第3話 シネマ・コンプレックス
いつもより早く起きてしまった。
昨晩はまるで夢を見ているようだった。ばったり街中で彼女と会って、ラーメンを食べて、彼女の家まで歩いて送ってから動悸がなかなか収束してくれない。単純に眠れないのだと思ったけれど、頭の中でレフ板が1枚、2枚……と数えていたらいつの間にか朝だった。28にもなって、遠足前の子供かよと笑ってしまう。
自室のベッドでゴロゴロと横になっていたが、どうせ早く起きたのだからとついでにシャワーを浴びて髭を剃る。普段そこまで気にはしていないけど一応、その、女性の前だからと自分を誤魔化しながら身だしなみを整えた。
服は結局、普段通りの格好で行くことにした。黒のタートルネックとオリーブ色のカーゴパンツ、上着はいつものダウンジャケット。素っ気ないがまぁ、小綺麗ではある。映画を見に行くだけなのだし、そんなに気合い入れることもない筈だ。腕時計を右手に巻いて、気に入っているペンダントくらいは首から提げても罰は当たらないだろう。財布はカーゴパンツの、チケットとスマホをジャケットのポケットに入れて腕時計を見る。
まだ、1時間あった。
「くっそ、浮かれすぎかよ…」
玄関でダークブラウンのブーツを履きながら、思わず口に出てしまう。女性と出かけるなんて、無理やり連れて行かれた大学の合コン以来だ。それでも途中で飽きて帰ったけれど。ポケットからスマホを取り出し、待ち合わせ場所を確認する。電車を使わず歩いて行けば、丁度いいくらいの時間に到着する筈だ。
立ち上がり、玄関の扉を押し開く。外は眩しいくらいに晴れていた。
× × ×
「ああああ!!!」
どうしよう、あと1時間しかない!
目覚ましを早く掛けたつもりだったのに、いつの間にかアラームを切っていた。学生じゃあるまいし、約束の時間に遅刻なんて嫌だ。つい先日27歳になったのに、その辺がまだお子様なのかなと思ってしまう。昨夜少し遅くまで起きていたから、眠かったのは確かだけど…。顔洗ってメイクして、髪を整え着替えたらもう、待ち合わせまでそう遠くない時間だ。
ワンピースとパンツスタイル、迷いに迷った服装はワンピースにした。下にレギンスを履いて、ジャケットを着れば大丈夫。天気予報では1日太陽が出ているから、少し暑いくらいかも知れない。
慌ててジャケットを羽織り、玄関に向かう。昨晩焼いた、プレゼントの紙袋をバッグに入れて。せっかく誘ってくれたのだから、お礼くらいはしないとと作ってみたものの正直自信はない。結局聞きそびれた彼の嗜好、プレゼントはビターな甘さに抑えたものにしようと、買い置きのブラックチョコでカップサイズのガトーショコラを焼いた。大人っぽく表面には少しブランデーを染み込ませてある。
「喜んでくれるといいな…」
履き慣れたきれいめのパンプスを履いて、玄関の扉を引き寄せる。昨晩先輩から聞いた初デート(!)の失敗談を参考にして、歩きやすい靴をチョイスした。マンションの廊下はひんやりとしているけれど、その外は太陽の光が眩しい。今から急ぎのバスに乗って、待ち合わせの映画館まで……ああ、でも、髪型がいまいち
「おはよう、栗原ももこ」
聞こえた声に思わず頬を抓る。初めて呼ばれた私の…。なんでこう、彼は私の呼吸を急かすのだろう。
マンション入口には、とびきりかっこいい私服姿の柏木さんがいた。
× × ×
自宅を出て、待ち合わせ場所目掛けて歩き始める。無意識のうちに足が早くなってしまって、最後は軽く走っていた。待ち合わせ場所に着いてもかなり時間が余ってしまって、彼女の家に向かって歩いていけば、途中で会えると思っていたのに。彼女の姿は見当たらず、自宅マンションまで着いてしまった。少し待ってたら、慌てた様子の栗原と入口付近で鉢合わせる。
「柏木、さ」
「昨日と同じだな」
恥ずかしそうにこちらを見つめる彼女。マンション入口の階段を昇り、そっと右手を差し出してみる。昨日の今日じゃ、早いかも知れないけれど。
「迷子になるなよ?」
「なっ、なりません…!」
弱々しくも、確実に俺の手を握った彼女の恥ずかしそうな笑顔は今まで見た中でいちばん可愛かった。
握った手を軽く引き寄せてジャケットの中に入れ、震える栗原の指先をゆっくりとなぞり歩き出す。
……怖いのは、こっちも一緒だから。
「柏木、さん」
「そう緊張するなよ…あ、でも無理はするな」
「そんなことはないです!!」
「こっちは…ももって呼ぶから。好きなように呼んでくれ」
栗原の頬が真っ赤になっている。胸の奥がきゅっとして、思わず俺も俯いてしまった。こういう時、どんな顔をしたらいいのか…全くもって分からない。
「あっ、その、迷惑だったらすまん」
「ううん、迷惑じゃ…ないよ、でも…
」
ポケットの中に入れた手の震えが、いつの間にか止んでいた。
「…ありがとね、柏木くん」
「ん」
少しずつ緊張が取れ、昨日よりかだいぶ打ち解けた気がするのは俺だけだろうか。映画館に着いても、飲み物を購入しても、今まで感じたことの無いドキドキは静まることがなかった。
「いよいよだね…昔にやってたのは知っているんだけど、映画館で見るのは初めてなの」
「そうなんだな」
「私、こう見えてヴェルニアンだったから…」
「そうなのか!?」
思わず栗原の両手を握りしめていた。この映画の元となった小説の原作者に因んでつけられた、熱烈なファンの総称。彼の書いた数々の冒険譚は、今なお絶大な人気を博している。恥ずかしながら俺も不思議と魅了されたその1人で…子供の頃に古びた映画館でこの映画を見て以来、デジタルリマスター版として甦ったこの日をずっと待ち侘びていた。公開初日から日を伺っていたのに連日満席で、チケット難民が出ていた中で漆山には感謝しかない。
期限ギリギリではあったけれど。
「っ、柏木くんも、もしかして…」
「ああ……その、俺も…そうなんだよ」
慌てて栗原の両手を解放する。偶然にしては出来すぎていた。そう、出来すぎていたんだ。そのチケットは、カップルシート専用で2人の間の手すりがない座席だった。おまけにいちばん最後列で、目の前のカップルシートが見えてしまう位置だ。スクリーンが明るくなり、劇場内の電気が一気に消された。長ったらしい広告の後、いよいよ始まる、その瞬間。
「ドキドキするね」
「ああ」
栗原と顔を見合わせて、直後スクリーンに釘付けになる。オープニングが始まり、懐かしい導入部分が映し出された。物語は主人公である地質学者が【地底探検】と言う本を元に書かれた場所に赴き、同行した山岳ガイドと甥っ子の3人で地底の世界に引き込まれてしまった……と言う、言ってしまえば王道のSF映画だ。子供の頃に見た時よりも鮮明な映像で、栗原と一緒にのめり込みスクリーンに釘付けになった。
地底の世界は独自の生態系をつくっていて、原始時代と同じように恐竜がいれば巨大キノコの森があり、鉱石の山があった。明らかに人の手が加えられた櫓もあって、主人公たち以前にこの世界を訪れた探検家のものだと次第に分かってる。
(ああ、そうだ、ここで………)
ショッキングなシーンになった。甥っ子の父親も同じ地質学者で、彼もまた地底の世界に迷い込み帰ることなくこの世を去っていた。その遺体を息子である甥っ子が見つけてしまい、悲鳴を上げる。栗原の肩が少し震えていたからそっと手を握った。潤んだ目がこちらを向いたのが分かって、声を出さずに大丈夫だ、と握った手に少し力を込めた。
物語はクライマックスに入り、いよいよ地底の世界から脱出する方法を見つけた一行は、火山の噴火を利用して脱出することを試みる。
その方法を探っていたら主人公と甥っ子、山岳ガイドの二手に別れて手段を探ろうと言うことになり、別れ際に…主人公と山岳ガイドの濃厚なキスシーンがあったのを忘れていて、思わず顔を覆った。
何度も響くリップ音、山岳ガイド役の女優が漏らす吐息が艶かしい。子供の頃はなんとも思わなかったのに、今見ると猛烈に恥ずかしくなってくる。栗原はと言うと、目を輝かせて食い入るように見ていた。思わず笑いそうになって口元を隠したが、目の前のカップルシートの2人が急にイチャイチャし出して笑っても居られなくなった。
(こういう時、くっつきたくなるのは分かるけど…場所を考えろよ…)
2人を視界から意識的に消してスクリーンに向かうと、栗原も同じように思ったらしく小さく咳払いをした。前のカップルはついに頭を寄せあって…咳払いが聞こえたのか、直ぐに離れた。2人の思考回路がいまいち分からない。
ラストシーンに入り、再び物語の世界に没頭するが隣にいる栗原の呼吸や横顔がちらついてしまって集中できなかった。俺は1度見ているから良いけれど、初めて見る栗原に何だか申し訳ないことをしてしまった気がする。
それでも思い出補正があるから、見に来たこと自体は良かったと思う。
エンドロールが流れ、灯りが着いてもしばらく放心したように座席から立ち上がれなかった。
「…はぁぁ、良かった…」
「やっぱりいい物だな」
観客が殆どはけた所で俺も立ち上がり、へたり込んでいた栗原に手を差し出す。今度はしっかり握って立ち上がるけど、ふらついて転びそうになった栗原の身体を慌てて抱きとめた。
「…っ!気をつけろ、よ」
「はっ、わ…!ごめんなさい…!」
自分でも顔が熱くなるのがわかる。栗原の腰を支えて、ちゃんと立ち上がらせてから飲み物のコップを持ち上げた。
「どうだった?」
「想像してたよりも、面白くて…!」
「そりゃ良かった。ももを誘って正解だ」
心からそう思う。出口に空になった飲み物カップを捨て、歩き出しながら感想を言い合って、映画館のロビーに出たらエントランスの大時計が昼の12時を指していた。少し腹が減ったけど、彼女はどうだろうか。
「栗原、昼飯どうする?」「あっ、あの…」
同時に声が重なって、顔を見合わせて笑った。彼女もランチはどうかと誘ってくれようとしていたらしい。純粋に嬉しくなる。
「…俺でよければ、喜んで」
「柏木くんだから、だよ」
そう言われて、一瞬思考が停止する。栗原の顔を見ると耳まで真っ赤になっていた。
「ほら、柏木くんなら!昨日ご飯、食べたし」
「ああ、わかってる。で、何にする?」
劇場を後にしてからも彼女と一緒に居られるなんて思わなかった。万が一ランチでも、と淡い願いを抱いていたが、まさか現実になるなんて。これは…デートと言って差し支えないのかも知れない。漆山、すまんな。
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