が終われば農作業が始まるのだ。



 祭りが終わると、クレアとクルトはライアンを誘い、ティアナ女大公の居間に集まった。ゲルデが香草茶を淹れ、チーズのトルテ(タルト)を持って来てくれた。『チビ』は閉め出され、ライアンの愛犬・ネルトとブランに遊んでもらっている。

 クルトはかるく咳払いをして、ティアナ叔母に向き直った。


「叔母上……いえ、。結婚していただけませんか?」

「え?」


 ティアナはお茶のカップを手に、瞬きをくりかえした。ライアンが慌てて言う。


「待て、クルト。ティアナ様は実の叔母君だぞ」

「違いますよ」


 クルトは笑って首を振った。クレアと目くばせをして続ける。


「ぼくではありません。叔母上に、グレイヴ卿と、結婚していただきたいのです」

「なっ……」


 今度はライアンが絶句する番だった。ぽかんと口を開け、ティアナを振り返り、再びクルトを観て、ぱくぱく口を開閉する。一方、ティアナは真顔になって子ども達を見返した。

 クルトとクレアは顔を見合わせ、クレアが話をひきとった。


「わたし達、セルマかあさまが仰ったことについて話し合ったの。わたし達もエウィンおばあさまと同じ孤児だけど、なにが幸せかを知っているわ。それは、おばさまとライアンおじさまがいて下さったからよ」

「お二人が、ぼく達の両親です」

「わたし達、幸せに育てていただいたから、おじさまとおばさまにも幸せになって欲しいの。お二人が結婚して、本当の両親になって下さったら……それで従兄妹いとこが、ううん、弟か妹が産まれてくれたら嬉しいなあ、って」


「二人の気持ちは分かったが、その……ええと、」

 と言いかけるライアンを遮り、ティアナは単刀直入に訊いた。


「いいの?」


 ライアンが目をむき、ティアナを凝視みつめて黙りこむ。ティアナは彼の反応には構わず、真摯にくりかえした。


「いいの? あなた達。クルトが大公をげるようになるまで、まだ四年あるのよ。私が先に結婚してしまって、大丈夫?」

「それは勿論、ひきつづきご指導いただきたいですが――」

 クルトは微笑をかみころした。

「結婚したらそれが出来なくなるわけではないでしょう、叔母上。ぼく達は家族になりたいのです。家族になって、より近い距離にいていただきたいのです」


 ティアナは手元のカップを見下ろして考えこんだ。


 ティアナ叔母は幼くして〈山の民マオール〉の国へ預けられ、人の世に戻ってからは、十年以上、亡き姉セルマの代わりに子ども達の母として、女大公として城をきりもりしてきた。彼女が個人の幸福をあきらめ、生涯独身でいようと決めていてもおかしくはないと、クレアとクルトは思う。

 しかし、ライアンがずっとティアナを想い、彼女と自分達を支えてきてくれたことを、子ども達は知っていた。このままティアナが独身を貫けば、伯爵は別の女性を妻に迎えなければならないが――それは、想像するだにクレアの胸を締めつけた。

 それに――クルトは思う。ライアンはセルマを守れなかったことを悔み、「アルトリクスに会わせる顔がない」 と言っていた。アルトリクスは彼に子ども達の将来を託し、セルマは 「ティアナをよろしく」 と告げていった。あれは、両親の思い遣りだろう。


 ティアナは小声でひとりごちた。


「いいのかしら。私が決めてしまっても……」

「おばさまの幸せは、おばさまにしか決められないわ」


 クレアが微笑む。ティアナは少女のごとく頬を染めてうつむいた。


「でも、私はもう、三十歳よ」

です、お嬢様!」


 ゲルデがぴしゃりと言った。口調は厳しいが、気丈な侍女頭の目に涙が浮かんでいることを、クレアは見逃さなかった。


「そんなこと、グレイヴ卿はせんから承知しておられます。世間には家名や財産をねらって四、五十歳の貴族の女性と結婚するやからもいますが、グレイヴ卿がそうでないことはご存じでしょう。何の不服があるのですか」


 ゲルデはティアナの耳に口を寄せ、早口に囁いた。


「年齢をお気になさるのなら、これ以上お待たせするべきではありませんよ」

「そうよ! おじさまがいいって仰っているんだから、気にすることないわ」

「愛しておられるのでしょう?」


 クレアとクルトに畳みかけられたティアナは、さらに真っ赤になって黙りこんだ。

 いたたまれなくなったライアンが、げほごほとわざとらしく咳をして口をはさんだ。


「そのう、クレア。クルト、ゲルデ殿も……すこし黙って下さらぬか。私が話すことがなくなってしまう」


 三人はぴたりと口を閉じ、期待をこめてライアンを見上げた。

 ライアンは上衣チュニックの裾で手をぬぐい、窓の外にのどかに浮かぶ雲を眺め、織り機にかけられた経糸たていとの数を数えた。絨毯にならぶ羊毛の籠を親の仇のごとく睨みつけ……ふいに、肩を落として溜息をついた。ティアナの正面にゆっくりひざまずき、右手を己の胸にあてる。


「花束のひとつも用意しておらず、申し訳ないのですが……。ティアナ様――我が君」


 すうと息を吸って止め、鮮やかな新緑色の瞳で、ひたとティアナを見詰めた。


「私と結婚して下さいませんか。一緒に幸せになりましょう」

「……はい。宜しくお願いいたします」


 ティアナが消え入りそうな声でこたえると、ライアンは目を閉じて両手の拳をかため、それを小さく振って嬉しさをかみしめた。クレアは歓声をあげて彼に抱きつき、クルトはほっと息を吐いた。ゲルデは手の甲でしきりに涙をぬぐっている。


 その時、


「なに? 結婚じゃと?」


 人間たちの足下からしわがれた声があがり、ライアンは跳びあがった。クレアが瞳を輝かせる。


「ジョッソ、グウィン! いらっしゃい!」

「お久しぶりです、ジョッソ殿。お元気そうで何よりです、グウィン殿」

「おはよう、クレア。クルト、お久しぶり」


 ティアナの顔から緊張が消え、頬がゆるんだ。


「グウィン、ジョッソ。貴女たち、まだ外に出るのは早くない?」

「おはよう、ティアナ。気になったから早めに来たのよ」


 グウィンはふわりと冬毛をふくらませ、白い髭を揺らして笑った。ジョッソはひくひく鼻を動かして、ライアンに詰め寄る。


「聞き捨てならぬ言葉をきいたぞ、アドラーの子。おのれ、わしらのらぬ間に、何を勝手に話を進めておるんじゃ」

「こんにちは、ジョッソ殿。いや、これは、その――」


 ティアナが涼やかな声で宥める。


「私が決めたのです、ジョッソ。どうか認めて下さい。私は、グレイヴ卿とともに生きて参ります」

「……ぐぬぬぬ、ぬおぉ~」


 ジョッソはの体に似合わぬ声で呻吟しんぎんすると、いまだひざまずいてるライアンの額に自分のオデコを押し当て、せいいっぱい威嚇した。


「この雛鳥ひよこめ! 覚悟せよ。わしのティアナを泣かせるようなことをしたら、一族郎党を率いて、おぬしの巣のある山を穴だらけにしてやるからな!」

「それは……非常に困ります、ジョッソ殿」

「父さんったら。いい加減にしてよ、もう」


 ライアンがたじたじとなって両手を挙げ、グウィンが呆れ、ティアナとクルトとクレアが笑っていると、窓から陽気な声が入ってきた。


「結婚ですか? やあ、それは嬉しいな。ご馳走が食べられる」

「…………!」


 その場にいた全員が、一斉に振り向いた。


 開いた窓から風にのって来た闖入者ちんにゅうしゃは、濃い褐色の毛織の外衣マントを翻し、ひらりと長椅子ベンチの上に降り立った。少年とみまごう華奢な体に白皙はくせきの美貌、さらさらの黒髪は顎の下の長さで切りそろえられている。胸には木の葉をかたどった黄金の留め金フィブラがきらめき、襟と革長靴ブローガ・アーダには赤い房飾りが揺れていた。


 クルトは、ライアンも、思わず立ち上がった。


「レイヴン卿!!」

「はーい。わたしです、クルト坊。クレア嬢もティアナ様も、グレイヴ卿もゲルデ殿も、ごきげん麗しく。〈山の民〉のお二人、お久しぶりですね」


 気取った身振りで挨拶をする魔術師を、ライアンは呆れて眺めた。


「貴公、〈約束の国ティール・タリンギレ〉へ行ったのではなかったのか?」

「行きましたよ。ちゃんと、ウリンの人々とアーエン姫をお送りしました。アルトリクス様とセルマ様、ついでに〈影の王〉も、あちらにおられます」


 クレアが小走りに駆け寄り、黙ってレイヴンに抱きついた。彼の肩に顔をうずめ、しゃくりあげる。レイヴンは紫の眸を軽くみひらいてから、少女の背を撫でた。

 ライアンが続けて問う。


「アーエン王女をアリル公の許へ連れて行けば、貴公の呪いは解けるのではなかったのか?」

「それがですねえ――」


 レイヴンは、片手でクレアの肩を抱きながら、もう一方の手をひらひらさせた。


「アリル公とアーエン姫をお逢わせしたら、二人ともすっごく喜んでくださって、ご褒美に現世で暮らす寿命を授けてくださったのです。『これまで迷惑をかけた年月の分、好きに暮らせ』 と。さらに 『アイホルム家を守護する専属の魔術師となって、子孫を導いてくれ』 と、お二人から合計五百年の時間を頂きました」

「五百年?」


 クレアは驚きのあまり泣くのをやめ、クルトとライアンは顔を見合わせた。ジョッソとグウィンも、ティアナとゲルデも言葉を失っている。

 やがて、ティアナが気をとりなおして微笑んだ。


「……では。また私たちと一緒に暮らせるのですね、レイヴン卿。おかえりなさい」

「宜しくお願いします、御方おかたさま。あ、ご結婚おめでとうございます」


 とってつけたような祝辞に、ティアナは声をあげて笑い、ライアンは苦笑した。クレアは再び彼をぎゅっと抱きしめ、うれし泣きしながら笑った。


 窓の外でロン(クロウタドリ)が鳴いている。ライアンは 「こんな奴が専属の魔術師になって大丈夫か?」 と目で問うていたが、クルトは幸せな気持ちで春を告げる小鳥の歌を聞いていた。






『塔の上のレイヴン』第一部:「魔犬と少年」 

   ~了~


ここまでお読み下さり、ありがとうございました。

第二部へ続きます。

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塔の上のレイヴン 石燈 梓 @Azurite-mysticvalley

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