恋するペルシャ猫ミーミーの策謀
日崎アユム/丹羽夏子
第1話
時は遡ること二十余年。
さるアラブの街に遥か彼方東の草原トゥーラーンの地より遊牧戦士の一団が押し寄せてきた。一団の長は名をオルナンミシュ
指を咥えては見ておれぬ。信仰の戦士たるアラブの騎士たちは今がその時と一致団結、積年の対立を乗り越え各家が協力してトゥーラーンの蛮族を迎え撃つと決断した。
疾風のごとき勢いで迫りくるオルナンミシュ可汗の一団。
アラブの騎士たちは街の郊外に広がる砂漠を決戦の地と定め、市壁の中に女子供を残して、信仰と愛に殉ずる覚悟で出陣したのであった。
はたして結果はアラブの騎士たちの敗北であった。情け容赦ない蛮族の猛攻に信仰の徒は敗れた。
だがすべてが灰燼に帰したわけではない。
オルナンミシュ可汗に一騎討ちを申し込んだ騎士が一人ある。偉大なるこの勇士の名はワリード家のサルマーン。当時齢二十三の若者であったが礼節を知り武勇に優れた栄えある騎士の一人で、その時も蛮勇を誇る戦士たちを掻き分け単騎オルナンミシュ可汗に辿り着いた。
そして果てた。
しかし彼は最期に大いなる遺産を残した。
サルマーンの振る舞いにいたく感激したオルナンミシュ可汗は勝利ののちにサルマーンの信じた生き方への帰依を宣誓したのである。
かくして恐るべき蛮族であったトゥーラーンの戦士たちは同じ唯一神を奉ずる兄弟と相成る。
アラブが戦で敗れたことは確かで、街の支配者はオルナンミシュ可汗であることに相違はなく、死んだ騎士たちはけして戻らない。しかしトゥーラーンの戦士たちによる統治は啓典に従って行われて、多くの
これぞまさに歴史の妙。
さて、ここからが本作の主人公たるマフムード青年の話である。
オルナンミシュ可汗は改宗の際に名前をアラブ風に改め、以後ウスマーン王と名乗った。
ウスマーン王は自らが屠ったアラブの騎士たちの遺児たちの保護に努めた。
中でもとりわけ目をかけたのが、改宗のきっかけを与えた崇高なる意志の騎士サルマーンの一粒種マフムードであった。
当時マフムードはまだ言葉も満足に話すことのできぬ幼子であったが、ウスマーン王はマフムードも必ずや父に似た立派な騎士になるであろうと考えた。その母や乳母に充分な養育の費用を与えて、長じては啓典を学ばせ、ある程度の年頃になれば自らの小姓として武術を教えながら礼儀作法を身につけさせた。
そうして育ったマフムードにとってウスマーン王は父の仇ではあったが第二の父でもある。むしろ、記憶にはない実の父より武術の師であるウスマーン王に敬慕の念を寄せていた。
ウスマーン王は結局若い頃の暴虐のつけが祟って仇敵に暗殺される。しかし、この時すでに高位の武官、すなわち将軍となっていたマフムードの対応は迅速であった。宰相と協力して早急に敵対者たちを一網打尽にした。そして、ウスマーン王がもっとも目を掛けていた王子ハミトを王位に押し上げた。
新王ハミトにとってのマフムードは己を王にしてくれた恩人だ。マフムードからしても敬愛するウスマーン王の後継者であり自分を慕ってくれる弟のような存在でもある。二人の関係は良好であった。
若き少年王ハミト、ウスマーン王の秘蔵っ子であり腕の立つ将軍のマフムード、そしてウスマーン王の右腕であった頭脳明晰な宰相――この三人体制の統治はなかなかにうまくいっている。マフムードが自ら反対勢力を一掃したこともあって最近はそれなりに平和だ。
だからこそ余計なことを考える者も出てくる。
今のマフムードの目下の悩みは、よりによって、その、宰相である。
屋敷の中庭に面した
そこに颯爽と一人の人影が現れた。
小姓のアーラシュである。
アーラシュはマフムードの足元、中庭の地面に膝をつくと、マフムードの手から爪切り用の小さな鋏を取り、「お切り致します」と告げた。そして、マフムードの返事を待たずしてマフムードの左足の踵をつかんで持ち上げた。
この少年はマフムードの世話を焼きたくてたまらないらしい。ほんの些細な仕事でも目敏く見つけてすっ飛んでくる。マフムードは爪ぐらい自分で切れる。切ってほしいとは思わない。むしろそんな気軽に身体へ触れられるのは気分のいいことではない。だがアーラシュはやりたくて仕方がないのだ。
アーラシュは四六時中マフムードに張りついている。小姓であるからには身の回りの世話を焼くのは当然だが、食事の世話から用便の後まで本当に何でもついてきてしまう。
小姓はただの召し使いではない。行儀作法の見習いに来ているのであり、勉学や武芸もしてもらわなければならない。マフムードも最初は教育を念頭に置いてアーラシュを預かった。しかしアーラシュはそういった事柄には一切手を付けずマフムードの隣に座ってにこにこしているのだ。
失敗した、と思った。こんなことならば預からなければよかった。
アーラシュは宰相ダーラー・ガズヴィーニーの息子だ。
ガズヴィーニーは、ウスマーン王がまだウスマーンと名乗り始めたばかりの頃、この街を都と定めて国を興したばかりの時に来たイーラーンの男である。
イーラーンの男が文官として宮殿に潜り込んでくるのはまったく珍しいことではない。イーラーンの人間はいにしえのサーサーン帝国を支配していた民族だ。帝国時代の拝火教を離れアラブの唯一神に帰依してからというもの、巨大な帝国を運営していた政治手腕があること、そして神の下では平等である以上異民族でも受け入れるべきであることから、アラブはむしろ積極的にイーラーンの人材を登用していた。
ガズヴィーニーもその一人で、イーラーンの言葉とアラブの言葉を流暢に話し、どちらでも詩や公文書を作ることができる、典型的なイーラーンの知識層の人間である。その上おそろしく頭の切れる男で、やや武に傾いていたウスマーン王の頭脳として非常に重宝されていた。
高度な教育を受けたとはいえマフムードも武人だ。騎士たるもの知恵を蔑ろにしてはならぬとは思っているが、ガズヴィーニーは知のみに偏りすぎているきらいがある。端的に言えば、何を考えているのか分からなくて気味が悪い。いろんなことを武術で解決しているマフムードとは馬が合わない。
表向きはうまくやっている。マフムードは子供ではない。ガズヴィーニーの頭が良いのはありがたいことで、向こうもハミトという主君を奉っていれば自分の地位が安泰であることを理解している様子だ。利害が対立しない限りは仲良くすべきだ。
そう自分に言い聞かせつつ、自宅、つまり私的空間ではガズヴィーニーを忘れて暮らしていたマフムードのところに、ガズヴィーニーは息子のアーラシュを送り込んできた。
あの腹黒い男のことだ、何か魂胆があるのではないか。アーラシュを使ってマフムードに取り入り、マフムードを本格的に取り込もうとしているのではないか。だからアーラシュは勉学をせずマフムードに媚を売り続けているのではないか。
アーラシュのこともいまいち信用ならない。父に似て何を考えているのか分からないのである。馬鹿ではないことは確かだ。会話は成立する。むしろマフムードの問い掛けにちゃんと答えられるところからするに相当賢い子だ。だからこそ、どちらかといえば武骨なマフムードは少し恐ろしくも感じるのだ。
ついでに――というよりは、もしかしたら最大の――問題が、アーラシュにはひとつある。
豊かな柔らかい黒髪、白くふっくらとした頬、半月の眉に杏型の目には大きな黒目がちの瞳、糸杉の立ち姿はたおやかな乙女のよう。
つまり、絶世の美少年なのである。
マフムードはいまだかつてアーラシュに匹敵するほどの美少年を見たことがない。ガズヴィーニーがこんな美少年を隠して育てていたというのも驚きだ、よくぞこの年まで隠し通せたものだ。
こんな美少年を連れて歩いたら噂にもなるに決まっている。しかもアーラシュはマフムードにべったりと張りついている。あちらこちらで囁かれているのを感じる――マフムード将軍は美少年の色香に屈して衆道に耽っているのだ。
少年愛自体はさほど珍しいことではない。少年はまだ男ではなく、まして美少年は神の作り給うた善なる美しきもののうちのひとつだ。だから愛でることはさほど咎められることでもない。中にはそれを目的として小姓を囲う不埒者さえいる。しかし、硬派一筋でやってきた騎士の中の騎士のマフムードだ、美少年に心を傾けていると思われるのはこの上なく不愉快だ。
アーラシュの白魚の指がマフムードの足の指をつかむ。その触れ方は意味深長で艶めかしく感じる。けれど蹴飛ばして抵抗するわけにもいかない。アーラシュは宰相ガズヴィーニーの令息なのである。
暑い午後、日陰の中庭で、足の爪を切らせる――なんと耽美で淫蕩な行為か。実に不愉快だ。自分はそういう男ではないのだ。
疑念が首をもたげてくる。
ひょっとして、ガズヴィーニーの真の狙いはこれではないのか。つまり、マフムードに美少年を宛がって、男色の醜聞を流したいのではないか。あるいはアーラシュをマフムードの弱点として育てて将来は強請ってくるのかもしれない。アーラシュ自身もガズヴィーニー譲りの強かさでマフムードに何らかの要求をしてくるようになるのかもしれない。
アーラシュを早急に追い出したい。
しかし、どんな理由で、どうやって、だろう。小姓として預かった以上は一人前の騎士に育ててやるのが主人の務めだ。はたしてどんな理由をこじつけて実家に送り返せばいいのか。それこそマフムードの不名誉になって、勇士サルマーンの息子として、またワリード家の騎士として、騎士一人育てることもできぬ男という形で家名に泥を塗るのではないか。
マフムードはひとつ大きな溜息をついた。アーラシュは気づいていない顔で今度はマフムードの右足を取り爪切りを再開した。
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