第五章 魔犬と少年(6)
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翌朝、〈マオールブルク〉城に今年最初の霜が降りた。
クルトとライアンとアゲイト、ティアナとウォードとゲルデは、あらためて主塔の東側の花畑を訪れた。クレアは〈山の民〉のグウィンとジョッソとともに、女大公の居間にこもっている。傷つき弱った 『チビ』 を介抱するためだ。仔犬は魔力を失っていると、グウィンは言った。
踏み荒らされた土に
ティアナはエウィン妃の墓石が傾いているのを見つけ、ライアンに直してもらった。クルトが神妙な表情で母の墓の前に立っていると、マハスがやって来て隣に並んだ。
「……そんな大変なことがあったんだ。大丈夫か? クルト」
昨夜、マハスとトレナルは、クルト達を追いかけて城に戻ったものの、見えない壁のようなものに阻まれて、この場所に近づけなかった。何も観えず聞こえず、クルトの母と祖母の幽霊が現われたことも、〈影の王〉との闘いがあったことも知らなかった。
おそらく、父(アルトリクス)が結界を築いていたのだろう、とクルトは考えた。奇妙な話をマハスが疑うことなく信じてくれ、彼の身を案じてくれるのがありがたい。
クルトは、にこりと微笑んだ。
「うん。大丈夫だよ、マハス」
トレナルは別のことを心配していた。凸凹になった土の表面を、革靴の底をつかって
「それでは、〈影の王〉は消えたわけではないのですね。アーエン王女も。また戻ってくるということはありませんか?」
「それはなかろう」
ライアンは、自分の
「――アルトリクスとレイヴン卿のわざが上手くいけば、二人はウリンの人々を解放し、ともに〈
「成功していれば良いですね。確かめる術はありませんか?」
「難しいな」
ライアンは眉間に皺をきざみ、クルトとアゲイトを交互に見遣った。
「ウリンへ行くには、満月を待たなければならない。今の季節は無理だ。暖かくなってから海に潜り、たどり着けるかどうか……。ウリンの人々が閉じ込められていても、今の俺たちにはどうしようもない」
それから、クルトとティアナを安心させるように微笑んだ。
「アルトリクスが生命を懸け、
ライアンはクルトの頭に片手をおき、くしゃっと髪を撫でた。クルトはうなずいた。
ティアナは荒れた花園をみわたし、ほっと白い息を吐いた。
「また花の種を蒔きましょう。ビオラ(パンジーの原種)やデイジー、プリムローズはどうかしら。
「お手伝いしますよ」
ゲルデが同意する。ウォードは既に手袋と鍬を用意していた。ティアナは笑って目元をぬぐった。
「一年中、何かが咲いているようにしたいわ。木を植えて、小鳥が遊びに来られるようにしましょう。来年のサウィンにセルマが帰ってきたとき、寂しくないように」
三人は楽しそうに計画を練りはじめた。凍った地面に線をひき、ここにビオラ、こちらにスイセン……などと、植える花と色合いについて検討する。
クルトは、ライアンとアゲイトに向き直った。
「グレイヴ卿、アゲイト。本当にありがとうございました。ウリンのことも〈影の王〉のことも……ぼくは、みんなに助けられて、守られてばかりだ」
公子に頭を下げられたライアンとアゲイトは、横目で互いを見遣った。アゲイトは盾を背に〈聖なる炎の岳〉の雪峰を仰ぎ、ライアンは苦笑した。
「クルト公子、
クルトが顔をあげると、アゲイトはこちらに横顔を向けたままうなずいていた。いつもの寡黙で不愛想な従兄に戻っている。
クルトは胸に下げた
「はい。そうします……きっと」
ライアンが親しみをこめてクルトの肩を叩いた。
陽が高くなって気温があがり、霜が融けてきた。本格的に庭づくりを始めたティアナ達をそこに残し、クルト達が
「クルト!」
アルトリクスの盾が銀色に輝いていた。日輪をあらわす盛りあげ飾りだけでなく、竜の文様と嵌めこまれた琥珀や緑柱石まで。何事かと見守る一同の視線の先で、盾は急に粉々になってくずれ落ちた。
「アルトリクス」
ティアナは蒼白になって立ち尽くし、ライアンとクルトも息を呑んだ。
その盾が、砂のごとく崩壊し、風に吹かれ、煌めきながら消えていく。誓願を果たしたアルトリクスの生命のように。
「父上……」
今、父と母が〈
クルトは晴れた空を仰ぎ、瞬きをくりかえした。
◇
冬の間、アイホルム大公領は雪にとざされる。季節風がぶつかる〈聖なる炎の岳〉はもちろん、平地で一フィー(約三十センチメートル)から一ヤール(約九十センチメートル)、山間部では三ヤール(約二、七メートル)の雪が積もる。冬の間の雪かきは、城で暮らす人々の重要な仕事だ。
〈マオールブルク〉より標高の低い場所にある〈アドラーブルク〉では、積雪量はそれほど多くはない。ライアンとクルト達はたびたび〈マオールブルク〉を訪れて、食料の運搬と雪かきを手伝った。訪問するごとにライアンとティアナ女大公の親密さが増していくのを、クルトとクレアは期待しながら見守っていた。
『チビ』 の怪我は回復した。黒い仔犬は魔力をうしない、すっかりただの犬になってしまった。クレアとゲルデが呆れるほどよく食べ、はしゃぎ、雪の積もった城の内庭を駆けまわる。サウィン前の 『チビ』 はクレア達の前で殆ど何も食べていなかったので、魂を喰らう
ティアナはあの時のことについて、姪に訊ねた。
「クレア、チビに魔法をかけていたの? あなたの言うことを聞くように」
「いいえ」
やんちゃな仔犬は隙あらば
「それはしてはいけないことだと仰ったでしょう、おばさま。好きになるのも嫌うのも、相手に任せないと。だから、本当に何もしなかったわ。この子が自分で決めてくれたのよ」
「そう」
にこりと微笑む女主人の肩ごしに、ゲルデがちくっと苦情を投げた。
「今は少しくらいかけて欲しいと思いますよ。悪戯がひどいったら。今朝は馬小屋に忍びこんで、飼葉と水桶をひっくり返していました。そこらじゅう泥だらけにしてくれて、厩舎長がカンカンです」
クレアとティアナは顔を見合わせて笑った。『チビ』 は自分のことを言われていると分かるのか、素知らぬふりで絨毯に腰をおろし、後足で耳のうしろを掻いていた。
数度 吹雪くことがあったものの、城の日々は平穏に過ぎていった。
~終章へ~
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