第388話 帰ってきた家 下
夏の暑さも遮る木々の結界を、空から降り注ぐ陽光が木漏れ日になって、足元から上がってくる凍えそうなほどの冷気を和らげてくれている。
本来なら、この辺りでツノウサギの一羽か二羽くらい遭遇しそうなものだけど、公国の管理が行き届いているのか、近くで待ってくれているリーナのお陰なのか、今のところ気配は感じない。
もしくは、神様の粋な計らいなのか――っていうのは考え過ぎか。
森に来るのはいつ以来だろうか。
ノービスの加護を得て以降は毎日来ていたから、懐かしさよりも帰ってきたという思いが勝つ。
木の位置も、植生も、けもの道も以前のまま。これなら迷う心配はない。
ウォーベアに襲われた辺りを通り過ぎて、草むらをかき分けて、目的地にたどり着く。
「久しぶりだな、ジオ」
ともすれば自然に積み上がった石の山に見間違えそうな祠が、あの夜と変わらず鎮座していた。
「どこから話したものだろうな」
持参してきた荷物は、バスケットの中のぶどう酒と陶器のコップが二つだけ。
祠の前に座って、一つは俺の前に、一つは祠の前において、それぞれにそそぐ。
ちなみに、ジオの好みに合わせて酒精の弱い銘柄だ。
「まずは謝らないとな。帰ってきてからあいさつに来るのに、遅くなってごめん」
本当は、ジュートノルの地下深くにあるはずの神殿に行けたらいいんだろうけど、残念ながら今の俺にはあそこまで行く術はない。あったとしても、たぶん神殿の主から門前払いを食らうだろう。
というわけで、第二候補の森の祠にやってきたわけだけど、以前ほど簡単な道のりじゃなかった。
「森の外は、ずいぶんと仰々しいことになってきているよ」
この祠を通じて、ジオがノービス神の加護を得たのは、公国上層部の一部には知れ渡っている。
いわば、初心教発祥の地――聖地ともいえる場所を、このまま放置しておくことは難しかったみたいだ。
今では、森を囲むようにぐるりと柵が張られ、唯一の入り口には衛士隊の詰め所が設けられて、定期的な巡回まで行われている。
当然、森に入るにはしかるべき部署からの許可が必要で、これを得るのが一苦労だった。
「そのために、キラッキラの貴族の衣装まで着たんだぞ、この俺が。信じられないだろう?」
災厄を乗り越えた功績として俺に送られるはずだった貴族の位。
これを辞退するために、公都の政庁の大広間で、大仰な儀式をやらされたのだ。
唯一の救いは、参加した貴族が顔見知りばかりで、全ての公国貴族に俺の顔と名前が知られる羽目に陥らなかったことくらいだろう。
マクシミリアン公爵、リーゼルさん、レナートさん、サツスキー伯爵、マクシミリアン派の貴族たち。
リーナ、ティア、テレザさん、キアベル夫人、そしてセレスさんと、その腕にはジオとの子の姿もあった。
「驚いたよ。爵位辞退の儀式っていうのは口実で、本当は俺との別れの宴だったって言うんだから」
礼儀作法がまだ身に付いていない俺を気遣った、肩肘張らない本当に暖かいひと時だった。
誰もがノービスの英雄としてじゃなく、ただの平民として新たな一歩を踏み出す俺を祝福してくれた。
もしも晴れの舞台というものがあるとすれば、俺にとってはきっとあの夜のことだ。
「まあ、それも、リーゼルさんとティアの婚約お披露目になるまでだったけどな」
貴族って言うものは本当に面倒で、婚儀のための手順があきれるほどの数になっていて、公私にわたってあちこちに顔を出さないといけないらしい。
その一つがあの夜で、完全に慣れ切ったという表情の二人は、お祝いを述べる貴族に完璧な礼を返していた。
「しかも、本番の婚儀は何年後になるか、未だにわからないんだってな。リーゼルさんも忙しそうだし」
公国は今、大きな変化の時を迎えている。
災厄が終息して魔物の脅威が圧倒的に低くなり、人族の活動範囲が一気に広がった。
それでも、失った命や財産、放置された畑が元に戻るには、長い年月が必要になる。
中でも大変なのが、国の立て直しだ。
人族の繁栄の象徴だった五大国は実質的に滅び、健在なのはアドナイ王国から分裂したジオグラッド公国だけ。
組織として生き残った公国には、王国貴族だけでなく国外からも熱視線が注がれている。
「ガルドラ派も、北部貴族も、公国に合流するんだってな。これで、アドナイ王国も終わりだ」
見方によっては、単に頭がすり替わるだけかもしれないけど、それが国が変わるっていうことだ。
王の意思一つで良くもなったり悪くもなったり、そこに平民の意見が反映されることはない。
それでも、見ず知らずの人が国を治めるよりも、ジオの子孫が王様になってくれる方が、俺にはいい。
もっとも、その中枢にいる貴族の苦労は並大抵のものじゃないらしいけど。
「もう婚約したっていうのに、ティアへの縁談が後を絶たないんだと。リーゼルさんが参っていたよ」
その原因の半分は、ティアの処遇をはっきりと決めておかなかったジオにある。
少なくとも、リーゼルさんの怒りの矛先はティアの実兄に向けられている。
ティアの進む道を一つに絞らないことで、自由を与えたかったということだろうから、俺としてはどっちの肩も持ちづらい。
「まあ、死人の悪口を言うのは生きている奴の特権だ。まさか神様が化けて出るわけにもいかないもんな」
婚儀と言えば、ダンさんとルミルも正式に所帯を持って、白いうさぎ亭から独立していった。
ちょうど一月前のことだ。
今は、白いうさぎ亭から三区画離れたところに小さな料理の店を構えて、元気にやっている。
「そうそう、ルミルが妊娠中なんだ。もう百二十日くらいか。冬の初めには生まれるってさ」
意外にも、この慶事を誰よりも喜んだのは、今まで男やもめを通してきたダンさんだった。
ターシャさんに付き添われて医者に行っていた間は始終そわそわして仕事にならなかったし、大変なのは妊娠が発覚した後だった。
「あのダンさんが、涙を流して泣いたんだぞ。ジオはあんまり面識がなかったから知らないだろうけど、俺達にとってはドラゴンが襲ってくるくらいの衝撃だったよ」
ことあるごとにルミルを休ませようとしたり、毎日のように子供用の服やおもちゃを買ってきたり。
あげくの果てには店がほったらかしになって、ダンさんにベタ惚れのはずのルミルの雷が落ちるまでは店の存続も危うかったくらいだ。
「ああ、白いうさぎ亭の方も心配はいらないぞ。ちゃんとやっていけているからな。……いやまあ、売り上げが落ちていないってことがないわけでもなかったりするわけでもないんだけどな」
ジュートノルというか、今や公国屈指の腕を持つ料理人のダンさんが抜けたことは、確かに大きい。
衛士兵団との契約や、泊りの客には影響はないけど、ランチではダンさんの店に奪われた客もいる。
その責任は、ダンさんの後継者を買って出た俺にあり、不徳の致すところというしかないんだけど。
「それでも、ターシャさんとリーナに助けられて、なんとかやっているよ」
それじゃさすがに人手が足りないということで、新しい従業員も雇った。
一人は接客係で、もう一人は料理人見習い、つまり俺の弟子だ。
「ついこの間までひよっこ同然だった俺が師匠面なんて、お前は笑うかもしれないけどな」
ましてや、ジオは俺を導いてくれた。
鼻で笑うどころか、真顔で心配されても文句は言えない。
こんな奴が人に物を教えていいものか、俺自身も悩んでばかりの毎日だ。
「でも、間違って、寄り道したっていいよな。正しくなくたって、またやり直せばいいよな」
そんな暮らしを手に入れるために、ここまで駆け抜けてきた。
走って、戦って、しのぎを削って、怪我をして、また走って。
右も左もわからないまま、なにが正義でなにが悪か、区別もつかないままで。
ただ、信じるままに目の前のことに精いっぱいだった。
それでも何とかここまで来れたのは、ジオと出会えたからだ。
「ありがとう、俺の道しるべになってくれて。俺と戦ってくれて。俺を見守ってくれて」
エンシェントノービスの加護を得たばかりの俺。
戦うべき相手も見えず、ターシャさんを救うこともできず、リーナの後悔と苦しみも知らず。
真っ暗闇の俺の人生に光が差したのは、ジオのおかげだったと今なら言える。
「だっていうのに、お前は俺に礼も言わせずに行っちまった。おいしいところだけ持って行きやがって」
ジェネラルオーガでもない、不死神軍でもない、黒竜王でもない。
俺が生涯敵わないと思ったのは、ジオだけだ。ジオだけになった。
そのことが死ぬほど悔しくて、少し嬉しい。
「……そろそろ行かないと。リーナが心配する」
リーナに約束した頃合いは、真昼。
影の方が多い森の中でも日の位置くらいはわかるから、その時になったら迷いなくこっちに来るだろう。
あいつは、ジオが神に成ろうがお構いなしだろうから。
それに、言いたいことは一通り言えた。これ以上を望むのは、今の俺には過ぎた願いだ。
ただ、できることだけをできる限り、だ。
「ジオ。たぶん俺がここに来るのは、今日で最後だ」
公国が管理するとか以前に、この森は魔物の領域だ。
本来、人族が這入り込んでいい場所じゃなく、ましてや加護も持たずに来るのは自殺行為だ。
マクシミリアン公爵やリーゼルさんに頼めば、リーナに付き合ってもらえば、祠までくるのは簡単だろう。
だけど、それは俺の力じゃない。なにより、そんな方法で来てもジオが喜ばない。
名残惜しいけど、ここまでにしよう。
ぶどう酒の瓶と、話の合間に飲み干したコップをバスケットに戻す。
もう一個のコップは、このまま置いていく。
そのうちに虫や魔物が飲むかもしれないし、空になった陶器はいつか土に還るだろう。
そして、数十年後、俺も土に還れば――
「また、お前に会えるかもな」
立ち上がって、祠を見下ろす。
不敬かもしれないけど、俺とジオの仲だ。最後にこれくらいはいいだろう。
「じゃあな、ジオ」
その一言で、祠に背を向けた。
夜明け前、いつも通りに目が覚める。
ターシャさんとリーナを起こさないように着替えて、そっとドアを閉めて厨房の裏へ。
薄闇の中で今日の分の水を井戸で汲んで、薪小屋から持ってきた薪を三つのかまどに順に並べる。
ランチメニューは、鶏胸肉のトマトソースがけに、豆のコンソメスープとパン。
空を見る限りは雲は少なく風も弱い。昨日よりは客が増えそうだから、仕込みの量は二割増しにする。
火打石で種火がついたので、一つずつ薪にくべていく。
薪に火がついたのを目視で確認してから、小休憩のお茶を用意する。
「おはようございます、旦那!!」
「ああ、おはよう」
カップは二人分。
他の店からは甘すぎると言われそうだけど、俺は俺のやり方で育てていくつもりだ。
「それじゃ、今日も野菜の千切りからだ」
「はいっ!!」
新人が今日の仕事を始めたのを横目に、明るくなり始めた空を見る。
いつもの夜が明けて、なんでもない一日が始まる。
~~~完~~~
チュートリアルで引退したノービス冒険者、1000日後に古代の力を手に入れる 佐藤アスタ @asuta310
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます