戦後間もない昭和20年代前半、1949年夏。
1951年からの朝鮮特需、その後の高度経済成長など見通せない時代。
飢餓で行き倒れが珍しくない時代、ある養護施設『しあわせの村』で巡り合った4人の仲間たち。
「日没に骸骨が踊るらしいぜ。すげぇんだ、黄金なんだってよ」
1人がこう切り出して、4人は『黄金の骸骨』を探しに旅に出る。
幾多の川を越え、泥道を歩き、時に命の危険もある冒険の旅へ――。
丹念な時代描写が特徴の巧みな筆致は、その時代を知らない私たちの脳裏に、色彩のある光景を映し出す。
この作品は映画を見るように読むことを勧める。映画の中身が理解できなくて、もう一回眺めてみると違った理解が広がる。
キャラクターの関係性を理解したいなら、プロローグから第1章が終わる第4話までとりあえず読み通してみて、もう一度プロローグから読んでみると良い。
そうすると、プロローグで描かれた一人ひとりが誰か、よくわかってくるだろう。
そして、キャラクターの味がインプット出来たら、後はエピローグまでワクワクしつつ読み進めることができるはずだ。
一人ひとりの人間の生き様が、醜くも美しく描かれる感動はレビューに書きようがないほど、見事である。
プロローグは1977年の話、本編は1949年の話と、年代が行ったり来たりする。
その点に少し困惑するかもしれないが、本作は「1977年の主人公による一種の回顧録」なのだと言われれば、ご納得されるかもしれない。
僕は普段ライトな異世界系ばかり読みがちなのですが、ご縁があってこちらの作品を読み始めましたところ、その描写、時代考証、登場人物達の物語に一気に引き込まれてしまいました。
世に言う名作というのはとかく『凄みがある』のですが、それを感じた僕は、この作品は完結まで追わねば後悔するぞと時にワクワクしつつ、時に感涙しつつ、圧倒されつつ、無事最後まで拝読しました。
面白かった、凄かった、素晴らしかった……
作者の釣舟草さんは物語の『象徴』を大切にされており、そこに深いテーマを乗せてらっしゃいます。
黄金の骸骨。
それが示すものがなんなのか、少年少女の冒険と成長を通し、彼ら彼女らの隣に立つ親友の一人となって、それを探し求める旅を楽しんでいただけると思います。
蛇足ですが、僕は亡き祖父母が従軍経験者で、生前たまに話を聞くくらいで当時のことはあまり知らなかったのですが、この物語を通して、祖父母の生きた時代に思いを馳せることができました。
なんだか、また会いたいな……
1949年の風が此処には吹いている!!
緻密な時代考証と細部にまで至るまでのこだわり。それらによって、戦後日本の空気感が重厚感をもって描き出されている。本当に「そこにあったんだ」と説得力をもって思わせられるリアリティへの追求。それなのに、読みやすくライトに仕上げられている。
戦後間もない時代を描くという挑戦。
平易な文章に仕上げるという挑戦。
作者様の力量に驚かずにはいられない。
だから、黄昏の中で踊る骸骨にたどり着いたとき、モニターの中に「それ」はいなかった。物語を紡ぐ少年少女のすぐ横で、一緒にその正体を暴いた。もはや、冒険の傍観者ではなかった。
過去から続き、現在、未来へとつながる一筋のヒューマンドラマ。――これは、令和時代に掘り起こされたタイムカプセルだ。この中には、1949年の風がまだ残っている。
戦後間もない頃の猥雑な世相。
大人も子供も関係無く、生きる事に必死だった時代。
でも、明日への希望を胸に、瞳に光を絶やす事無く、力強く生き抜く人々。
その、とある時期を共に駆け抜けた子ども達の、苦しく、悲しく、それでいて楽しく輝く、ハラハラドキドキの冒険行を、情感豊かな文章と、その場に居合わせたかの様に情景が広がる表現力で綴った作品。
読者は、徐々に明かされる子ども達の内面と、その時代故に置かれている状況に引き込まれながら、最初に描かれた時に向かって、どの様な物語が紡がれて行くのかを、感情を揺さ振られながら読み進めて行く事になる。
是非読んで頂きたい作品です。
磨糠 羽丹王(まぬか はにお)
人間讃歌。
この小説からは、祝福に満ちた讃歌の、美しい調べが聴こえてくる。
戦後すぐの日本で、苦境に立たされながらそれでも夢をあきらめない、前向きな少年少女たちの冒険譚。匠、今村、史人、ブギ。この四人のハラハラドキドキする冒険は、薄暗い世相と敗戦すぐの絶望に満ちた世界の中でも、鮮烈な輝きを放っている。
それはときに悲しみに満ちた過去や因果によって闇に閉ざされそうにもなる。だが、太陽がけっしてなくならないのと同じように、彼らの光は損なわれない。そう、信じられる。
私はこの小説を読んでいるとき、必ずイメージするのが、吟遊詩人だ。吟遊詩人がリュートを鳴らしながら、物語を歌ってくれている。私は暖炉に当たり、コーヒーを飲みながら、ゆっくりとその調べに聴き入っている。
昭和初期の話に吟遊詩人は似合わないと思われるむきもあるだろう。しかし、この物語は、歌にしたくなるほど福音に満ちていて暖かいのだ。誰か美しい声の持ち主に、そばで語ってもらいたいと思うくらいに。
そう思ってしまうのは、この物語のほとんどが子供の目線で語られていることに関係するのかもしれない。
作者様は、子供の精神性や考え方を知り尽くしている。そのため、子どもたちがどれほど大人ぶった振る舞いをしようとも、そこに根付いた精神性はぶれることなく子どものままなのである。これは驚異的なことだ。子供視点で書かれた小説というのは山程あるが、その多くから大人臭さが感じられてしまい、私は中々その手の小説にこれまで入り込むことができなかった。それはある意味仕方ないだろう。なぜなら、大人が書いているのだから。
だが、この小説は違う。子供が子供のまま息づいている。だからこそ、童心に返りながら、戦後の日本の中へ入り込み追体験することができる。語り部の史人に溶け、一緒に冒険しているかのような錯覚を覚える。この人間の書き方は、作者様の突出した人間観察力が為せる技であり、一朝一夕で真似できるものではない。間違いなく才能がなせる御業であろう。毎度毎度読みながら、私は舌を巻くしかなかった。
そんな天才性により紡がれる物語の下支えになったのが、よく練り上げられた時代考証である。その時代に流行った曲や、駄菓子、食事、闇市の取引の様子、ヤクザたちの抗争、米軍との関係性、暴力が状態化した孤児院の様子、その一つ一つが丹念に紡がれているからこそ、圧倒的なリアリティが物語に生まれている。おそらくは、膨大な時と手間をかけて資料を読み込み、考察を組み上げてきたのだろう。同じ作家として、目を瞠るほどの緻密さで。
その考証が相乗効果を生んで、子供たちの姿はさらに色彩と形がはっきりとする。かれらは実在した人間なのか、と思ってしまいたくなるくらいに。そして、子供の姿があまりにもリアリティがありすぎるが故に、彼らが大人になったときの深みはより一層素晴らしいものになっている。ここでは多くは語れないが、彼らの成長と精神性を、変わらない点も意識しながら読むのも醍醐味である。このときは、親戚のおじさんになった気持ちになれる。
そして、私が一番語りたいのがメッセージ。
私は、人間讃歌を前述した。
むろん、この物語に込められたメッセージは一つではないだろう。
だが、その中の一つに、人間に対する信仰が込められているのは確実だ。
それは盲目的な信仰では断じてない。
人間の酸いも甘いも、人生の闇と光をも表現しきった上で、人の強さと前向きさを信じたいという力強いメッセージなのだ。雨風にさらされ、それでもなお腐らずに生き抜いてきた、千年杉のごとき研磨された精神性が込められているのである。
そこには儚い美しさがある。
人生は、闇の中の花一輪だ。四人はそのことに絶望しながらも、花一輪の存在を信じながら前向きに生きている。その儚い姿にこそ、光があるのだ。
光による抱擁を受けたかのごとく……。
読んでくれた方は、きっとその美しさに感じ入ることができるのではないだろうか。心に傷を負ったことのない人などいないはずだから、きっとこの物語に触れると、爽やかな感動を覚えることができるはずだ。
私は、絶望を覚えるすべての人々にこの物語を送りたい。
これは安寧のない人生に、儚き光を与える物語なのだから――。