第387話 帰ってきた家 中

「今日はここまでだ」


「ありがとうございました!」


「片付け、しっかりやっておけよ」


「はい!」


 ダンさんが厨房を出て行くのを見届けて、一日の締めの仕事が始まる。

 片付けと言うとどうしても雑用のイメージを持ちやすいけど、実際にはそんな甘いものじゃない。

 使った皿の数、調理器具の種類、食べ残しの有無や量など、洗い物をする中で得られる情報はいくらでもある。

 それに、この時あるだけは急かされることなく、今日の出来事を振り返ることができる。

 ダンさんの動きを頭の中でなぞりながら、丁寧に皿の汚れを拭っていく。


 片付けを終えて、調理台や床掃除を済ませ、最後に日誌をつけて、今日の仕事が完了する。

 あとは、部屋に戻って体を軽く拭いて、ベッドの上に倒れ込むだけだ。


 ――そんな生活は、ジュートノルに帰ってくる前までのこと。

 今の俺には寝る前にもう一つ、大事な役目がある。


「おかえりなさい、テイル君」


「今日もお疲れ様」


 仕事内容こそ雑用兼ダンさんの弟子だけど、白いうさぎ亭の主人という立場が健在な以上、以前のような小部屋ではなく、一番立派な部屋をあてがわれている。

 そして、理由はもう一つ――今の俺は一人暮らしじゃない。

 今日も湯上りの火照った体のラインが浮き出る寝巻きに着替えたターシャさんとリーナが、ベッドの上で待ち構えていた。


「テイル君、準備はできてるわよね?」


「今夜も、終わるまで寝かさないわよ」


「うっ、は、はい……」


 透けそうなほど薄い布地から見え隠れする肌の艶やかさと、ほのかな石鹸の香りにクラクラしてくる。

 女性の魅力にあふれた二人から迫られ、今日も俺は――


 机に向かってひたすら帳簿の書き写しを続けていた。


「ほらそこ、綴りが間違っているわよ」


「明後日にはジュートノルの歴史書が借りられそうだから、それまでに終わらせてね?」


「ひいぃ……」


 黒竜王との戦いですら出なかった情けない悲鳴が、薄暗いロウソクの明かりの向こうに溶けていく。

 声の主は、もちろん俺。

 聞かれただけでターシャさんとリーナに愛想をつかされそうだと分かっていても、声が出るのを止められない。

 控えめに言っても地獄だ。文字の海で窒息地獄だ。

 つらい、眠い、つらい、眠い、つらい、


「眠い」


「あらテイル君、眠いの? しょうがないわねえ」


「ちょっとターシャ、甘やかしたら駄目でしょ。テイルも、自分から言い出したことなのだから、きちんとやりなさいよ。ダンとルミルを心置きなく送り出すんでしょう?」


 そう、朝早くから夜遅くまで働いて、精も根も尽き果てているところに勉強までしているのは他ならない、俺が決めたことだ。


「ダンさんとルミルちゃんが白いうさぎ亭から独立するまで、あと半年かあ。まだ実感はわかないけど、いざ準備が始まったらあっという間なんだろうね」


 しみじみとしたターシャさんの言葉で、思わず筆が止まる。


 俺がいない二年の間に、ダンさんとルミルの関係は順調に進展したらしい。

 それはルミルの思いが通じたってことだし、長いこと独り身だったダンさんに良い相手ができて、俺としてはうれしい限りだけど、そうなると次の段階に進むべきタイミングでもある。

 このまま、二人が白いうさぎ亭で働き続けるという手もあるにはあるけど、将来子供を持ちたいとなら(特にルミルが)やっぱり自分達の店を持つべきだろう。

 俺が不在に間にそんな話が持ち上がった時に、ダンさんは白いうさぎ亭との掛け持ちで続けようとしたらしいけど、長い付き合いのターシャさんが止めた。

 目の前のことに集中するタイプの料理人であるダンさんには、複数の店を定期的に回るようなやり方は無理だと反対したのだ。

 けっきょく、ダンさんが独立するならもう一人、信頼できる料理人が必要ということで、問題は棚上げになっていた。

 俺が白いうさぎ亭に帰ってくるまで。


「ほら、手が止まっているわよ」


「あ、ごめん」


「別に謝る必要はないけれど、料理人の修行はともかく、その他の勉強は後回しでもよかったんじゃない? 加護がなくなったんだから、無理の利かない体になったって自覚しないと」


「これくらい大丈夫だよ。鍛えてきた筋肉までなくなったわけじゃないから、普通の人よりは体力があるつもりだし」


「無理だけはしないでね。きつそうなら、カリキュラムを組みなおすことだってできるんだから」


 料理の修行でダンさんに弟子入りしたところで、他の勉強はターシャさんとリーナに見てもらうことにした。

 ターシャさんは接客係として経験豊富な上に、教養もある。

 リーナはなんと言っても、マクシミリアン公爵家の御令嬢だ、貴族相手の礼儀作法に関してこれ以上の教師はいない。

 これ以上はなさすぎて、若干詰め込み過ぎたきらいはあるけど。


「ありがとう、リーナ、ターシャさん。でも、無理をしておきたいんだ。特に、ダンさんのために」


「テイル君……」


「二人にはこれから恩を返していくとして、ダンさんに対してはこれが最後のチャンスなんだ。半年後、ダンさんとルミルがいなくなっても白いうさぎ亭は大丈夫なんだって、胸を張って送り出すことができるようになっておきたいんだ」


「ふうん」


 そんな、鼻で笑うような反応をしたリーナに、ちょっとだけムッとしていると、


「格好いいじゃない」


「むぐっ!?」


 襟を掴まれたかと思うと、問答無用でキスされた。

 もちろん、マウストゥマウスで。


「リーナ!?」


「抜け駆けしたのは悪いと思っているけれど、しょうがないじゃない、キスしたくなっちゃったんだもの」


 ちなみに、このあまり一般的じゃない三人の同せ――同居生活で、厳格なルールが一つある。

 それは、俺のことに関して平等に分け合うこと。もちろん、俺の意思は関係なく。


「テイル君!」


「は、むうっ……!?」


 つまり、こういうことになる。


「テイル君、テイル君、テイル君……」


「タ、ターシャさん……」


「あーあ、もうこれ、勉強どころじゃないじゃない」


 リーナの言う通り、俺が帰ってきて以降、色々と我慢が利かなくなっているターシャさんの堰が決壊したことによって、今夜の勉強はお開きになった。

 当然、残ったノルマは明日に回されることになり、その分俺が泣きを見ることになるんだけど、それはまた別の話だ。






 数日後、ランチ終わりの昼下がりの、まだ再建なっていない仮店の白いうさぎ亭。

満足そうな客が帰った直後のテーブルを拭いているところにに、珍しい客がふらりと現れた。


「お久しぶりです、テイル殿。お元気そうで何よりです」


(見る限りじゃ)供を一人も連れずに、二つしかないテーブル席のもう一つに座ったのは、リーゼルさんだ。

 この訪問は唐突だったけど、特に驚くことはなかった。

 以前から、とある件についてたびたび手紙のやり取りがあって、近々直接やってくるだろうことは予想できていたからだ。


「ティアは元気ですか?」


「私も多忙の身ですので人伝ですが、ご健勝だそうですよ。今はミリアンレイクにご滞在で、見聞を広めると共に淑女の嗜みを学ばれているそうです」


「そうですか。ああ、御婚約、おめでとうございます。俺が言うのもなんだけど、ティアのことをよろしくお願いします」


「承りました。ティアエリーゼ様のことはご心配なく。我が名にかけて、生涯お守りいたします」


「そこは、愛しているとか言うところじゃないんですか?」


「その言葉を口にするには、まだお互いのことを知りませんから。婚礼の儀までまだまだ数年はかかるようですから、ゆっくりと関係を深めていくつもりです」


 俺が知らない土地で右往左往していた頃、リーゼルさんとティアは婚約の誓いを交わした。

 その理由は多分に政治的意味合いが濃いものらしいけど、もともと許嫁だったこともあって、亡き公王ジオグラルドの妹君が一番穏やかな暮らしを手に入れられる相手として、リーゼルさんに白羽の矢が立ったとのことだ。

 聞いた話じゃ、ダンさんとルミルの養子になるっていう道もあったらしいけど、ティアも考え抜いての決断らしいし、リーゼルさんとの婚約を素直に祝福したいと思う。


 ただ、今日の本題はそこじゃない。


「それで、考えていただけましたか?」


「しつこいですね。今の俺は、料理修行と白いうさぎ亭の主人としての勉強で忙しいんです。他のことにかまけている余裕なんてありませんよ」


「そんなに嫌ですか、公国の爵位を受けることは」


 リーゼルさんの――もっと言えば公国宰相であるマクシミリアン公爵の提案は、災厄における俺の多大な貢献に報いるために貴族位を与えるというものだった。

 もちろん俺は断った。手紙が来るたびに断り続けている。それでも、手紙はしつこく来ている。

 もう本当に政庁に怒鳴り込んでやろうかと思っていたところの、リーゼルさんのお出ましだった。


「テイル殿もすでにご存じでしょう、貴族社会というものは、兎角体裁を気にするものなのです。ことは貴族位授与を断るという一大事です。テイル殿の意向は聞くまでもなかったのですが、詳しい事情を知らない貴族たちを納得させる儀式が必要なのですよ」


「儀式、ですか?」


「今回、お仕事の合間にお邪魔させていただいたのは、そのことに関するご相談でして」


「聞きたくない、聞きたくない!!」


 満面の笑みを浮かべるリーゼルさんに、嫌な予感がして厨房に逃げ込もうとしたところで、背後から一気に両脇を抱えられた。

 左右を見ると、なんとターシャさんとリーナだった。


「お貴族様の頼みを断るなんて、テイル君も偉くなったものね」


「今さっき、貴族になりたくないと言ったくせに、どの口が聞きたくないなんて言うの?観念しなさい」


 加護を失くして実力的にも無理なところに、この二人からの拘束を振りほどけるはずがない。

 どんな道化を演じさせられるのか暗澹とした気持ちになったところで、一つ思いついた。


「どうしてもというなら、条件があります」


 せっかくなら一方的な搾取じゃなくて、せめて対等な取り引きにするべきだ。

 正直な話、どうやって入り込もうか悩んでいたところだったから、せいぜい利用させてもらおう。

 唯一の心残りというか、しっかりと文句を言ってやるために。

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