第4話 春の苑で

 こちらを向いた鈴玉は目を見開いて何かを言ったが、香菱の耳には届かない。

 

 鈴玉が右腕にかけている数枚の大きな布が風に翻り、施された刺繍や織り模様が橙色の陽光に映えてひときわ豪華に輝いた。

 頭上の花や端切れの布が見せた錯覚なのか否か、香菱の目には一瞬、鈴玉が春を司る女神か、後宮の妃嬪のように映った。


 彼女は胸をどきどきさせて同輩を見つめたが、はっと我に返った。


 ――嫌だ、気のせいよ。魏内官が変なこと言うから。

 

 香菱は首を横に振って雑念を追い払うと、鈴玉のもとへ駆け寄る。

「何をしてるの、鈴玉。今夜は当直でしょ。鴛鴦殿に遅刻もいいところ、柳女官がかんかんよ。それに、尚服局で他の女官と喧嘩したというから、心配して……」

 

 同輩の小言に鈴玉はすまなさそうな顔をするどころか、にんまりして布がかかった自分の右腕をぽんぽんと叩いた。


「うふふ、喧嘩疲れしちゃったからここで休んでいたのよ。心配しないで。許女官とはもう仲直りしたの。彼女、自分が取った布を全部私にくれたわ」

「えっ。どうして仲直りできたの?」


「あのね、許女官に端切れが欲しい理由わけをちゃんと話したの。『かつて親しかった同輩に端切れで綿袍わたいれを作って送るんだ』って。そしたら『こんな春になって綿袍を作るだなんて、嘘も休み休み言え』とか何とか笑われちゃったんだけど、こっちがあまり真剣だったから、しまいには譲ってくれたのよ。見てよ、どれもこれもいい品でしょう? 許女官には後でちゃんとお礼しなくちゃね」


「お礼は当然だけど、何でこの季節に綿袍なんて……ああ、わかった」

 香菱は、鈴玉が綿袍を作ってあげたい相手が誰なのかを察した。

「いくら銀漢宮ぎんかんきゅうがお山の近くで都より寒いからって、そろそろ綿袍は用なしには変わりないわよ、鈴玉」


 銀漢宮は王室ゆかりの道観で、主上の実の母上と、彼女たちの友人かつ同輩だった薛名月せつめいげつが、道姑おんなどうしとして修行を積んでいる場所である。


「わかってるわよ、でも今から作り始めないと。もし間に合わなかったら約束を破ることになって嫌だもの」

「ええ、あなたは手が遅いから、このままじゃ出来上がりは夏ね。春どころか、夏の綿袍なんて一層おかしいわ」

「ふん、香菱は一人で笑ってなさいよ」

 鈴玉はぷっとふくれたが、すぐに笑み崩れた。


「まあ確かに、夏に綿袍が届いたら明月はきっと驚くわね。でも、彼女は優しいから、いかにも私らしいと思って喜んでくれるはず」

「そうね」

 香菱も微笑んだが、ふと気づいたように言った。


「あ、もし送るなら、王妃さまが七夕の節句に銀漢宮さまに贈り物をするときに、一緒に送っていただいたら? ほら、あなたの里帰りの時にはお父さまの綿袍も自分で持って行けたけど、今度みたいに普通に人伝手ひとづてに送ろうとしたら、荷物の出宮の検査で全部ほどかれて調べられかねないわよ。そんなの嫌でしょ」

「嘘、ほどいて調べるなんてことあるの?」

「ええ。ちょっとでも疑わしいと思われたらほどかれちゃうのよ。だから王妃さまにお願いしてみなさいよ、まず作り上げてからの話だけど。まあとにかく、その話は後にして、いまは早く鴛鴦殿に戻りましょう」

「なるほど、香菱は相変わらず知恵が回るわね……あっ!」

「何よ、いきなり。びっくりするじゃない、そんな大声出さないで」

 

 鈴玉は、ごめんとばかりに舌を出した。

「端切れのことばかり気にしてて、尚衣局から肝心の綿わたをもらってくるのを忘れちゃった。明月には、『うんと可愛い布地を使って、分厚く綿を入れた特別製』と約束したのに」


 香菱はため息をついて、鈴玉の袖を引く。

「今日はもう遅いから、また明日出直しなさいよ。どうせ尚食局の許女官にもお詫びに行かなきゃならないと思うし。あ、その時は王妃さまのお許しをいただいて、私もあなたについて行ってあげる」


「私一人で大丈夫よ、本当に香菱には信用されてないのね」

「信用されてないと不満に思うなら、まず遅刻したり、喧嘩したりしないことね。戻ったら最初に王妃さまにお詫びするのよ、それから柳女官さまにも。まったくもう……私、あなたの心配ばかりしてて、このままだと早く老け込んじゃいそう」

「心配してくれだなんて、頼んでませんようだ」

「まあ、憎らしいわね。あなたって人は」

「痛い! 頬っぺたをつねらないでよ。香菱は力持ちなんだから、頬っぺたがちぎれちゃうわよ!」

「ふん、ごく軽く捻っただけじゃない」

 鈴玉は恨めし気に頬をさする。


「香菱は、そろそろ自分の怪力ぶりを自覚したほうがいいわよ」

「それ以上減らず口を叩くなら、ちぎった頬っぺたをあの細っこいお月さまに投げて差し上げてもいいのよ? そうすれば、あなたも何かというと頬を膨らませる悪癖がなくなって、『河豚ふぐ女官』のあだ名も返上できて、しかもお月さまはまん丸になれて、一石二鳥どころか一石三鳥じゃない」

「香菱に何か言うと、三倍になって帰ってくる。おちおちものも言えやしないったら」

「じゃ、もう二度と何も仰らないでね? 鄭女官さま。鴛鴦殿も静かになって、まことに結構よ」


 女官二人は肘で互いを小突きながら、でもやがて腕を組んで、笑い声を春のそのに響かせながら遠ざかっていく。

 空には気の早い三日月が姿を見せ、後宮に咲く花たちを見下ろしている――。


                              【 了 】

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君は春の歌を知らずや ~『王妃さまのご衣裳係 路傍の花は後宮に咲く』外伝~ 結城かおる @blueonion

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