第2話
アーラシュが動いたのはそれからほどなく経ったある夜のことである。
その日の夜は月が満ちて昼間のごとく明るく、一人寝室にこもったマフムードはあまりの眩しさ故とっとと窓掛けを閉めた。彼は眠る時部屋が真っ暗闇であることを好む。机の上にひとつ
砂漠の夜は冷える。大きな寝台、柔らかな布団を鍛え上げられた筋肉の胸に引き上げて掛ける。
静かであった。世はすでに眠りにつき都は平安に包まれている。ハミト王の治世がこのように続くことを祈りながらマフムードは目を閉じた。
ところがそれからさほど間を置かず戸を叩く音が聞こえてきた。
マフムードはかっと両目を見開いた。
誰かが戸の向こうにいる。
恐るべきことであった。まったく気配がなかったのだ。もっと具体的に言えば、足音がなかった。まことに静かでマフムードの他に生き物などいないかと思うほどであったのだ。
これはよくない。マフムードは騎士であり戦士である。人間の気配に気づかず安穏に眠ろうとしていたなどとは恥というものだ。夜盗や暗殺者であったならば死んでいたかもしれぬ。
戸の向こうから声が聞こえてきた。
「旦那様」
鈴を振ったようなか細く可憐な声はアーラシュであった。
マフムードは警戒した。何せアーラシュはあの権謀術数を人の形にした邪智の宰相ガズヴィーニーの息子である。何らかの魂胆はあるだろうし、もっと言えば彼こそマフムードの暗殺を狙う刺客かもしれない。いよいよ正体を見せに来たのか。
「旦那様、起きておいででございますか」
油灯に火をつけ部屋に灯りを燈した。そして枕元に置いておいた短剣を密かに手にした。すぐに取り出せるよう手元の掛け布団の中に隠した。
準備を万端に整えてから、「起きている」と答えた。
「アーラシュか」
「はい、アーラシュでございます」
「何用か。時はもう夜半だ、急ぎの用でないのならば明日の朝にしてはもらえぬか」
「急ぎというほどのことでもないのですが、旦那様と二人きりになれる夜にしかお話しできぬことでございますれば」
息を呑み、覚悟を決めた。
「よし、入れ」
言うとアーラシュが戸を開けて部屋の中に入ってきた。
マフムードは眉間にしわを寄せた。
油灯の明かりでぼんやりと照らし出されるアーラシュは薄着で、着ている絹の肌着からは肩や腰の線がはっきりと出ていた。潤んだ瞳と紅潮した頬は意味深長にて常ならざる様子だ。
ひとによってはその艶姿を賛美したかもしれぬ。この世の者とは思えぬ美しい少年が訳のありそうな姿で夜に訪ねてきたのだ、さすればすべきことはひとつしかない。並みの凡庸な男であれば喜んでむしゃぶりついたことであろう。
しかしマフムードは誇り高きアラブの騎士、色香に惑わされるような男ではない。まして相手はガズヴィーニーの息子アーラシュ、マフムードの弱みを探っているかもしれないのだ。
アーラシュはしずしずと歩み寄ってくると、寝台の縁に腰を掛けた。そしてその薄紅色の唇から甘い声で囁いた。
「お情けを」
端的に言って不快だ。
「近づくことを許しておらぬ」
「そのようなことはおおせにならず」
アーラシュの白く長い指がマフムードの筋肉で太くたくましい腕をなぞる。
「どうぞ今宵一夜のお供に――」
マフムードは勢いよくアーラシュの手を振り払った。そして突き飛ばした。
アーラシュが悲鳴を上げながら床に転がった。
さてこの不埒者をどうしてくれようか――そう思って油灯を手に取った、その時だ。
油灯の明かりに照らされて、おかしなものが見えた。
アーラシュの頭に何かが生えている気がする。
そんな馬鹿げたことがあるはずはない。何かかぶりものをしているに違いない。あるいは暗いから髪の動きを何かと見間違えたのだ。
さらなる明かりを求めて、マフムードは窓掛けを開けた。窓枠の向こうから大きな満月の光が入ってきて、部屋の中は昼間のように明るくなった。
マフムードは驚愕に目を丸く見開いた。この十年アラブ騎士としていついかなる時も冷静沈着であったマフムードにしてはめったにないことだ。
恐ろしいことが起こっている。
アーラシュの頭に、確かに何かが生えている。
それは、マフムードの目には、猫の耳に見えた。
アーラシュの頭の左側に、赤茶色の毛の猫の耳。アーラシュの頭の右側に、黒い毛の猫の耳。確かに、一対の猫の耳が生えている。
よくよく見れば、アーラシュの尻からも尾が生えていた。途中までは白いが先端が赤茶色をした長毛猫の尻尾だ。
「何だそれは」
最初のうちマフムードが何に驚いているのか分からなかったのであろう、アーラシュはきょとんとしていた。だが、マフムードが「耳だ、耳」と言って頭を指すと何のことか分かったらしく、両手で両の猫の耳を押さえた。次に手を退けると猫の耳は消えていた。けれど尻尾はいまだそのままだ。
「貴様、何者だ。人間ではないな」
アーラシュは押し黙った。しおらしく斜め下を見ていた。
彼の答えを聞く前に、マフムードはひとつの解に辿り着いた。
長い毛の、黒と白と赤茶の三毛猫――マフムードはそんな猫に見覚えがあったのだ。
「まさか貴様、ミーミーか」
アーラシュが片眉を持ち上げる。マフムードの様子を窺う。否定する気配はない。
「ミーミーなのだな」
もう一度言うと、観念したらしい。アーラシュ――ではなく、ミーミーが「左様でございます」と答えた。
驚いた。こんなこともあるものか。月夜の魔力のなせる技か。
ミーミーは居直った。床に完全に尻をつけ、両足を投げ出し、唇を尖らせ、不遜な態度で語り始めた。
「おおせのとおりにございます。わたしはあの時助けていただいた猫のミーミーでございます。マフムード様のお傍に侍らせていただきたく、人の子の形に変化して参ったのでございます」
マフムードの中にミーミーと出会った時のことが浮かんだ。
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