最終話 売店の栗原さん
「……っ、」
「おはよう」
暖かいベッド。優しい温もり。
すぐ隣には、彼がいる。
「大丈夫か?その…無理、させたから」
柏木くんの太い腕の中で身動きして、まだ少し重い瞼を上げる。傍に彼の顔が見えて、ひたすら優しく笑った。
「柏木くん…、あっ…!」
「名前で呼んでくれ」
枯れた声で彼の名前を呼ぶと、きつく抱きしめられる。私の素肌に彼の熱い肌が当たって、思わず恥ずかしさに俯いてしまう。
目の下にはクマが浮いていたし、肌もガサガサだ。
昨日久しぶりに、有給を使って仕事を休んだ。
応援で入ってくれた店員さんに申し訳ないけど、出勤できる状態じゃなかったから。
「何処にも行くなよ、
昨日と同じことを言って、私の髪に鼻先を埋める湛くん。私だって、何処にも行きたくない。あの場所に残りたい。それでも叶わないことがあるのは、私だって分かっている。大人だから。それでも、いいの。
私の憂鬱と悲しみは、昨日のチャイムと共に壊された。
× × ×
2月27日。
ピンポン、と鳴らされたドアチャイムに慌てて玄関に向かう。朝早くに来るなんて、1人しか心当たりがいない。
「柏木くん……!」
「すまん。その…すぐおまえに会いたくなって…ももが寝ていたら、起きるまで待つつもりだったんだ」
部屋の扉を開けた途端、彼が中に入り私をきつく抱きしめた。まだ靴も脱いでいないのに、額に頬に唇にとキスの雨を落とされる。
私も唇で柏木くんに応えていたら、柏木くんの分厚い舌先が割り込んで来た。柏木くんがくれる大人のキスは、私の芯からぐちゃぐちゃにするからダメなのに。変な声が出そうになっても、暫くやめてくれない。
ようやく扉にロックを掛けたら、次に彼の唇が私の首筋をなぞった。
「んん…っ…!ふふ、くすぐったい…でも、嬉しい」
「おまえの匂いが恋しくなったから」
「……!」
急に爆弾投下するの、本当に心臓に悪い。それも真剣な表情で言うものだから、顔が熱くなってしまう。それでも、彼の温かさが有難かった。
「体冷えたでしょ?上がってよ」
柏木くんの手を取り、リビングに招く。彼の服装は、初めてご飯を食べた時と同じ格好だった。
「少し狭いけど、寛いでて?今飲み物入れるね」
「ありがとう…急に、ごめん」
「ううん、柏木くん、相変わらず朝早いなぁって笑っちゃったよ」
柏木くんがダイニングテーブルに座るのを横目に、コーヒーを入れる。こんなに朝早く来てくれるとは思わなくて、眠気なんて何処かに行ってしまった。
そう言えば、今日は土曜日だ。普通なら、彼も私も仕事がある筈なのに。
でもひとまず、今は彼の体を温めたかった。
インスタントにはなるけれど、温かいコーヒーを入れたマグカップを彼に渡す。角砂糖のポットと、ミルクのポーションを無造作にテーブルに置いた。
「熱いから気をつけてね?」
「ん」
柏木くんはミルクのポーションを3個、角砂糖を4個入れてスプーンでかき混ぜる。息を吹き掛けて1口飲んで、うまい、と顔を綻ばせた。私は角砂糖2個、ミルクも2個。そう言えば彼の部屋でも、コーヒーじゃなくてカフェオレだったなぁと思い出す。
「柏木くん、甘党だもんね」
「……ブラックなんて到底飲めんな」
「わかるかも。ブラック飲める人凄いよね、カッコいい」
「わ…悪かったな、飲めなくて」
む、と口をへの字にする柏木くんが、たまらなくかわいい。思わず彼の頭を撫でると、くすぐったそうに目を瞑った。子供扱いするなよ、と普段の彼らしくない言葉に笑みが零れる。
「柏木くんはコーヒー飲めなくてもカッコイイよ。だって、柏木くんだもん」
「おまえ、そういう事は…」
顔を赤らめて目線を泳がせている。彼が照れている時の癖だ。こんな表情、私の前でしか見せたことがない。
「…柏木くん、今日、仕事は…?」
「休みを取った」
「っ…!!」
「おまえも休むつもりだったんだろ。酷い顔してる」
私の瞼を親指でなぞって、心配そうな顔をしている。泣きそうになるのを堪えて、柏木くんの手に私の手を重ねた。
「柏木くん、わたし、離れたくない」
「そんなの、俺もだ。でも…売店の改修工事、来月から入ると…火曜には通達を出すみたいだ。その事、なんだけど」
柏木くんの手が、緊張で震えていた。
「……異動願い、明日出そうと思う。次の病院に、院長が推薦状出してくれるって言ってくれたんだ」
「……え?」
「次行くのは、大学病院になるけど…ここから車で2時間くらいのところだな」
一瞬自分の耳を疑った。
この近辺で大学病院のある場所は、ひとつしかない。それも私の故郷だ。
「その病院でも、ちょうど売店の店員を探してて。その、何と言ったら…いいか…」
柏木くんの手が私の頬から離れ、私の両手を握りしめる。その先の言葉を、夢に見ていては儚く散ったその言葉を。
「おまえさえ良ければ…!結婚を前提に…一緒に、生きてくれないか」
「……!」
頭の中が、真っ白になった。
✕ ✕ ✕
2月最後の、28日。
昨日彼女に告げた、結婚を前提にと言う言葉が嫌でも頭の中を駆け巡る。
覚悟はとうにできていた。でも、言い出すタイミングが早すぎやしないかと告げたその言葉が、ずっと頭の中で回っている。
それはもう、相当悩んだ。放射線技師は異動もなければ、昇進も稀だ。それでもこの仕事自体を辞めたくはなかった。患者の異常を見つけ、病巣を探し、医師と共に疾病を壊していく。いつも医療現場の背後にいて、暇なときは暇だし慌ただしい時は徹夜もする。時にはスイッチマンなんて揶揄されるが、俺はこの仕事と、あの職場が好きだ。
でもそれ以上に、愛しいものに出会ってしまった。2年前、何も知らないまま出会った俺たちがこうなるなんて、誰が予想出来ただろう。昨日の朝、急に押しかけた俺を彼女は驚いた顔で出迎えてくれた。甘いコーヒーを飲み、他愛ない会話をして、泣きじゃくる顔を宥める。職場に連絡させて、蕩けるようなキスをして、火照る身体を抱き締めて、それから……。
今、彼女のベッドで俺の腕の中にいた。
「……えへへ」
「ニヤけた顔しやがって」
「だってうれしいんだもん」
実に幸せそうな笑顔を浮かべている。肉の薄い背中から柔らかい栗原の桃尻に手を滑らせると、キャッと甲高い声を出してはしゃいだ。
昨日はその…少し…羽目を外してしまったから、今日は優しくしてやるつもりだったのに。
「んぅ…湛っ、そこ…やぁ…っ」
尻から少し、ズレた場所。寝る前には綺麗にした筈なのに、もものそこはしっとりと濡れていた。
「ん…ねっ、湛……もしかして、絶倫ってやつ…?」
「…しらん、俺に聞くなよ…お前といるとそうなっちまう」
色事と言うよりも好奇心で問われた言葉に笑いながら、指先で彼女を感じる。もしかしたら誤魔化すためかもしれないが…初めて抱いた時も何度となく、眉根を下げて必死に声を抑える姿に溺れたから。
「桃子、愛してる」
何度でも囁いた言葉にももの肩が震える。耳が弱いということは昨夜知った。正確には、耳の周りと溝。耳たぶも良いようで、丸ごと口に含み舌で溝をなぞるだけで。
「ひゃっ……!…ぅ…、だめ…!」
俺の背中に回された、彼女の指が締め付ける感触が強くなる。あれだけ求められて放ったのに、まだ欲しがっているようだ。絡んでくる脚を撫でるために指先を動かすと、ももの気持ち良くなる箇所がわかる。腕の中で震えるのは肩だけから全身に広がった。
「湛くん、大好き……」
あぁ、仕方の無いやつだな。
昨日に引き続き、俺は彼女を貪った。俺の痕跡を彼女の至る所に遺してやる。桃子の身体はどこもかしこも最高だ。
味も匂いも、舌に感じる感触も甘い。
俺の甘党は、やめられねぇな。
× × ×
「ねぇ、ウルシ」
「なんスか」
「もしも、私があの病院辞めたら…どうする?」
「えぇ?そんなん、決まってるっス」
どこまで行っても楓さんを追いかける。決まってるじゃないか。あ、もしかしたら遠距離恋愛も良いかも知れない。たまに会うからこそ燃え上がる恋も…って、何か顔が赤いけど。
もしかして、待ってくれているのだろうか。
「楓」
「……っ!」
「心配しなくても、大丈夫だから」
不安そうに震える手を握る。
いつかそんな日が来るんだって、分かっていたじゃないか。
「楓さん、行きたいって言ってた喫茶店行きましょう」
「え?」
「ゴリゴリに甘いケーキ食べに行くっス!」
彼女に渡すものは準備できている。
何処までも甘党なんスよね、オレ。
× × ×
まぁ、予想は出来たことだった。
はぁぁ。またつまらなくなるなあ。
今日何度目かの溜息をついた。
「幸せが逃げるって、柏木が言ってたみたいよ?」
「ももこさんだろ?言ってたの。ふふ、そんなことないさ。おれの幸せはここにあるから」
「もう、クサい台詞ね」
「そのクサい野郎に惚れた彼女は君だろ」
なぁ、あおい。君はどんな言葉が欲しいんだ?
「あら、当ててみて?」
人差し指を唇に当てて、あおいのルージュが悪戯っぽく艶めいた。僕の大好きな彼女の色。美味しそうなストロベリーピンク。
「君の焼いたパンケーキを毎日食べたい」
「せめて野菜炒めにしておいたら?」
クスクスと愉快そうに笑う笑顔。
その笑顔も、毎日見ていたい。
知ってるだろ、甘党だから。僕。
君の芯まで甘いことは、僕だけの秘密。
「もう、何処触ってるのよ…」
× × ×
3月14日。
引き継ぎも終わって、院内売店の内装工事準備が進むのを遠巻きに見ていた。長く付き合ったあの店とは、もう別物になってしまうのだと思うと少し寂しくなる。
ここに残るウルシや柳原たちは、また遊びに来てくれと笑顔で送り出してくれた。
件の医局長は外科部長になり、医局や全体的な権限は薄くなったが、やる事は山積みでてんてこ舞いらしい。俺がいなくなると知り、急に物静かになったそうだ。
売店からコンビニチェーンへの改築は彼女の目論見だけでなく、入院患者や患者家族、職員の利便性を図るため24時間営業となり、内装や品揃えもガラリと変わるよう院長も進めていたらしい。そしていつの間にか俺と桃子の関係も知っていた。表向きは2人共に退職となるが、推薦してくれた大学病院が猫の手も借りたいくらいに繁忙らしく、桃子の仕事先まで見つけてくれていた。いつものほほんとしているが何者なんだ、あのオッサン。
結果的に患者の為になるならと、彼女も笑顔で最終出勤日を迎えた。退院後、外来で定期検査に来たあの教授のおっさんと元教え子だったその嫁も、小児病棟で入院を続けるスライムも、退院を迎える赤ん坊を抱えた夫婦まで。
口を揃えて「ありがとう」と。
最期のシャッターが降りる最終日の閉店時間間際まで、売店と面した廊下は今年一番の賑わいを見せていた。桃子のヘルプでたまに入っていた店員は、コンビニになってもここで働き続けるそうだ。
「なんだか、色々あったね」
「おまえと出会ったのも此処だからな」
花束やらプレゼントの紙袋を2人で両手にぶら提げて、薄暗い帰り道を歩く。長いようで短かった日々が終わるのと、これから長い…2人の生活が始まるのが同時期なら、寂しさより楽しさが勝って欲しい。何よりも、桃子の笑顔が見たいから。
「ね、湛くん」
「ん?」
「帰り、ラーメン食べて行かない?」
ああ、と言いかけた…と同時に。
背後から小走りで寄ってくる足音が、ふたつ、みっつ。……よっつ。
「ラーメンも良いけど、あそこ行こうぜ?ほら、大漁とか……ナントカ…」
「アンタどれだけ記憶力弱いのよ?」
「じゃあアフターはパパのカクテルね?」
「いいね、そしたら〆にラーメン行こう!」
「み、皆さん早すぎっスよ…ハァ…」
「ここは2人きりになるトコじゃないのか?」
何だかんだと賑やかなまま、ようやく6人揃い連れ立って歩く。
まぁ、いつかの約束をやっと果たせるからいいかも知れない。
桃子が楽しみにしていたトリプルデート。俺たちが引っ越しても、電車を乗り継いだらまた会いに来れる。車でも来れない距離じゃない。その予行練習だ。
「ほら、栗原さん!柏木さん!行くっスよ!」
「くり!置いてくわよー!」
「うん!今行くよ!」
「湛くん、行こう!」
「ああ」
伸びる影を背に、桃子と手を繋ぎ店へと続く道を歩く。
吐く息はもう、白くない。
売店の栗原さん 椎那渉 @shiina_wataru
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