第3話

 今から数えて三ヶ月ほど前のことであろうか。


 都の中心に王の住む宮殿がある。政務を行う府庁でもあり、マフムードは定期的に参内して王やその側近たちと国家運営についての議論を交わしている。


 ウスマーン王は改宗したといえども元はトゥーラーンの遊牧戦士だ。土壁の邸宅は馴染まぬと言い、宮殿の中庭に天幕を張ってそこを家としていた。ウスマーン王の家族も倣って幕家を常の住処としており、息子のハミト王もやはり中庭の幕家で寝起きする暮らしを送っている。


 その日の御前会議が終わると、ハミト王が戯れに将棋をするので相手をするようにと命じたため、マフムードは中庭の幕家に入った。


 そこにくっついて猫も入ってきた。


 毛の長い三毛猫である。イーラーンでよく飼われる高価な品種の猫だ。しかし長い毛は絡んでもつれており、手入れされていないのが傍目に見てもよく分かった。撫でて毛を押さえてみれば痩せ衰えている。


 人は斬れるが猫は斬れぬ。マフムードは遅れて帰ってきたハミトにこの猫を保護してほしいと申し出た。温和な気質で敬虔なハミトは一も二もなく了承し、厨房に鶏肉と水を用意するよう申しつけた。


 その日マフムードとハミトは将棋をせずに猫の介抱をした。


 マフムードは硬めの刷毛で猫の毛を整えてやった。梳かし終わっても人懐こい猫はマフムードの膝の上を気に入ってなかなか退こうとしない。


 飼い猫であれば元の家に帰してやりたいが、鈴をつけているわけではない。宮中にいた人間を片っ端から捕まえて知っている猫かと問い掛けてみたが誰も知らないと言う。


 ハミトは言った。


 ――まあ、宮殿に猫が一匹住み着いたくらい何ということもなかろう。その辺に放っておけばよい。厨房に餌だけ用意させておけば気ままに暮らすに違いない。何せ猫であるのだから。


 しかしマフムードはこの猫が心配であった。この長い毛は人が手入れをしてやらなければ維持できぬ。


 ハミトはおおらかな少年だが裏を返せば大雑把で、猫がいてもいなくても気にしないかのような節がある。宮殿で餌を貰って猫は少しずつ太っていったが、ぼさぼさの毛並みは誰かが整えてやらねばみすぼらしくなるばかりだ。仕方なく、マフムードが毎日猫の毛並みを刷毛で撫でてやっていた。


 それが先月辺りにふつりといなくなった。


 急なことだったのでマフムードは心配した。捜しもした。ハミトは、猫なのだから、猫なのだからと鷹揚に構えていたが、マフムードはあの甘えたがりの雌猫が一匹で強くやっていけるとは思えなかったのだ。


 だが、いないものは仕方がない。忘れるしかない。



 その猫の名が、ミーミーだ。ハミトがミーミーと名付けたのだ。




 言われてみれば、ガズヴィーニーがアーラシュをマフムードのところに送り込んできたのは、ミーミーが消えて二、三日した頃のことであった。


「では、お前がガズヴィーニーの息子というのは嘘なのだな」


 ミーミーはつんと澄ました顔でいとも簡単に「はい」と頷いてみせた。


「ガズヴィーニーには四人の妻と九人の子がありますが、これくらいの年頃の息子はいません。しかしガズヴィーニーにとっては良い政治の道具があればそれが血のつながった我が子であるか否かは大きな問題ではないのです。マフムード様に取り入られる美しい少年があればよい。都合よく現れたわたしをガズヴィーニーは暖かく迎え入れました」


 なるほどガズヴィーニーらしい。「よくあの男がそういう男であることを知っていたな」と呟くと、「マフムード様やハミト陛下とお話しになっているところをずっと見ておりましたもの」と答えた。


「ガズヴィーニーとわたしの利害は一致しておりました。文官の長に上り詰めたガズヴィーニーは、武官の長に上り詰めたマフムード様の下に自分の血縁を送り込み、家同士の縁を結んで、自らの地位を完全なものとしたいのです。一方わたしはマフムード様のご寵愛を受けたいのです。ですからちょうどよかったのでございます」


 マフムードは腕を組んで唸った。


「それならばなぜ息子として送り込んできた? 家同士の縁を結ぶのであれば普通は娘を嫁にやるものだろう。いくら小姓と主人の絆が強く太いものといえども小姓はいずれは独立して騎士を目指すものだ。それにお前は三毛なのだからやはり雌であろう。男に化けるより女に化ける方が自然なのではないか」


 ミーミーが意外そうな声で「あら」と言う。


「マフムード様が女性はお好みでないとお聞きしたからでございます」


 つい顔をしかめてしまった。


「宮中の皆が申しております、マフムード様は大の女嫌いで根の深い男色家なのだと。ですからマフムード様のお心を射止めるには美しい男子でなければならぬと思ったのでございます」

「そのようなこと、どこから出た噂だ」

「マフムード様がそのお年になるまで独身でいらっしゃるのは、女を遠ざけておきたいからではないのでございますか?」


 失敗した、と思った。確かにマフムードはすでに二十代も半ばで、普通に考えたら独身であることはおかしい。ましてマフムードは軍の高官で嫁のあてはたくさんある。それをすべて断ってきたのが裏目に出たようだ。


「俺が結婚しないのはハミト陛下のためだ。ハミト陛下がご結婚するまでは結婚しないという願掛けをしていて、ハミト陛下にお子が生まれたらその王子にお仕えするにふさわしい年の近い子を作ると心に誓っているのだ」


 真相を打ち明けると、ミーミーは跳ね上がるように上半身を正して「なんと!」と叫んだ。


「ではマフムードは女性をお好みなのですね」

「うむ、言葉は悪いが、男よりは女が好きであろうな」


 その次の瞬間だ。


「ではこう致しましょう」


 ミーミーが立ち上がった。

 そして、その場でくるりと宙返りをした。

 ふたたび床に両足で立った時、ミーミーは妙齢の美女に変化していた。長く濃い睫毛が密集しており、眉もしっかりとしていて、腰を越えるほど長く豊かな黒髪が波打ち、柳腰はたおやか、薄絹からはふっくらとした乳房の形が見えている。なんと艶めかしく美しいことか。


 紅い唇がにたりと笑う。


「いかがでございますか。これならばマフムード様のご寵愛を受けられますか」

「頭に耳が生えたあやかしと通じる気はないが――」


 ミーミーが急いで猫の耳をしまった。


「いや、いかん。騎士たるもの貞節を重んじるべきだ。女犯は堕落に通じる」


 しかしミーミーは聡い。「ははあ」と笑いながら一歩歩み寄ってきた。


「アーラシュの姿はやはりお好みではなかったのですね。こちらの姿がお好みなのですね」


 動揺しているのを悟られてしまっている。恐ろしい。

 月明かりに照らされた肢体、滑らかな肌がすぐ傍にある。


「いかん!」


 それでもなお騎士としての矜持を重んじたマフムードはふたたびミーミーを振り払い、突き飛ばした。ミーミーはまたもや鳴き声を上げながら床に転がった。


「未婚の男女が姦淫などしてはならぬ。いいか、猫は知らんが、人間はそうやすやすと床を共にしたりなどしないのだ」


 ミーミーはしばらく恨みがましい目でマフムードを見ていた。生意気な雌猫だ。


「マフムード様のいけず。頑固者。分からず屋」

「そう思うのならばそれでもよい。むしろそれでよい。とっとと去れ」


 そう言って寝台の上に戻った。掛け布団を頭からかぶる。冷静にならなければならなかった。ミーミーに悟られずに、だ。


 ややして、ミーミーは舌打ちをした。そして、「分かりました、今夜はもういいです」と言った。


 掛け布団からほんの少しだけ顔の上半分を出し、ちらりとミーミーの方を見る。


 マフムードはもう見ていないとでも思ったのか、ミーミーは猫の姿に戻っていた。見慣れた長い三毛の少しずんぐりとした猫だ。猫の姿のままであれば可愛いのに、ずいぶんと恐ろしい猫であった。まさか化けるとは思っていなかった。


 ミーミーが戸の方を向いて歩き始める。そういえば、先ほど足音がしなかったのは、ミーミーが猫であったからであろう。今は隠れる必要がないと判断したのか、と、と、と、と軽い足音を立てて外へ出ていった。


 このままどこか遠くへ行ってくれればいいのだが。

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