存在しない場所を探して

佐倉真理

僕と彼女の武蔵野論争

「私、武蔵野ってことば嫌いなんですよね」


 僕の友人である円藤沙也加がそう言いだしたのは都内を電車で移動している時であった。

 講義が終わった後、話の流れで井の頭公園に行くこととなった。未解決事件といえば、というあの事件の現場へと向かうためだった。


 その道中、僕がふと「武蔵野」と漏らした。マンションの広告の『武蔵野の森が』というような文面を見て、つい声に出してしまった。


 沙也加はそれを耳聡く聞きつけたのである。


「そりゃまたなんで?」

「存在しないものを、さも在るかのように語っているからです」


 それはオカルトも似たものがあるのではないか。

 僕と彼女の縁はおおむねオカルト話である。宇宙人とか古代文明とか、時々未解決事件とか。そういう、答えの無かったり、見つかりそうも無いものについて語り合うことが多かった。

 オカルトとは、日常を虚構によって飾り立ててくれる物語のひとつである。

 彼女もそういうものが好きなのだと思っていたが。

 しかし、嫌いだという。


「というか、武蔵野って言葉にそういう要素あったっけ?」

「あなた、仮にも日本文学について研究しようという学徒ではないのですか?」

「いかにもその通りだが」

「国木田独歩の『武蔵野』も読んだことがないのですか?」

「買ったけど読んでない」


 僕が正直にそう答えると、沙也加は何やら嬉しそうに「雑魚読書家」だの「遅読」「積読野郎」だのと罵り始めた。彼女の癖である知識マウントが堂々とできることに喜びを覚えているらしい。


「とりあえず、君の言う武蔵野がどういうことなのかちょっと教えてくれないかな」

「つまりですね、武蔵野という言葉は文字通りなのですよ。武蔵国の野原、という意味です」


 武蔵国。律令制によって定められた関東一帯の旧国名である。埼玉県、神奈川県、東京都もまるまる武蔵国の中に入っている。


「しかし、こと武蔵野という言葉になると、そこに含意されるものが変わってくると思うのですよ。エコロジカル、かつのノスタルジックな自然の残る地……というような。反吐が出ますね」

「君、何に怒ってるのさ」

「文明の身勝手さにです」


 円藤沙也加は、妙な義憤を常に覚えている。

 電車は吉祥寺についたが、それでも彼女の妙な怒りは収まらない。


「そもそも、武蔵野市という地名も気に食わないのですよ」


 井の頭公園につけばゴミ箱をのぞき込んで「ありませんね」とか悪趣味なことをしているうちに機嫌が直るだろう、と高をくくっていたが、今回は立地が悪かった。

 井の頭公園は三鷹市と武蔵野市をまたいでいる。となると、そういう情報を示す立て看板もあったりする。


「私たちこそ武蔵野だ、というような顔です。しかしその実態は、里山風景でも森林でもありません。武蔵野という言葉の意味はとっくに解体され切っているのに、実態とは異なった形で酷使されている。いわばゾンビですよ」


 周囲にはカップルたちがあたりを食べ歩きしたり、ボートに乗っていたりする。自然がどうとか、そういうことを考える人は少なそうだ。


「ともかく、私は武蔵野なんてもの認めませんからね」


 彼女の言動は何に起因しているのか、何を求めているのだろうか。



        *



 思うに、彼女の武蔵野への義憤はいろいろな要素が絡まりあっているように感じられるのである。それは武蔵野ということばの持つ多層性の故でもある。


 古来から文学の題材として用いられるような武蔵野。

 近現代の地名としての武蔵野。

 近現代、田園風景へのノスタルジーの代償として語られるようになった武蔵野。

 

 そのいずれもが正しく、どこか歪なものを抱えているのだろう。

 言葉に絶対の正しさなど無い。

 時代や人の好み、流行や文化によって言葉の意味は変わっていく。


「いい感じの落としどころです。私は嫌いです」


 翌日、彼女に僕なりの考えを告げたが、にべもない。


「じゃ、問題を整理していこう。まず文学で語られる武蔵野はどうかな」


 和歌の題材として武蔵野はよく用いられる。

 題材や季語で和歌を検索できるWEBサイトで武蔵野について探して二人で見てみた。


 例えば万葉集は恋の歌が多い。


武蔵野の 草葉もろ向き かもかくも 君がまにまに 我は寄りにし


「私は好きですね。武蔵野の草葉が風に揺られる様と、そのように貴方に寄り添っていきますよ―――という。共依存を匂わせる病みっぷりがたまりません。あ、これはどうです」


武蔵野に 占部肩焼き まさでにも 告らぬ君が名 占に出にけり


「武蔵野で占いをしてたら、名前を言ってないのに貴方のことが出てきたよ、と。古代から恋に狂うと占いにすがるのですね」


 占部肩焼きと言っているあたり、おそらく太占の一種か。獣の骨を焼いて占ったのだろう。占いは人に、みたいものを見せる。ただの亀裂に、読み手は想い人の姿を見た。こういう普遍性が文学の面白いところだと思う。


 それからしばらく、黙々と検索結果をスクロールしていたが、やがて、二つの句を示した。


武蔵野や 行けども秋の はてぞなき いかなる風か 末に吹くらむ

めぐりあはむ 空行く月の ゆく末も まだはるかなる 武蔵野の原


「……これとかどうでしょう」


 沙也加が選んだ二句は、情景描写に関するものだった。

 どこまでも続く野原。

 そこに一人は吹き抜ける風を見て、ひとりは月までの距離を見た。


「行っても行っても行きつくせない。そういう情景を私は武蔵野に見ているのかも知れません。だから、余計に許せないわけですよ」


 やれやれ、これは根が深い問題のようだぞ、と僕は息を吐いた。



        *



 民家園というものがある。

 小学生の課外活動で行った覚えがある。

 当時は退屈に思っていた覚えがあるが、ある程度時間を経ると、そういうものを楽しめるようになった。 

 そういう会話をしていると「そういえば」と漏らす。


「民家園と言えば、そうした、自然環境の中で生活空間を確保するというのも武蔵野的な情景だったのだと思うのですよ」


 来るか、と身構えてやっぱり来た。


「いいですよねぇ」


 ただ、今度は憧憬を募らせてため息を吐くだけだった。

 そういうことがあって、僕は彼女を民家園に誘うことにした。

 近隣に無いか、と調べて見つけたのが武蔵村山の里山民家であった。


 立川駅からバスに乗り換えて30分ほどの場所。六道山公園に付随する施設である。

 そう、僕が提案すると沙也加は「行きましょう」と同意してくれた。




 たどり着いた古民家の内部には各種施設やスポットの案内パンフレットや時刻表が並べられている。

 かと思えばメダカの入った水槽があり、ザリガニの入ったお盆が地面に置かれてもいた。

 裏側には田や森林公園が広がっているらしい。

 実際に行ってみると、無数の稲穂が風に揺られる情景がすぐに見受けられた。


「おおう」

「むぅ。これは確かに、なんだかいい情景ですけれども」


 その稲穂の様子は、古代の素朴な東歌から中世の和歌などに描かれる情景のようだった。

 僕たちの想像する、文字に描かれる情景。それにもっとも近いもの、僕たちが望むものを、この情景に投影して引き寄せている。


武蔵野に 占部肩焼き まさでにも 告らぬ君が名 占に出にけり


 あの東歌が脳裏をよぎる。

 動物の骨に走った亀裂を、自分の望むものとして解釈したように、こうあってほしい、そういう光景が見たい、という願望が現れてるのだろうか。


 秋口の霧雨がふと、顔に掠れた。

 天気は良くない。足元はぬかるんでいて、気を抜くと滑りそうだった。

 小規模な田園のあぜ道を沿う。


 山の間に囲まれた田園を通り抜けると、今度は叢が現れた。

 僕たちの身長ほどもある。

 その隙間から仰がれる白い空には、遮るものが何もない。


「……果てが、ないのですね」


 ほう、と。

 彼女の素直な感嘆が漏れてきた。


「確かに」


 果てが無い。

 僕たちの暮らす場所には、どこかしら遮るものがった。僕たちの暮らす情景には、どこかに灰色の塔が現れる。

 それは不格好で、消費されるためのものばかりだ、と。よく彼女は言っていた。


 叢を抜ける。

 今度は、山々の間に囲まれた林が現れる。


「こういう光景を見ているとさ」

「はい」

「ダイダラボッチみたいな巨人に関する想像も、そう荒唐無稽なものでもないのかなって気がする」


 ダイダラボッチという妖怪について、昔から知識としては知っている。

 たとえば常陸国風土記に記された物語は、貝塚遺跡が文献に残されている最古の例とされている。

 そうした民話のもつ歴史的な意義について疑う余地はない。

 とはいえ、いまいち実感が伴っていなかった。


「なんだか、にゅって出てきそうな気がしますね」

「うん。ひょっこり、顔でも出しそうだ」


 人々の想像の一端を、僕は見ているのではないか。そんな気がしてくる。



        *



 民家まで戻り、二人して縁側に腰掛けた。

 バスが来るまであと10分あったので、自販機で購入した缶コーヒーを飲む。


「探してみれば、意外とあったりするのかもですね」

「武蔵野が?」

「ええ。いろいろな情景のパッチワークになってしまいますけれども」


 武蔵野という言葉の持つ概念はこれから少しずつ消えていくのだろう。

 かつての文学や、言葉や、それに憧れを募らせる人々の概念の中にしか存在し得なくなる。


「そうだ、今度は別の民家園にも行ってみましょうよ。ススキ野も見てみたいです」

「話によると足柄山の仙石原とか、栃木の戦場ヶ原とかはススキ野になってるらしいけど」

「いいじゃないですか。それで行きましょう」


 そういう彼女の様子はどこか爽やかである。

 もしかすると、武蔵野という言葉への怒りも収まったのだろうか。


「まさか。マンションの合間に申し訳程度に植えられた木々のことを武蔵野だなんて言うのは相変わらず趣味じゃ無いです。―――ただ」

「ただ?」

「どこかにあるかも、と思って探すのは、それは楽しいかもしれないと思っただけですよ」


 ―――それは、確かに。

 きっと楽しいだろう、と僕も思った。

 

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