第386話 帰ってきた家 上

 一日の始まりを象徴する朝日が夜の帳を押し上げて、寝静まっていた街がゆっくりと動き出す。

 音が、煙が、空気が、ジュートノルの住人の息遣いを教えてくれる。


 もちろん、俺も例外じゃない。

 薪割りを終えて小屋に運んで薪割り台替わりの切り株に鉈を突き立てて、水を汲むために井戸の滑車に絡んだロープを掴む。

 いつも通り十一回、桶を引き上げては水瓶に移し、溜まったら持ち上げて厨房を往復する。

 その一部を寸胴に流し込んで、さっきのとは別の十分に乾燥させた薪を、燃えにくいものから燃えやすいものの順にかまどに積み、戸棚にしまってある火打石とを取り出し、着火する。


 1、2、3、4、5。


 最近になってなんとか慣れてきた火打石が火花を散らして、細く裂いた木の皮に落ちて、徐々に火が大きくなる。

 その火種を他の二つにも移し、全てのかまどで小枝から太い薪にも燃え移ったのを見届けて、ようやく一息つく。

 かまど番の特権として、沸かしたお湯を茶葉を入れたポットに注ぎ、頃合いを見て自分のカップに濃い琥珀色の液体を淹れて、一口飲む。


 春先の、早朝は霜が降りるほど寒い時期。

 火打石の使い方はともかく、この生活にはまだ違和感がある。

 少し前までは、もっと早くお湯を沸かせられたし、なんだったら夜明け前は街の外に出て狩りに精を出していた。

 だけど、元の暮らしに戻ることは二度とない。


 加護がなくなった俺にとって、ジュートノルの中だけが生きる世界だ。






 黒竜王との戦いを終え、エンシェントノービスの加護を失った俺は、ジオの死と永遠の別れに慟哭――するわけにはいかなかった。


 戦いの時に、最初に把握するべきものは何か。まあ、大体の人は『敵』と答える。

 もちろん、嫌でも警戒しないといけないし、無視するのなんて論外なのは間違いないけど、俺の考えは違う。

 一番は自分自身。戦える状態にないならすぐにでも逃げるべきだ。

 二番目にその場の環境。相手に有利だったり、そもそも戦いに向かない場所はいくらでもある。

 敵はその次、三番目だ。

 じゃあ、今の俺はどうだろうか?


 体は健康そのものでかすり傷一つないし、微熱もない。ただ、加護がない。

 今いる場所は深い深い谷底。というより、どこの国かすらわからない。

 敵はいない。強いて言うなら大自然という敵が、水筒一つ持っていない俺に牙を剥き始めている。


 控えめに言って大ピンチ。

 戦いは終わったと見せかけて、ここからが新たな戦いの始まりだったわけだ。


 勝利条件はジュートノルに帰ること。

 敗北条件はそれ以外。


 ……神様なら安全地帯まで送り届けるとかしろよ!

 感謝してるならそれくらい気を利かせろよ!

 次会ったら一発殴る、神様だろうが知ったことか!







 そんなわけで、災厄の終息後、二年も行方不明になっていた理由は、なんのことはない、ジュートノルに帰るためにそれだけの期間が必要だったというだけのことだ。

 なにしろ、谷から脱出するだけでも命がけだった。

 加護があった頃のように、スピードスタイルで崖を駆け上がるというわけにはいかないし、よじ登ろうとすれば途中で力尽きることは火を見るより明らかだった。


 水もない、食糧もない、武器もない、あるのは黒の鎧の下に来ていた服だけ。

 ひたすら谷底を歩き続け、上に登れそうなところを見つけて進み、道が途切れていたら引き返し、また登れそうなところを見つけ、だめだったら引き返し。

 この繰り返しだった。

 よかったことと言えば、谷底がある一帯はそれなりに雨量の多い地域らしく、ところどころに小さな川や滝が流れていたことくらいだろう。

 とにかく、喉の渇きを覚えずに済んだのは幸運だった。


 そんな、地獄の思い出として脳裏に焼き付いている脱出行は意外と早く終わりを迎え、地表に戻ってきたのは黒竜王討伐から一月後。

 谷底への入り口である地面の裂け目近くの、ぺんぺん草一本生えていない荒野で、空腹に耐えかねて倒れている俺を救ったのは、たまたま通りかかった一台の馬車だった。

 詳しく言えば、奴隷を満載した、人さらい集団の馬車だった。


 ……あの辺りのことはあまり思い出したくないな。

 無一文でコネも加護もなく、価値と言えばこの身一つだけ。

 平たく言えば、奴隷生活を送っていた。一年半ほど。

 お世辞にも、いい思い出は一つもないし、ゴードンにこき使われていた頃が天国に思えるほどの扱いを受けたこともあった。

 それでも、見ず知らずの土地で衣食住が保証されているだけ、飢え死によりはるかにましだったし、生きているなら希望はある。

 それだけを支えに、やがて辛すぎる奴隷生活に心がポッキリと折れかけた頃に、ずっと俺を捜し続けてくれていたジョルクさんとその仲間の人達に救出された。

 といっても、血の一滴も流れない、真っ当な取引で俺の身柄は自由になったから、相応の額が支払われたことは想像に難くない。

 ジョルクさんに聞いてもその度にはぐらかされるけど、恩と金を返さないわけにはいかない。

 とりあえず、白いうさぎ亭のランチ永久無料で様子を見ているところだ。






 ジュートノルに帰ってきた俺を待っていたのはターシャさんやリーナじゃなく、徹底した身体検査だった。

 政庁、騎士団、治癒院、冒険者ギルド、その他にも名前を覚えていないところが多数。

 そうして公国内の組織をあらかた回った後、加護の専門家でもある初心教司祭長のテレザさんが出した結論が、ノービス神に加護を剥奪されたという事実だった。


 もちろん、俺は驚かない。

 他でもない、ノービス神直々の言葉を聞いていたからだ。

 ただ、その意味するところは、予想していたものとちょっと違っていた。


 わかりやすい例として、リーナを挙げよう。

 ヒュドラの毒から奇跡的な回復をして見せたリーナだったけど、深刻な後遺症が残っていた。

 何年もかけて魔法剣士にクラスチェンジするまでに育て上げた加護が、一切合切消失したのだ。

 加護を失うことは手足を失うのと同義、なんていうのは大げさだとしても、世を儚んでしまう人も少なくないほどの一大事だ。

 本人も、加護の消失を知った当初は相当に悩んだみたいだし、その一幕を俺も見てきたけど、それでもリーナは強かった。

 再建した白いうさぎ亭の経営が軌道に乗り始めると、また冒険者学校に入ってもう一度ノービスからやり直し始めたのだ。

 その苦労は想像を絶するものだったはずだ――というのも、全ては俺が不在の間に起きたことで、再会したリーナは戦士のジョブを手に入れていて、かつてを彷彿とさせるほどの動きを取り戻していた。


 話を戻そう。

 リーナの場合が『加護の消失』なら『加護の剥奪』との違いはなんだろうか。

 答えは一つ、加護の再取得が可能かどうか。

 つまり、俺は二度と加護を得られない。

 何をどうしたって、ノービスには戻れない。






 そんな現実を知ったところで、全身から力が抜けて、頬を涙が伝って、頭が冷たくなって、その場で気を失って三日間目を覚まさなかった、らしい。

 眠り続けている間も、アイツが夢に出てくることもなく、目覚めた時にジオも訪ねてこなかった。


 ただ、後を引きずることはなかった。

 二度と手に入ることのない加護に未練はなかった。

 この三日間の誰もいない夢の中で、加護に対して求めていたものが一つもなくなったんだと、気づいたからだ。


 俺を、

 ターシャさんを、

 人族の未来を救って。


 ソルジャーアントと、

 ジェネラルオーガと、

 不死神軍と、

 ゴブリンキングと、

 ドラゴンと、

 黒竜王と戦って。


 最後に、いつも道を指し示してくれていたジオとアイツが去って行った。


 こんな風に並べ立てれば、まるですべてを失った男みたいに見えてしまうけど、あいにく残ったもの、守り抜いたものを忘れるほど馬鹿じゃないつもりだ。


 ……いやまあ、検査が終わって白いうさぎ亭に戻ってきたときに、ターシャさんとリーナの二人から抱きしめられて初めて思い出したんだけどな。

 我ながら、馬鹿で愚かで浅ましいと思うよ、本当に。







 帰還の時の色々、感動の再会とかお帰りパーティーとか、そういうのはまたの機会に思い出そう。

 今は、目の前のことだ。


 白いうさぎ亭に帰ってきた俺は元の鞘、雑用係に戻った。


 うん、元の鞘と言うなら、白いうさぎ亭の主人だろう。そんな声があったのは事実だ。

 でも、考えてほしい。今の俺に何ができる?

 同業者と付き合ったり、ギルドと交渉したり、金勘定したりといった主人としての仕事を俺はできない。

 なんだったら、店の権利をターシャさんに譲り渡してもいいくらいだ。

 そんな提案を従業員全員から却下された後で出された折衷案――というかほとんど一方的な命令を、俺は飲むしかなかった。

 つまり、主人としての修行だ。


「テイル、野菜はまだか! こっちは終わったぞ!」


「はいただいま!!」


 白いうさぎ亭が一番忙しい頃合いはもちろんランチだけど、厨房に限っては午前中と言える。

 天気や暖かさから今日の客入りを予想して、その分だけ仕込みに入る。

 以前と変わったのは、ダンさんの傍らでその技を盗むようになったことだ。


「なんだこの量は!! こんなもんじゃランチはさばけんぞ!!」


 そんな罵声が響いたと思ったら、ダンさんの手は野菜を切り割って次々と鍋に入れていく。

 そのリズム、手つき、早さ、どれをとっても俺なんか足元にも及ばない。

 それでも、俺との違いを見つけ出して少しでも真似ようと、片時も目を離さない。


「いつまでボーっとしてる! 皿でも洗っておけ!」


「はい!」


 あっという間に野菜切りは終わったダンさんが、火にかけたフライパンに肉を乗せていく。

 その様子から目を切りながら、皿洗いに集中する。

 よそ見は許されない。厨房にいる間のダンさんは背中に目がついているのかと思うほど、俺の行動を完璧に把握している。

 皿一枚でも割ろうものならすぐさま厨房から叩き出されて、十日は入れてもらえない。

 というか、一度経験した。あんな目に遭うのは一度で十分だ。

 今はとにかく、ダンさんに食らいついていく。

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