第9話 合鍵
連絡が来てからの対応は、それなりに早かった気がする。肝心な時に良く体調を崩していた彼の看病は、いつもあたしがしていたから。
1歳下の幼馴染のウルシ、あおいとは進路もやりたいことも違った。それなのに、大学でまた一緒になって、そこにウルシと同じクラスの柳原が会話に入るようになった。大学2年の秋、他校の文化祭で仲良くなった1つ下のくり、こと栗原桃子と連絡を取るようになって、この病院に務めてからは、柳原と漆山の先輩であり、あたしと同い年の柏木が入った。柏木とは学科が違うから、噂だけは知っていたけど話したことまではなくて。柳原、栗原、柏木とは途中から話すようになったのに、昔からそこに居たかのようによく馴染んだ。男子は男子で甘いものが好きって共通点、私たちは好きな物や話題が不思議と気が合うから、自然と集まるようになったのだと思う。そして、6人でご飯食べようって時に…まったく、もう。
漆山のアパートに向かう途中、ドラッグストアで消化に良い食べ物、飲み物、風邪薬を購入する。28歳になってもお粥が作れなくて、出来合いになってしまうけど、それが1番いいって分かってる。療養中の彼にまもの食のパスタやどろどろなカレーを食べさせる訳にはいかないから。
「お会計2500円です」
買い物袋を片手にアパートへ再び向かう。足取りは自然と早歩きになる。
ウルシから貰った合鍵を使って、彼の部屋に入った。この間掃除したばかりだから、それなりに小綺麗になってはいるのに彼の部屋はむっとした男の匂いがした。
「うるしっ、大丈夫?!」
「……あれ、楓さ、…?」
敷かれた布団には、顔を真っ赤にしたウルシが横たわっていた。すぐに身体が動いて、彼の元に行き額の汗を拭い冷却シートを貼る。飲み物とパウチのゼリーを冷蔵庫に、レトルトのお粥はボイルする為お湯を沸かして、換気扇をつけ窓を少し開けた。
「…皆と食事、行ったら…良かったのに」
「何言ってんの、アンタ放置してたら…仕事のシフトに支障あるでしょ?」
もっと気の利いた事が言えればいいのに、ほんと可愛くない。自分が嫌になりつつも、タオルを冷たい水で濡らして、固く搾り身体を拭く準備をする。学校で習ったことがこんなとこで活かされるなんて、パパが聞いたら笑いそう。
「……はは…変わらず手厳しい、っ、す」
「ご飯食べてないでしょ?身体拭いたら、着替えてお粥食べて薬飲みなさい」
キッチンタイマーをセットして、濡れタオルと洗面器を手に布団を敷いた居間へ。タンスから新しい下着、寝巻きを取り出して、ウルシの身体を布団からゆっくり起こし、パジャマの前ボタンを外していく。手馴れているのは、目の前の。
「楓さん」
「なっ…何よ…」
「オレ、今…凄く嬉しい…この埋め合わせは、かならず」
……恋人の、所為。
「……っ、!そ、そうね…早く元気に、なってもらわないと困るわ」
いつの間にか逞しくなった彼の背中は、実家の農家を手伝う時にできた傷や、看護師になって溜まった疲労が積み重なっている。お互い仕事で忙しいから、ここ暫く一緒の夜を過ごしていない。いつもまっすぐで、お調子者で、生真面目で、頑張りすぎで
「っ、楓さ、くすぐったいっス」
「えっ!?…ご、ごめんなさい」
たまに、凄く格好良い彼の背中に伝う水滴と、私の頬を、タオルで拭って彼に新しい下着と寝巻きを渡す。
流石に下は、脱がすわけにいかなかった。自分でやってもらうことにする。
「楓さん?」
「な、なんでも、ないわよ!」
どうか、今は振り向かないで。
× × ×
キッチンタイマーの音が鳴ったら、彼女は素早い動きでコンロの元に行ってしまう。背中から離れるタオルの肌触りが消えて、少し寂しく感じてしまった。
しくじったと思う時、大体後の祭りになることが多い。金曜日の入浴介護で、いつも暴れる爺さんに手こずり全身濡れ鼠になった。何とか介護を終わらせ、すぐに拭いて着替えたけれど、まだ2月と言うことを忘れていたオレは着替えながら平気だと同僚に笑った。
異変を感じたのは昨日の夕方。寒気が止まらず、いつもより厚着で帰宅した。早めに布団を敷いて、ろくに食べずに横になる。明日は何がなんでも、彼女と彼の後押しをしたい。いつも世話になっている、臆病な放射線技師と売店の栗原さんに。
「っくしっ!」
買い置きの薬はとうに切れていた。口酸っぱく備えなさい、と言っていた年上の彼女の顔が脳裏に浮かぶ。彼女に連絡しようとスマホに伸ばした手は、スマホに伸びることはなかった。
気絶するように寝て起きたら、パジャマも下着も汗で濡れている事に気づく。これは無理だな、と判断して、昨夜は連絡出来なかった楓さんに電話を掛けた。
「楓、さ…すいません…オレ、熱出したみたいで」
正確な体温は、体温計を探す前に布団に入ったから計れていない。ただ、看護師としての勘が38度以上を示していた。頭が痛くて、目の前がぼんやりする。古びた木製の天井がぐるぐる回っていた。
『もしも……は?!熱?』
「面目ないっス…今日は5人で、行って…」
申し訳無さと情けなさと、言い出しっぺがこれじゃあな、と涙が出そうになった。弱気になったオレの耳に、彼女の声がじんわり響く。
『あんたはいっつも肝心な時に…分かったわ…もう』
おだいじに、と小さい声で言って、電話が切られた。きっと気丈な彼女は、みんなとランチを食べていることだろう。
「はぁー……情けねぇ」
何とかして、明日までには治さないと…ぐるぐる周る天井から目を逸らせるように、瞼を閉じてすぐにオレは意識を手放した。
そして目が覚めた時、いつの間にか口を真横に結んだ、年上の彼女がいた。
× × ×
「ほら、お粥できたから」
コンロの火を止め、あちち、と指先に触れる熱さを耳たぶに逃がし、パックの封を切って予め出していたお皿にお粥を移した。
農家の息子だけあって、普段から料理をする彼。道具や材料はそれなりに揃ってるし、キッチンはいつも綺麗だ。いつもの場所にあるどんぶりを、いつもと少ない数だけ出す。
初めて彼から家に呼ばれて、料理を教わった日を思い出してしまう。
「なんかここに立つと思い出すのよね。あの時は、確か……」
「コメの炊き方と、味噌汁っ、す」
くく、と小さく笑う彼と目が合った。新しい下着とパジャマに着替えて、少しさっぱりした顔つきになっていた。同じこと考えてたみたいで、無性に恥ずかしくなる。
「学校と、家の往復で…家では給仕がいるからって、高校に入ってもまったく料理を知らなかったとは思わなかったっス…」
「だ、だって…楓が作ると、みんなお腹壊すのよ…?でも、まものたちには喜ばれたから、そっちの道に行こうと決めてたの。子供の時から」
「へへ…土まみれのまものパスタを作った時は、何事かと…」
「……、その時は…悪かったわね…お粥、レトルトだから安心して…」
「でも、今ではそのまものパスタに命を救われた人…いや、まものっスけど…何人もいるんスよ。昔は専属の栄養士がいなくて、困っていた患者さんが大勢いた。楓さんの考えた料理、献立は、確実に誰かを助けてる」
「だから無理しないで、オレの料理食べた後…いつもみたいにウルシの割には、って、笑っててください」
……ばか。
誰かじゃなくて、たった1人笑顔に出来ればよかったのに。そんなこと言われたら、仕事辞めれなくなるじゃない。…いつかは寿退社、なんて、あたしらしくないかしら。
彼氏なのに苗字で呼ぶのね、と友達に言われたけれど、彼の名前を呼ぶのは二人で居る時だけだと密かに決めている。あたしの名前と同じだけど違う、紅葉と言う名前を。
「……治ったら、みんなと食べる予定だったパスタ、紅葉に作ってもらうから」
「はいっス」
「だから、今はあたしに黙って看病されなさい…?」
「……はいっ、す」
どんぶりと、スプーンを持って居間に向かう。彼が起きた布団の傍、湯気が出ているお粥をひとさじ、スプーンに掬って息を吹き掛けた。
「はい、口、あけて」
「楓さん」
気がついたら、紅葉の唇は違うとこに触れていた。
「……っ!?」
「へへ、ご馳走様っ、ス」
「…ばかっ、もぅ…!」
今しがた触れられた唇を拭う。
ニヤける口にお粥を差し出す。
これだから…私は年下の彼に弱い。
*****
「あおい、ごめん」
「話しは楓から聞いてる、けど…」
約束していた店の前、時間はもう予約の時刻を過ぎていた。あおいは2月にしては眩しい日差しを避けるように、サングラスを目深に抑える。
「…なんとなく、察したわ。トーコと柏木は別行動でしょう?」
「ああ、そうなんだ。ありがとう……」
察しのいい彼女は昔からそうだ。気立てがよく、面倒見が良くて周りに気を配れる美人。だけどその分、色々あった。カッコいいあおいねえさん、でいる為に、家族を守るために自分の夢を諦めたことを知っているのは、僕を含めほんの僅かだ。
「…ね、トシくん」
「なんだい?」
「今つまらない事考えたでしょ」
「そんなことないさ」
あおいのくびれた腰に腕を回し、店先にも関わらず彼女を抱きしめる。やぁね、とはしゃぐ声は出会った頃から変わらない。
「昼ごはん、どうする?」
「アナタとなら何処へでも」
周りの羨望の声も、あおいを見るふしだらな視線も、全部僕が吸い取ってやる。
× × ×
アタシの腰に回される腕。何人にも声を掛けられてきたけど、彼と数人の友達にしかこの体を許してはいない。
彼と出会ったのは大学に入ってから。正確には、オープンキャンパスの日だ。新歓のため、どこかのサークルが作った校庭に掘られた落とし穴に、嵌った彼を偶然助けたのがキッカケだ。当時のアタシはまだ黒染の髪で、根暗だ地味だなんて言われていたけれど、彼は容赦なくアタシに話しかけて来た。命の恩人、だと。楓や漆山以外にできた最初の友達、それが今や恋人だ。後に、漆山と同じクラスだけど年齢がひとつ上だと知った。
ママの亡くなった原因の病気を無くしたくて医療看護大学に入ったけれど、パパの体調が悪くなってしまい、経営していた病院内の食堂を継ぐことにした。髪色を母譲りの金色に戻したのもその頃だ。ママは海の向こうから来たのよ、と子供の頃誇らしげに話してくれた。大学を中退する時、みんなから驚かれて「美人になった」だの「綺麗だね」だの、歯の浮くような台詞ばかり並び立てられた。だけど柳原だけは変わらず、「黒髪のあおいも可愛かった」なんて言う。食堂を切り盛りするため、料理の試食をしてくれたのも、柳原を初めとした数人の友人だけだ。
元々は院内食堂だけじゃなくて、バーもやっていた。パパが体調を崩し、経営が傾き始め、バーを人手に渡さなきゃならなくなった時、アタシの周りにいた連中はどこかへと消えていた。ママが病気で逝かなければ、後を継いでステージで歌うアタシの夢も潰えた。
今では院内食堂に経営を1本化したことで立て直すことに成功し、経済状況はすっかり元に戻っている。
人手、いや骨手に渡ったバーは今や美味しい洋食の店に生まれ変わり、夜はバーとして営業し、復調した現役バーテンダーのパパが毎晩腕を奮っている。オーナーは気さくな骸骨男で、店員のみんなもいい人…とまものたちばかりだ。確か今年で10周年、だった気がする。
「ね、ランチ食べたらウルシのお見舞い行かない?」
「僕も同じこと考えてた」
「ふふ、人前じゃ、『オレ』って言うのに」
「あおいの前だけだよ、素を出せるのは」
アタシが外に出る時、無意識に人目を気にして季節問わずサングラスをしているのを見て、カッコイイね、僕も真似していいかな、なんて言われるとは思わなかった。アタシを1人にはしないなんて、カッコイイこと言ったりするけど、それを現実にしてくれている。
「漆山の見舞いの品も買えるとこがいいよね。テイクアウトもできる、違う店にしようか」
「テイクアウトね…美味しいお店知ってるけど、行く?」
「じゃ、そこに向かおうか」
柳原の細くて節くれた手を握る。
この手がとても暖かいことを、アタシはよく知っている。
*****
買ってきた薬を飲ませて、再び寝息を立て始めた紅葉。さっきよりは顔色が良くなってきたから、少し安心する。適宜経口補水液を飲ませたあとは時間と本人の体力次第でなんとかなる、とは思う。
穏やかな寝顔を見ていると安心してくるから、柔らかな栗色の髪を撫でてあげたりする。
童顔だと皆に言われるけど、それは本当の彼を知らないだけだ。真剣な表情をするときは、本当に、もう。
「……楓さん…」
「!?」
心臓が飛び跳ねた。ただの寝言だと分かれば安心するけれど、一体どんな夢を見ているというのか。ふやけた頬を指でつつくと、ふにゃ、と笑った。
「もう、驚かさないで」
「…」
何で彼を好きになったんだろ。
何度となく自問自答してもその答えは出ないままだ。好きだから、好きになった。そうとしか言えない。
くりはどうなんだろう。あおいは?
今度はお酒の席じゃなくて、ちゃんと話をしてみたい。きっと…無理だけど。
くりは下戸だけどあおいはとてもお酒が強い。自然に中ジョッキくらい頼みそうだな、とひとりで笑ってしまった。
ピンポン、とドアのチャイムが鳴った気がした。
「…?」
宅配でも届いたのかと、思いきや…
「あおい、それに…やなぎくん…!」
扉の鍵を開けたら、親友たちの顔が並んでいた。
「ウルシ、大丈夫か…?」
「ええ、今寝たところよ」
「これ、差し入れ。楓、何も食べてないでしょ…?」
「あ…」
気がつけばそうだった。空腹感を感じて、思わずお腹を抑える。渡されたビニール袋の中から、美味しそうな匂いが漂っている。あおいから受け取った袋には「大漁軒」と書かれていた。
「あとこっちはももこちゃんと柏木から。頼まれて買っといたんだ、美味いぞって」
柳原から渡されたのは別の紙袋だった。パッケージは…「さつき軒」?
「今なら鶏天がテイクアウトできるから、うどんに乗っけても良いってよ」
うどん、鶏天、あたしが今までロクに通らなかったメニューのオンパレードだ。料理は…紅葉に教わり中だから…
「じゃ、起こすと悪いから…」
「看病がんばれよ?」
「っっっ!まっ、まって…!」
「あの、…うどん、作り方教えて…?」
*****
……で。
なんで目が覚めたらいつの間にか人数が増えているんだ…?
「ウルシ、起きた…?」
「熱の具合はどうだ」
「あおい、お塩取ってー」
「はい、あとお醤油よ。うどんはどう?」
「もうすぐ茹で上がるよ!」
「よしっ、あと1勝…!」
これは…夢だ。
キッチンに立つあおいさん、栗原さん、オレの熱冷ましを取り替える楓さん、はまだ、いいとして……
柳原さんと柏木さん…なんでオレのゲームで遊んでるの……。
「なんで……皆さんが…?デートは…?」
「楓がうどんの作り方教えてって言うから」
「そのツレ」
「あおいから連絡貰ってお使いしてきたの」
「その連れ」
「………」
「あっっ…!!また負けた…」
「ふ、まだまだだな。柳原」
「………そこ、右コマンドっス」
まぁ、いいか。
「はい、鶏天うどんお待たせしました!」
「やったぜ!楓はビーフカレーな?」
「漆山、何湿気た顔してんだ…、食って寝て朝が来たら元気だろ、おまえは」
「もう、柏木みたいに頑丈じゃないよ…!」
「……、また、フーフーして欲しい?」
…ありがとう、みんな。
それだけで元気が出る気がする。楓さんのフーフーはして欲しい。
× × ×
翌日、無事オレの熱は下がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます