第4話

 翌日アーラシュはマフムードの屋敷から消えた。朝家の人間たちが起き出す頃には髪の毛の一筋も残さず蒸発していた。


 人の心とは不可思議なもので、いざいなくなるとマフムードは一抹の寂しさを覚えた。騎士たるもの寂しいなどとは言わぬものと心得ているので誰にも何も言わないが、いつも自分の後ろをついてきていたアーラシュが忽然といなくなったというのはどことはなしに虚しさがある。


 家の人間たちはアーラシュが失踪したことにいたく動揺していた。しかし当主のマフムードが動じた様子を見せずにいるので、勝手にマフムードとアーラシュの間で何かよからぬことがあったのだと解釈してくれたらしく、マフムードに面と向かってアーラシュの話題を出す者は一人もいなかった。


 直接言ってくる人間がいないのでマフムードの憶測だが、おそらく、アーラシュの言ったとおり、周囲の人間は皆マフムードを男色家であると思い込んでいて、小姓のアーラシュと衆道の関係であったと信じていたのだろう。そして何かの折に痴話喧嘩でもあったのだ。そうなれば第三者が口を挟めることではない。ましてマフムードはこの国の将軍である。最高位の武官であるマフムードにあれこれ口を出せる人間はハミト王において他にない。


 それにしても、不思議な夜であった。精霊ジンの幻惑にでもあった気分だ。宮殿で飼っていた猫が化けて夜這いにやってくるとは、人生は何が起こるか分からないものである。


 猫への愛は信仰の一側面である。預言者は猫をたいへん深く愛していたという。猫を可愛がることは信仰に適うことで、敬虔な騎士を自負しているマフムードはその点でも少し胸が痛んだ。ミーミーに対して少しそっけなかっただろうか。だがそれはそれ、これはこれ。いくら可愛いからと言って化け猫を嫁に貰うわけにはいかない。


 ミーミーが元気であればいい、と思った。甘えたがりで基本的にはおとなしい性格のミーミーだ、きっとどこででも愛されるだろう。ましてきちんと梳かしてやれば見事な長毛だ。イーラーンの猫は美しい。


 そう思っていた。






 それから数日後の御前会議の時だ。


 ハミト王を中心に、王の重臣が車座になって政治についての議論を交わしたのち、昼餐会が行なわれることになった。これもいつもの恒例行事で、マフムードはここで出される宮廷料理を密かに楽しみにしていた。


 食事が運ばれる直前のことだ。


「ところで、話が変わるのですが」


 宰相のガズヴィーニーがハミトの御前に進み出た。


「陛下の御前で、陛下とマフムード殿と三人でお話しさせていただきたいことがござりまする。よろしいですかな」


 マフムードは途端に緊張した。ガズヴィーニーがアーラシュのことを言い出すのではないかと思ったのだ。ミーミーが言ったことが本当であればアーラシュは実在しない人間でガズヴィーニーの息子でも何でもないはずだが、ガズヴィーニーからしたら大事な駒であろう。それが失踪したとなれば小姓として預かったマフムードの責任が問われる。


 そんなマフムードの事情を微塵も知らないハミトは、いつもの笑顔と鷹揚とした態度で「ふむ、よいぞ」と答えた。


「他の者たちは下がらせた方がよいか」


 ここにいるのは王と宰相と将軍だけではない。他の高位の文官たちや武官たちもいて、宰相の突然の申し出に何事かと驚いた目をこちらに向けている。マフムードは彼らを追い出したかったが、話を切り出したのはガズヴィーニーなので自分が言い出すのはおかしい。


 ガズヴィーニーはいったい何をどうハミトに話すつもりだろう。


 心臓が破裂しそうになったが――次の時だ。


「入りなさい」


 ガズヴィーニーが出入り口の方に声を掛けると、一人の若い娘が入ってきた。

 長く濃い睫毛は密集しており、眉もしっかりとしていて、豊かな黒髪を豪奢な毛織物の布で包んでおり、絹のシャルワールに包まれた柳腰はたおやか、華奢な体躯はたっぷりの布で覆っているがどこか儚げに見えた。顔も下半分に面紗ヴェールをつけているが生地が薄く、高くて形の良い鼻筋と少し厚めの肉感的な唇の影は隠し切れていない。


 マフムードは心臓が止まるかと思った。


 ミーミーだ。あの晩より少し若い姿を取っているが、間違いない。この美少女はミーミーが化けた姿だ。


 娘は高貴かつ貞淑を装い、ガズヴィーニーの後ろでおとなしく沈黙している。

 ガズヴィーニーが意地悪く笑った。


「こちらは我が娘のアヌーシェ、そろそろ十七になるので嫁入り先を探しておるのです」

「ふむ」

「そこで、ぜひともマフムード将軍に」


 心臓が跳ね上がった。


「我らが偉大なる王ハミト様を差し置いてと思われるやもしれませぬが、文官の長たるガズヴィーニー家と武官の長たるワリード家の縁組は私の悲願にございますれば。イーラーンの智とアラブの武。組み合わさったら最強であると私は自負しておりまするので、ぜひとも両家の縁組を陛下に後押ししていただきたく」


 ちらりと、アヌーシェというイーラーンの姫君のような偽名を名乗っているミーミーの方を見た。

 ミーミーは面紗の下でにやりと笑った。


 やられた、と思った。またもやガズヴィーニーとミーミーの利害が一致したのだ。ガズヴィーニーはアーラシュを息子として受け入れたのと同じようにアヌーシェと名乗るミーミーを娘として受け入れたに違いない。ひょっとしたらガズヴィーニーはミーミーが化け猫であることも知っているのかもしれない。


 あの夜ミーミーに自分が結婚しないでいる本当の理由を明かしてしまったことも今思えば失敗であった。ハミトのために未婚を貫いているのであれば、ハミトの了承ないし命令を得れば結婚できると思ったに違いない。そしてそれは正しい。ハミトがここで頷けばマフムードはこのアヌーシェとかという女と結婚せねばならなくなるだろう。


 ハミトの顔を見た。

 ハミトはいつもと変わらぬあっけらかんとした顔をしていた。


「うむ、よいぞ」


 あまりにも簡単だった。微塵も悩むそぶりを見せず、食事を分け与えるのと同じ感覚で、あっさりと頷いてしまった。


「ガズヴィーニーの言うとおりだ。ガズヴィーニー家とワリード家の結びつきはこの国をさらに発展させるものになるであろう」


 そして少年らしく少しはにかんだ顔をする。


「実は、マフムードがいまだ独身であるのが余は少し心配であったのだ。そなたが嫁を世話してくれるというのはとても嬉しい」


 まさか心配されているとは思わなかった。急速に申し訳なさが立ち込めてきた。


「今までなんやかんやと理由をつけては断ってきたが、宰相の娘はさすがに拒めまい。ましてやこの絶世の美少女だ。中身も必ずやガズヴィーニーに似て賢い娘であろう。よいではないか、よいではないか」


 そこまで言うと、ハミトは家臣たちに向かって「なあ、皆の衆もそう思わぬか」と問い掛けた。家臣たちは一同首を垂れて何も言わなかった。彼らの表情はどこか優しげだ。もしかしたらマフムードの縁談に安心してくれているのかもしれなかった。


 こうなってしまっては逃げられない。


 もう一度、ミーミーの顔を見た。

 ミーミーが、にこりと微笑んだ。


「よろしくお願い申し上げますね」


 なんと恐ろしい女か。猫とはいえ女を侮ってはならなかったのだ。








 こうしてワリード家の騎士の中の騎士マフムードは宰相ガズヴィーニー家のアヌーシェ姫と結婚することになった。アヌーシェ姫は機知に富んだ良妻としてこの国の伝説に名を残すことになる。

 同時に、マフムード将軍が自宅の中庭に面した回廊でぼんやりと休息を取っている時、その傍らには必ず長い三毛の美しい猫が寄り添っていた、という逸話もこの国には残っている。そのイーラーンの三毛猫がいつどこから来たのかは、今となってはもはや誰も知らない。



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恋するペルシャ猫ミーミーの策謀 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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